獣帯の流れ星 1
「いい加減にしてよ。私にどれだけ恥をかかせたら気が済むの!」
メイフェアが食卓を叩き、ぐらぐらと揺れる花瓶をランベルトが慌てて押さえた。
「そんなに怒らなくてもいいじゃん。ちょっと遊んだだけで何が悪いんだよ」
また開き直った。
口をとがらせて言い訳をするランベルトをメイフェアは上から見下ろし、笑みと共にふっと鼻から息をもらすと沈黙する。
けれど、その沈黙は長く続かなかった。
「ちょっとじゃないでしょ!週が明けたら給金がすっからかんっておかしいのよ!あたしを当てにしてるからそうやって計画性なしに遊んでるんじゃないの!」
再びメイフェアがばんばんと食卓を叩き、花瓶を抑えているランベルトを今度は至近距離で覗き込んだ。
隙と暇があれば、ランベルトは賭け事に没頭してしまう。そしてひたすら負け続ける。
「俺だって一応考えてるんだよ。たまたま減ってしまっただけだし、すぐに元に戻るし」
「戻ったことなんて一度でもあったかしら?馬鹿じゃないの、ほんとにあんた馬鹿でしょ!」
ランベルトは花瓶を支えたまま、すぐさま妻に反論した。
「それはないんじゃない?せっかくの休みじゃん?だから二人で楽しく遊ぼうと思って俺はさ、ちょっと増やそうと思っただけなのにさ」
馬鹿呼ばわりされると無性に腹が立つらしかった。
「そのまま素直に持って帰ってくればいいのよ!馬鹿のくせに下手な知恵絞って余計なことするんじゃないわよ!」
花瓶を胸に抱き、ランベルトはすっくと立ち上がった。
「君はいいよね、女官長代理だって。このまま女官長がぽっくり逝ったら、君が一番偉くなるんだろ。それに比べたら確かに俺は地位も給金もたいしたことないし、そりゃあ馬鹿な男に見えるかもしれないけど」
王が率先して質素倹約に努めるがゆえに女官の数は昨年の三分の一に減った。心労と多忙のせいかとうとう老齢の女官長マルタが体調を崩し、必然的に王妃の信頼厚いメイフェアが離宮の奥を仕切るようにはなっていた。
だが、雲行きが怪しい方向へ流れている。
「マルタ様が死ぬわけないでしょう!それに私がいつあんたの仕事を非難したのよ。くだらない自尊心をくだらない理由で勝手に自分で傷つけてたら世話ないわ!だから私に馬鹿って言われるんでしょ!」
「俺だって君に喜んでもらおうと一生懸命考えたんだよ。それなのにさ、久しぶりに会うなり優しい言葉もなくてバカバカ連呼されたら、帰ってきたくなくなるじゃんか」
あくまでも己の非を認めようとしない夫にイライラするのはこれが初めてではないが。
なんだその態度は。馬鹿のくせに。
「だったら何処へでも行けばいいじゃない!副団長って言えば群がってくる子がいくらでもいるんじゃないの!」
「な、なんだよ急に」
「知ってるのよ。あんたこの前、川沿いの店で女の子はべらせてたんですって」
ランベルトのくせに百万年早いのよ。
「あれは違うよ!。たまたま居合わせただけで。一杯おごっただけじゃんか!」
「何かあったら騎士団においで~って。鼻の下伸ばして馬鹿じゃないの!私が知らないとでも思ってるの!」
ランベルトめがけて投げた靴が壁にぶつかり、階段を一直線に転げ落ちていく音が聞こえた。
「なんだよ、なんでそんなに怒ってばっかりなんだよ。俺だって付き合いとかあるじゃんか、それくらいわかんないのかよ」
むっつりとしたランベルトからメイフェアはついと顔をそむけ、荒々しく寝室へ駆け込んだ。
どうせ全部言い訳に決まっている。
枕に突っ伏すメイフェアの耳に、負けず劣らず乱暴な扉の音が階下から聞こえる。
どうやらランベルトは外出したようだった。
***
「ご主人なら宿直所でだらだらしてるんじゃないですか。どうせ行くあてもお金もないでしょうし」
「捕まえてとっちめてやる!」
「落ち着いてくださいまし。お茶が冷めますよ」
王庁の中央庭園でのんびりとお茶を飲むクライシュ夫妻である。
季節は巡り、気がつけば初夏の風が庭をゆったりと吹いていく。
かわるがわる猫が足元をまとわりつき、焼き菓子のかけらをもらっては奪い合いながら食べている。
「それにしてもずいぶん増えましたね」
メイフェアは瑠璃の膝の上で喉を鳴らしている猫をじっと見つめていた。
「ええ、あっという間に」
「貰い手を探したりもしているのですが、限界です。庭師や厨房からも頻繁に苦情が出てるようで」
「担当者は何してるんです」
「何もしてませんよ。むしろ喜んでるんじゃないんですか」
と答えるクライシュもまんざらではない顔を浮かべ、足元の猫にもうひとつ菓子を放ってやった。
「増えないように猫に手術すればいいじゃん。よその国でやってるでしょ、聖歌隊の少年に」
それまで木陰で昼寝中であったロメオがむくりと起き上った。
あくびをするロメオをちらりと眺め、クライシュは淡々と言う。
