君が連れてきた憂鬱 8
「そろそろ帰らねえと、日も落ちてきたことだし。な?」
「いいんです、ヴィンチェンツォ様はタマラ様のところですし」
「総督様はおらんでも、他のあんちゃん達が腹すかせて待ってるだよ。揃いも揃って痩せこけてるんだ、たんと食わせてやんねえと」
大量のたきぎを背負い、ローサは困惑しながらビアンカをを見下ろしていた。
「知りません」
「駄々こねてねえで、ほれ。暗くなったらあぶねえから」
外出前のヴィンチェンツォの様子を思い起こし、ビアンカは大岩に腰掛けて落ちてくる夕闇をじっと見つめている。ビアンカの視線は、眼下はるか彼方の前総督邸に注がれていた。
ローサはたきぎをおろしどっこいしょと隣の岩に腰掛けると、スカートを固く握りしめ射るように村を見下ろしているビアンカの手をぽんぽんと叩く。
「お仕事だって言ってたんだべ?」
「本当にお仕事でしょうか。いつもと様子が違いました。また何か私に隠しているような」
ローサはうんざりしながら適当に相づちを打つ。
「それはおらもわかんねえだよ。気になるなら聞いてみたらいいさ。喧嘩しねえでな」
何を聞いても、肝心なことははぐらかされてばかりだ。だがどうにも、今日のビアンカはいつにも増して胸騒ぎが収まる気がしない。
ビアンカがすっくと立ち上がると、隣に座っていた「犬」も後を追う。
ローサはビアンカの背中に穏やかならぬものが漂っているのを感じながらもひとまず胸をなで下ろし、たきぎを背負い直して立ち上がった。
が、ふいに立ち止まるビアンカの視線の先を追い、ローサも思わず足を止める。
「じいちゃん達、何してるんだ?」
村の老人達がビアンカの行く手を阻み、険しい顔をしてローサ達を取り囲んでいた。
一人の老人が曲がった腰を無理矢理伸ばし、ごほごほと咳き込みながら言った。
「悪く思わねえでくれ。奥様のご命令だ。この娘っこに邪魔されねえよう、交渉が終わるまでちいっとばかり大人しくしてもらうだけだ」
老人達の声が震えているのは緊張のせいではない。
「さ、こっちさ来い」
「ローサ、そこをどけ。おめえだってわかってるだろ?手荒なことはしねえから」
声を荒げる老人達の目の前で両手を広げ、ローサは何度も首を振った。
王都から派遣された新総督の立場は、当然村人達を疑心暗鬼に陥れた。
しかし、顔は怖いが穏やかに自分達と接し、村の発展に尽力するヴィンチェンツォの働きを誰もが認め始め、一番近い場所でヴィンチェンツォを観察していたローサも徐々に安心していたのである。
なのに、どうして。
「ビアンカ、逃げれ!」
ビアンカを追うべく震える足で歩き出した老人を片手でつかみ、ローサは大声をあげた。乱暴に突き飛ばされた老体を助け起こし、仲間の老人達はおろおろしながら抗議の声をあげる。
「年寄りになんちゅうことを。俺達を殺す気か!」
「じいちゃん達こそ間違ってるだよ。こんなやり方したってなんも解決しねえって。おらも本気だ、怪我したくなかったらとっとと家さけえれ!」
何故タマラが自分を、とビアンカは混乱しながら見通しの悪い山の斜面をやみくもに駆け下りていく。
時折かちこちに凍った雪に足を滑らせ、ビアンカはそのつど小さな悲鳴をあげる。
木の根につまずき、ビアンカの体は前のめりに空中を浮いた。声をあげるまもなく斜面を転がり続け、大きな木の幹に受け止められてビアンカはようやく停止した。
雪に突っ伏したまま、ビアンカは拳を握りしめていた。
「犬」はビアンカの周りを悲しげにうろついていたが、ふいに全身を震わせ、何かに呼応するかのように走り去っていく。
立ち上がらなければ。
遠のく意識を取り戻さんと、ビアンカは自分の心に鞭を打つ。倒れたままのビアンカの耳に、何かの足音が近づいてきた。
「しっかりしなさいよ!死んじゃ駄目、目を開けてちょうだい!」
ビアンカは閉じかけた瞳を開き、あたたかな腕の中でかすかに身じろぎをする。
「あらやだ、しばらく会わないうちにあんた重くなったんじゃないの!」
