君が連れてきた憂鬱 7
廊下で足を止め、まどろむような日差しに目を細める一人の女官がいた。鼻歌を歌いながら菓子を運んでいるのは、王妃の侍女であるメイフェアだった。
その匂いをたどるように後ろからふわふわとした足取りでついてくるのは王庁騎士団の副団長でもある、夫のランベルトであった。
なんていい日、と盆に盛られた焼きたての菓子の香りを胸一杯に吸い込むと、メイフェアは早速そのうちの一つを手に取った。
何種類もの乾燥した珍しい果物を練り込んだもので、この離宮でも頻繁に口にできるものではない。
焼き菓子を手渡された夫は妻に向かって不安げにまばたきをした。
非番であったランベルトは休む間もなく王子の子守りにかり出されて離宮を訪れていたはずなのだが、毒見役まで仰せつかるとは思ってもいなかった。
「大丈夫だよ、多分。どこに敵がいるんだよ、今まで大丈夫だったんだからこれからも大丈夫だって」
「いい加減なこと言わないで。用意周到に材料の果物に毒が塗ってあったらどうするのよ。いいから早く食べなさいよ」
無茶苦茶な要求をする妻をもう一度見つめ、観念したランベルトは一気に焼き菓子をほおばった。
万が一ではあるが、自分が死んでしまってもかまわないのだろうか。
「俺が死んだらどうするの」
「どうもしないわよ。あんたなら死なないから大丈夫。いざっていう時はソフィア様が助けてくださるわ」
それなら自分が食べればいいのに、とランベルトは思った。が、言えるはずもなかった。
相変わらず虐げられがちな夫とは対照的に、どこまでも穏やかな冬の午後であった。
数分後夫の無事を見届けたメイフェアは、廊下がやけに騒々しいことに気付き、舌打ちすると勢いよく扉を開け放つ。
「殿下がやっとご機嫌になったばかりなのに!静かにしてよ!」と彼女がぴしゃりと言い終えるよりも早く、廊下が墓場のようにしんと静まり返った。
青ざめた侍従がエドアルドの後ろに控えている。
メイフェアの無礼には慣れていたものの、帰宅するなり罵倒されていい気分ではない。
離宮の主人であるエドアルドのむっつりとした姿に、さすがのメイフェアも慌てて膝を折る。
「ビアンカはどこにいる」
「今日はずいぶんとお早いお帰りですのね」
息子の次は夫の機嫌が悪い。忙しいこと、とフィオナは自分を心の中でねぎらった。
「まさかロッカも共犯なのか」
「お戻りになるなり物騒な。お茶がまだでしたら、ご一緒に」
エドアルドは笑みを浮かべた妻に向き直る。騙す気満々の、さりとて隠しきるつもりは毛頭ないといった実に腹の立つ美しい笑顔である。
「フィオナ、答えなさい」
ただならぬ気配を感じていち早く逃げ出そうとしていたランベルトにすかさず息子を託すと、フィオナはそそと窓際へ移動した。
「好きにしてよいとおっしゃったのは陛下ではありませんか。それを今更」
やはりモルヴァか、とうめくように呟くエドアルドである。
今頃気付いたと、一同はこっそりと目くばせをしていた。
おそるおそる差し出されたお茶を受け取り、エドアルドは「今すぐ連れ戻す」と短く言った。
語気を強めるエドアルドの様子にメイフェアは眉をひそめ、フィオナに助け舟を求めた視線を注ぐ。
フィオナは慎重さを保ったまま、やんわりとした口調で続けた。
「何ゆえこのような時期に。モルヴァは雪深い土地と聞いております。春になってからでもよいではありませんか。それに、彼女が帰りたがるはずがありません」
エドアルドの両手に自然と力が込められ、メイフェアははらはらしながら異国から献上された器の運命を見守っていた。
「ヴィンスも何をやっているんだ。さっさと追い返せばよかったものを」
「そんなの無理に決まってるじゃないですか」
胸に抱いた王子に癖のある髪を掴まれ、ランベルトは笑顔を浮かべつつも小さな手を振りほどこうと必死である。
「もうよい。ヴィンスの奴、どうしてくれよう」
本気の悪い顔に違いないと、ランベルトは思わず身震いをする。
「おやめください。彼に落ち度はありません。陛下はお二人を、ヴィンスを追いつめすぎです。あなたは冗談のつもりでも、私達から見ればまるで猫がねずみをいたぶるかのような酷い仕打ちばかり」
「瑠璃様が喜んでとび付くでしょうね。来年あたり、悪い王様から逃げる恋人達の話が流行りそうだわ」
国王をたしなめる王妃に続くメイフェアの心ない発言に、エドアルドはまたもや傷ついていた。