「プレイシアにはそのような文化がなくて何よりでしたね、君なんて特に」
しばしの間を置いた後、ロメオは悲愴な声で呟いていた。
「いえ、僕は歌が得意でないので……」
「猫もロメオ様もどうでもいいんですけど。あの馬鹿どこに逃げたのかしら」
メイフェアは冷めたお茶を一気に飲みほし、深々とため息をついた。
私以外、皆所詮他人事だもの、のん気なはずだわ。
「もう少し私達の出会いが早ければ、是が非でもお二人の結婚を阻止したのですが。時既に遅しとはまさにあなたがたのこと」
「ランベルトにこのような出来たお嫁さんが来るとは正直私も予想していませんでした」
本気なのか冗談なのかこの夫婦の言葉は真意を測りかねる。
メイフェアは引きつった笑顔を見せながらこれ以上辛辣な言葉を吐かれる前に帰ろう、と思った。
「お二人の感想はいやというほど聞いております。問題は、どのようにしてあの馬鹿を矯正させるかということです」
「今更矯正と言われても、ねえ。一応いい大人ですからね、年だけは」
「ですよね」
こくりと瑠璃がうなずき、二杯目をカップに注ぐ。
「私はどうしたらいいんですか!」
突然大声を上げるメイフェアに三人はびくりと身を震わせ、顔を見合せながら実に息の合った即答を繰り出した。
「てっとり早い選択としては離婚じゃない?」
「私も止めませんよ。あの子は私の教え子の中でも突き抜けてますから」
「あ、でも、一周まわってたまに天才に見える時もありますよ?」
今夜は戻ってくるだろうか。しょんぼりとした子犬のような態度を見せられると、いつものように彼の悪事がうやむやになってしまうのはわかっていた。
だが今回ばかりは毅然とした態度をとらないと。
メイフェアは無意識に親指の爪に歯を立てていた。
そんなメイフェアを見た瑠璃達は「そうとうイライラしているようだ」とそれぞれに思った。
折角の休日だったのに特に予定もなく、結局は王庁でくだを巻いている始末である。
こんな嫌な気分は久しぶりだわ。私が余計なことを言ったからかもしれないけど、でも言わせるランベルトだって悪いんだから。私は全然、悪くない!
痛い、とメイフェアは思わず爪から唇を離し、感情的になっていた自分を恥じた。
王庁の庭園は今日も変わらず美しかった。先ほど庭師のモニカと出くわした時、「気に入ったものがありましたらお声掛けください」と言われたことを思い出し、手ごろな薔薇を物色し始めた。
花を飾って、美味しいパンとチーズを用意しよう。
ちょっとだけなら、謝ってあげてもいい。
山吹色に紅のしずくを落としたような不思議な色合いの薔薇を見つけ、そうっと花びらに顔を近づけた時である。
「メイフェア様?」
見覚えのない青年が、芳しい庭園で自分の名を呼んでいる。
メイフェアは二色の薔薇から顔をあげ、数歩離れた場所で自分を見つめている青年に視線を移した。
その男は自分よりほんの少し年長に思われた。鋭くもなく柔らかすぎもしない瞳に力強さを感じた。そしてほんのりとした懐かしさも。
「あの、どちら様でしょうか」
緊張しながらメイフェアは尋ね、そして先ほどのがりがりと爪を噛む自分を見られていなかっただろうかと次第に赤面する。
「スロのジャンでございます、お嬢様」
メイフェアの肌が先ほどとは異なる赤みがさしていた。
わずかな空白の後、メイフェアは思わず男の手を取っていた。
「本当にジャンなの?」
「お久しゅうございます」
「どうしてここに?」
「お会いしとうございました。ますますお美しくなられて」
「これって、どうなのでしょう。立派に成長した幼馴染と再開。私一度も書いたことありませんけど、現実は小説より奇なりとよく申したものですわ」
「離婚話も現実味を帯びてきたかもしれませんね」
「冗談が過ぎます。お二人はなんだかんだと言いつつも、離れられない運命にありますし」
言い終わらないうちに、瑠璃が「あっ」と驚く声をあげる。
「なんです、自分の予言に迷いでも」
「今、流星が。不吉な……」
「見えるの?」
何も見えない、と雲ひとつない空を見上げ、ロメオは首をかしげている。
「ええ」
小さな瑠璃の背後に、ひときわ大きな男が歩み寄ってきた。
「昼の流れ星か。面白い展開になってきたじゃないか」
エドアルドは、自分より数倍楽をしている人々が忌々しくてならなかった。
エドアルドの瞳が「働け」と無言で語っている。
「見てごらん、あのメイフェアのしおらしい態度を。滅多にお目にかかれるものではないよ」
「またそうやってなんでもおもちゃになさる」
「気持ち悪いくらいもじもじしてない?しかもあいつ、あのメイフェアに向かってだよ。さらっと『ますますお美しくなられて』って。ランベルトよりは確実に大人で賢そうだ。僕は思わず尊敬したね」