自分を助け起こし真上から見下ろす男の顔には見覚えがあった。王都の豪商、アルマンド・カンパネッラの青い瞳が自分をのぞき込んでいた。
「イザベラ様は?ウルバーノ様は?」
「何言ってるのよ、しっかりなさい!あんたこそどっから湧いて出たの!」
突如アルマンドの目の前に降ってきたのは人間であり、しかも見知ったビアンカであると気付いた時は心底生きた心地がしなかった。
「どうして雪が降っているのですか」
「ここはモルヴァよ、五月まで雪がとけるわけないでしょ」
「モルヴァとは、なにゆえモルヴァなのです」
ビアンカは降りしきる雪を茫然と見上げている。
大粒の雪は絶望に姿を変え、ビアンカの頭上に降り注いでいた。
聖都に雪が降るはずもない。昨日、いや先ほどまで春の冷たい風が海から吹き、そして自分は。
「私、天に召されたのでしょうか?」
「馬鹿おっしゃい!私まで殺さないでちょうだい」
「ではなにゆえ私はここに?もしや陛下のお怒りを買って流刑になったのでしょうか?」
「さっきから何言って……」
ビアンカの記憶が混濁し、自身の置かれた状況が飲み込めていないのだとアルマンドはようやく悟る。
面倒なことになった、とアルマンドは説明しようにも差し迫る危機に追い立てられ、強引にビアンカを立たせて泥を払ってやった。
幸い打ち身だけですんだのか、ビアンカはふらつきながらも一人で歩けるようである。
「細かいことは後で説明するわ。ヴィンチェンツォ様はともかく、ロッカ様達のご無事を確認しないと」
ヴィンチェンツォの名を聞き、ビアンカは痛む頭を押さえながらくぐもった声をもらす。
「閣下はどちらに?」
「女狐にとっ捕まってるわよ!」
「女狐とは」
「ああもう、まわりくどいわね、タマラ・コールよ。あれもイザベラ様といい勝負よ。昔のよしみで近づいて、ヴィンチェンツォ様もお人よしすぎるわ。いくら恋人だったからって油断して、男って本当に馬鹿」
ロメオの執拗な手紙に急きたてられ、道なき道を死ぬ思いで踏破したアルマンドである。
偵察がてら御用聞きに前総督邸に向かったものの、何やら屋敷周辺が物々しい雰囲気に包まれていた。おっかなびっくり遠眼鏡で覗くと、椅子に縛り付けられ憮然とするヴィンチェンツォを発見するに至ったのである。
「昔の、恋人」
ビアンカは夢から目覚めたかのように、その琥珀の瞳には徐々に生気が戻りつつある。
「え、あらやだ」
ビアンカは先ほどとはうって変わり、怒りにその身を支配されつつあるように見えた。アルマンドは今までに見たことのないビアンカの表情に怯え思わず後ずさる。
「そうでございましたか。どうりで歯切れの悪い返答しかしてくださらないはずだわ」
低く呟くビアンカの髪は乱れ着衣は泥まみれであり、見る者をぞっとさせる幽鬼さながらであった。
アルマンドが乗ってきたとおぼしき馬に歩み寄るとくくり付けられていた長筒を担ぎ、ふわりと馬上へ身を預けた。
「ちょっとあんた、危ないからそれ返しなさい、ね、落ち着いて」
しかし、アルマンドの声がビアンカに耳に届いている様子は皆無であった。
「馬をお借りします」
素早く馬に鞭を入れ、ビアンカは一目散に駈け出して行った。
アルマンドはうろたえながらもビアンカが走り去った方向を見つめていた。
その時、奇声をあげながらアルマンドめがけて一直線に斜面を降りてくる生き物がいた。
いのしし、とアルマンドは絶叫しながらへなへなとその場にへたりこむ。
「アルマンドさんでねえの!」
不本意ながらもローサを受け止める形となり、アルマンドはよける間もなく雪の上に倒れ込んだ。
「あんたこそ藪から棒に何なのよ。びっくりするじゃない!」
棒どころか丸太だったわ、とアルマンドは心の中で言い直す。
「ビアンカは?ビアンカを探してるんだ。この辺に落ちてこなかったべか?」
ローサはむくりと体を起こし、きょろきょろと辺りを見回した。
ビアンカどころか、「犬」の姿もなかった。
「追いかけないと!あの様子じゃ下手すると、ビアンカがヴィンチェンツォ様を嫉妬で撃ち殺しかねないわ」