そんなものは即座に発禁にする、と大人げない言葉を返すのがやっとのエドアルドである。
「お父様は人でなしですねー、殿下はそのように冷酷な大人になってはいけませんよー」
ランベルトはにらめっこをしながら、しみじみと赤子に語りかけていた。
「憎まれ役に徹してくれた宰相様がご不在なんですもの、誰かが代わりを引き受けないといけないものねえ。それとも今まで巧妙に隠してきた腹黒さが露呈しつつあるのかしら」
大胆にも王の前で焼き菓子を立ち食いするメイフェアを咎める者は、もはや皆無であった。
自分抜きで勝手に話を進めるなと折にふれ言い渡してあったはずなのだが、ここにいる人間は誰ひとりとして国王の言葉を尊重していない。
結託した人々が口ぐちに自分を貶めるような発言さえしている。
「私だって落ち着いたら二人を会わせてやってもよいとは考えていた。だが、今じゃないんだ。モルヴァではないのだ。それはヴィンスだってわかっているはずなのに」
何を言っても言い訳にしか聞こえないのだろうとエドアルドは悲しげにお茶を口に含む。
エドアルドは口を閉ざし、淡い空色の天井を見上げていた。
メイフェアはエドアルドが好物の菓子に手をつけようとしないことに気付き、いじめすぎたお詫びを兼ねてそっと菓子を勧めた。
確かに今日の陛下は、普段よりも過敏な空気をまとっている。それはなぜなのかと頭の中でいくつもの言葉をかきまぜているうち、メイフェアは無意識に口にしていた。
「まるでよからぬことが起こるとでも言いたげではありませんか。モルヴァで何が?」
前置きもなく率直に意見を述べるメイフェアに、エドアルドは思わず苦笑していた。
「のんびりした田舎だとでも思っていたか。残念ながら違う」
***
「古いが、いい家だな」
「そうよ。去年の生誕祭の頃はそれなりに華やかで使用人もたくさんいて、こんな寒々しい場所じゃなかったわ」
二人で話したいからとヴィンチェンツォはロッカやロメオの同行を断り、表向きは査定の為一人で前総督邸を訪れていた。
親しき仲といえども、彼らに聞かれたくない話題が出る可能性も大いにある。
居間に掲げられた肖像画には、頭髪がすっかりはげ落ちた初老の男性が描かれている。
タマラは生前の夫を見上げ、祈るように目を閉じていた。
ヴィンチェンツォは前総督と面識はなかったが、これほどまで二人の年が離れていたとは知らず、捨てられた身として複雑な胸中である。
確かに屋敷は総督府に次ぐほどの立派なものではあったが、あくまでも小さな村の中での話である。貧しくはないが王都の貴族ほど羽振りがよいとも思えない。
何よりも衝撃的だったのは、肖像画に記録された前総督の頭頂部である。こんな頭の寒いじじいのどこがよかったのかとヴィンチェンツォは首をひねり、敗者となった自分をいまだに認められずにいる。
「急な亡くなり方だったそうだが、何か持病でもお有りだったか。もしくは事件に巻き込まれた可能性は」
問い詰めるつもりはなかったが、ヴィンチェンツォは知らず知らずに執務中と変わらぬ口調となっていた。
タマラは愛おしそうに肖像画の頬をなで、一度だけ鼻をすすった。
「あっという間だったけど、とても苦しんでいたわ。こんな田舎ではろくな治療法もなくて、ただ死ぬのを見てるだけだった。いっそ私が代わってあげられたらよかった。それなのにあなたは、私が殺めたとでも言いたげよね。冗談じゃないわ、あなたとは違ってあの人は」
殺意を感じさせる瞳で涙ぐむタマラを見つめるヴィンチェンツォは、やはり恋愛結婚であったことに胸をなでおろすが、鈍器で殴られたような衝撃は続いたままである。
「配慮のない言葉ですまない。だからこそ不思議なんだ。俺を捨てて選んだ人だろう。村人が言うように、あなたが計算高い女性とも思えなかった。そう思いたいだけなのかもしれない。でもこの村は豊かではない。総督といえども所詮僻地の役人だ、金目当てなら俺でもよかったんじゃないのか」
それとも人間性、とはさすがに口にしたくなかった。
「そんなに悔しかったの?私に未練があるような言い方するのね」
猫のような瞳をきらりとさせ、タマラはおかしそうに言う。
「誤解させたのなら謝る。そんな気は毛頭ない」
「単にプライドの問題かしら?面白くなくて当然よね」
図星をつかれ、ヴィンチェンツォは押し黙るしかない。