ロメオは木の根元にあぐらをかきなおし、薔薇に囲まれた二人を真面目に観察していた。
***
城下の店という店を回り、料理をたんと抱えて帰宅したメイフェアは、浮足立ちながら食事の支度をしていた。とは言っても、購入したものを食卓に並べるだけである。
最後に大理石模様の薔薇を一輪花瓶に活けると、鼻歌を歌いながら長椅子に寝転がる。
昨日は最悪だったけど、今日はジャンのおかげですっかり元気になれた。
だからランベルトと仲直りしてあげてもいい。
ごろごろと体の向きを変えながら、メイフェアは一人の時間をもてあまし始めていた。
そしてまた不機嫌になってきた。
「まさか今日も帰ってこないつもりかしら」
そんなはずはない。どんなに喧嘩をしても必ず先にランベルトがごめんねと言うのだ。
そして今回もそうでなければならない。
階下の扉が開き、階段を駆け上がってくる音がする。
メイフェアはほんの少し緊張しながら長椅子から身を起こした。
そして声をかけようとするものの、ランベルトのしかめ面に思わず言葉を飲んだ。
いつもと違う、刺々しさをまとった視線を自分に向けている。
もしやまだ腹を立てているのでは、とメイフェアも反射的に不機嫌になるが、突然乱暴に腕を掴まれ完全に言葉を失っていた。
「いつもと違う匂いがする。知らない男の」
「あ、えっと、昔の知り合いなの、スロの。……って、別に何も」
誰かに、何かを聞いたのか、それとも庭園での出来事を見ていた?けれど責められるようなことは何もないのに、何故。
しどろもどろになるメイフェアの首筋に、鋭い痛みが走った。
「痛い!何すんのよ!」
メイフェアは思わず泣いていた。噛みつかれたこともショックだったが、いつもと違う荒々しいランベルトが恐ろしかった。
「気に入らない」
気がつけば自分を長椅子に組み敷くランベルトの瞳は、先ほどと同じ鋭利な光を放っていた。
***
「お疲れのようですけど、ちゃんと仲直りできましたか?」
余計な事とは知りながら、クライシュは尋ねずにいられなかった。
「え、ええ、まあ」
「いつもと髪型が違うけど、気分転換とか?暑がりじゃなかったっけ?」
どことなく勢いのないメイフェアを、いぶかしげに見つめるロメオである。
「え、ええ、そうですね」
翌日はクライシュ達も非番であり、メイフェアをなぐさめようと観劇に誘いに来てくれた。
何かがおかしい、と三人は思った。昨夜、更に取り返しのつかないほど激しい喧嘩になってしまったのだろうか、と男達は思うが、瑠璃は眉根をひそめ、メイフェアにゆっくりと近づいた。
そして首筋にかかる豊かな赤毛にそっと手をかけた。
「ちょっと、瑠璃様やめてください!」
あわてて首を隠すメイフェアに、瑠璃は詰問口調でたたみかける。
「なんですか、これ。酷い傷あとになってます。まさかランベルトですか」
困ったようにこくりとうなずくと、メイフェアはもごもごと言った。
「昨夜、ちょっと噛まれて」
「噛んだ?ランベルトが?」
再びこくりとうなずき、メイフェアはどう説明したものかと慌てふためいた。
「まさかまた拾ってきたんじゃ」
ふう、と天井を仰ぐロメオと、互いに厳しい顔を見合わせる夫妻である。
「捕まえます。丈夫な縄はありますか」
「ルゥ、お札は持ってますか?家から取ってきましょうか?」
メイフェアの瞳に映る三人の反応は、実に奇妙であった。
「あの、私は怒ってませんからそこまでしなくても」
メイフェアの取りなす声も耳に届いていないのか、瑠璃は何事か考えているようである。
「それからロッカを。おびき寄せるのに使います」
「あの、さっきから何の話?」
「ランベルトには犬の霊が憑いていたんです。きっちり祓ったはずなのですが、メイフェアからというか、噛み跡から妖しい気が」
犬、と言われてメイフェアはぽかんとしていた。
そして何度かまばたきを繰り返した。
「皆様のお話が見えないのですが。霊とか犬とか言われても、ランベルトはランベルトですよ」
「だって噛んだって」
「そりゃあ私もびっくりしましたけど、ちょっとやきもち焼いただけかもしれないし」
もじもじするメイフェアに、呆れ半分のロメオと怒り半分のクライシュであった。
「なんで照れてるの」
「そういうランベルトも悪くないとか思ってませんでした?」
「私のせいです。私が未熟なばかりに、このような事態に」
落ち込む瑠璃の肩を抱き、クライシュがしみじみと言う。
「心に隙があるせいか、拾いやすい体質なのかもしれませんね」
「騎士団にも捕獲要請した方がいいんじゃない?」
折角の休みが、とロメオはぼやき始めていた。
どうして、こんなおおごとになっているのだろう。
捕獲って、珍獣か何か?
メイフェアは事態が飲み込めないまま、飛びだす三人を見送った。