「もうそろそろいいかしらね。買うの買わないの」
それまでの言葉遊びとは明らかに異なる、タマラの地の底から響くような声にヴィンチェンツォは軽く息を飲んでいた。
今まで一切連絡を絶っていたタマラの突然の訪問は、結論として不自然に映る。
裏がなければ女性の身で、わざわざ豪雪地帯まで足を運ぶはずもない。
「ご期待に添えず心苦しいが、この話はなかったことに」
タマラの目線が一瞬だけ宙を泳ぎ、すぐさまヴィンチェンツォの元に帰る。
「お気に召さなかった?昔の女の家なんて住む気にもなれない?」
当たり前だとは言えなかったが、笑みを浮かべる余力を残していたヴィンチェンツォである。
「今住んでいる借家が丁度良い大きさでもあるし。俺と彼女と、少々のおまけでもこの家は広すぎるかな」
「けちくさい男」
「そう思われても仕方がない」
ヴィンチェンツォは口元が痙攣しかけているのを感じずにはいられなかったが、もう一度にやりと笑い返してみせるのであった。
「聞けば国境の鉱山に出資しているとか。生活していけるくらいの収入はあるだろう。借金でもあるのか」
「あなたには関係ないことよ」
「タマラ、あなたの言葉は違和感だらけだ」
タマラは昔の不愉快な出来事をさかんに掘り起こし、ヴィンチェンツォの自尊心に傷をつけるような発言をちくちくと繰り返す。そのくせ自分を頼ってきたのはなぜなのか。
「この村で、ウルバーノは何をしたんだ。どうせろくでもないことだろう。あなたのご主人の死にも、関係があるのか」
「あなた、昔から彼を目の敵にしていたものね。ちっとも変わらない」
その言葉の奥には心なしか悪意が込められているように感じたが、かまわずヴィンチェンツォは続けた。
「長筒を普及させたのはウルバーノか、それともご主人が主導していたのか」
「あなたがここに派遣されたのは、私達を、モルヴァの人間を監視する為なんでしょう。村の者は皆知っているわ」
「わかっていながらどうして。いくら僻地とはいえ、陛下に睨まれたら終わりなんだぞ」
「今まで何もしてくれなかったじゃない。中央から見捨てられた土地よ、なのにここの人たちが干渉されるのを快く思っているとでも?あなただって邪魔になればどうなることか。無害を装った村人に、後ろから撃たれないように注意することね」
タマラの発言は脅迫と取れないこともない。
急速に迫りくるうねるような感情の波に、ヴィンチェンツォは呼吸を忘れてタマラを凝視していた。
「まさか本気で中央に盾突くつもりだったのか」
「さあ、どうかしら」
タマラがヴィンチェンツォに背を向けると同時に、客間にいた使用人達が一糸乱れぬ動作で長筒の銃口を一か所に集中する。
「剣を捨てて。両手を挙げなさい、総督閣下」
甘い声とは正反対に、タマラの瞳は尋常ではない光を放っていた。
「あそこまで喋らせておいて、あなたを素直に帰すとでも思った?鈍いわ、昔と一緒」
「二股かけられていたことにも気付かなかったくらいだ、結構鈍いのは知ってるだろう」
「やっぱり恨みごとが出たわね。本当、小さい」
ここまで人格を否定される何かをした覚えはないのだが、思い出せる気もしない。
そして最後に、弾よけにロッカを連れてくるべきだったと後悔する。
またしても不覚であった。ヴィンチェンツォはテーブルの上に剣を置くが、恐れを知らぬ足取りでタマラの目の前に歩み寄る。
「目的はなんだ。何をしにモルヴァへ帰ってきた」
「それはこれから、じっくりとご相談しましょう。あのお嬢さんが、巫女様がどうなってもいいの?」
途端にヴィンチェンツォは唸るような低い声をもらし、タマラの鼻先に勢いよく指を突き付けた。
「彼女に手を出したら村ごと殲滅する。俺だけじゃない、王都は決してモルヴァを許さない」
タマラの前にいる男の声は、自分の知らない男の声であった。
こんな声だったかしら、と見る者が目を背けたくなるような獰猛な眼差しを一身に浴び、タマラはよろめきながら壁に手をつく。
このような状況でヴィンチェンツォにできることなど何もないはずだ。
勝負はこれから、落ち着きなさい、とタマラは自分自身を戒める。
「無駄よ。あなたや巫女様が行方不明になったとしても、誰も深く考えたりしない。町とはあまりにも違いすぎるんですもの。熊も狼もいる、道に迷えば凍え死ぬような未開の地なのだから」




