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漂う白花 OVERSTUFFED!  作者: 渡部ひのり
Second Take
14/29

君が連れてきた憂鬱 5

 「犬」を抱きしめたまま、ビアンカはずぶりと泥のように寝入っていた。

 「犬」のぬくもりが例えようもないほど心地よく、血の通ったものと寄り添う安心感は、不思議と懐かしい気がした。

 両親と旅の途中、一緒にいた「犬」を思い出した。

 別れの時まで片時も離れずに寄り添い、騎士のように自分を守ってくれた。


 ふいに廊下からくしゃみをする声が聞こえ、ビアンカは弾かれたように身を震わせた。

 あの声は宰相様、ヴィンチェンツォ様だ。

 ビアンカは幾度も目をこすり、扉の向こうにある人の気配を目指してふらつく体を引きずりながら歩いていった。

 再び扉の外で鼻をすする音がした。

「ずうっと、ここにおいでだったの」

「俺の部屋だからな」

 ビアンカは昼間の出来事を思い出し、反射的に不機嫌になる。


「中に入ってもいいかな」

 ビアンカの返事を待たずにヴィンチェンツォは部屋に入る。そして大きなくしゃみを連発した。

「犬」が警戒心を剥き出しにうなり声をあげるが、ヴィンチェンツォは表向き毅然たる態度で寝台の上で胡坐をかくと、新参者の騎士をまじまじと見下ろしていた。

「その犬は、誰かに飼われていたのかな。とても人馴れしている」

「私もそう思いました。でも犬じゃないって、みんなが。犬じゃなかったら、駄目なのですか?食べられてしまうの?」

  

 口元をわななかせてうつむくビアンカを一瞥すると、ヴィンチェンツォは「犬」の瞳をまっすぐに覗き込んだ。

「外で番をしてくれると助かるな」

「犬」とヴィンチェンツォは無言で見つめ合う。しばしの睨み合いの後、先に動き出したのは「犬」であった。

 扉の外でうずくまる「犬」に、ヴィンチェンツォは少々の安堵を込めた視線を送った。

「いい子だ」

 内心冷や汗ものではあったが、多少なりとも人語を解する獣らしかった。

 ビアンカの必死の主張が功を奏したのか、もしかしたら本当に犬なのかもしれない、とヴィンチェンツォはとうとう思い込み始めていた。


 突然腕を強く引かれ、ビアンカはよろめきながらヴィンチェンツォの胸元にすっぽりと納まった。

「無事でよかった」 

「触らないで!離して!」

 先程の「犬」と変わらぬ猛々しさで威嚇し、肩を怒らせるビアンカである。

「嫌だ」

 もがけばもがくほどに、自分の体がますますヴィンチェンツォと密着度を増した。

 ビアンカは心とは裏腹に、「嫌い!大っ嫌い!」と罵りながら拳を振り上げ、ヴィンチェンツォの腕の中で暴れ続けた。


「二度とこんなことはしないって約束するか」

「私悪くないもの!約束できません。しない!」

 顔をそむけて身を固くするビアンカの肩に、ヴィンチェンツォはぽすんと顔をうずめた。

 頑固ではあるが実に今の彼女らしい、素直な反応だった。


「だって、私は本当にここにいていいのか時々わからなくなる。邪魔してないかとか、迷惑じゃないかとか」

「今更誰に何を遠慮する?あなたはいつだって、結局は自分のしたいようにして生きてきた」

「本当はみんなが言うように、私の思い込みなのかもしれないって思う時もあるんです。頭の中に残っている記憶が本当に正しいのか、それとも自分の願望だったのか」


「例えばどのような?」

「あなたと私が二人だけで、お庭にいたり……いろいろな場所で。二人は恋人同士でした。でも本当の私はそうじゃなくて、王宮の柱の影に隠れてあなたをこっそり目で追っていたのかもしれないし、だとしたら気持ち悪いし、見当違いの厄介者でしか」

 それはむしろ自分の方かもしれない、とヴィンチェンツォの目がとっさに宙を泳ぐ。


「俺は最初に、好きだと言ったはずだ。あなたの妄想でも何でもなく、間違いなく俺は」

 最後まで言い終えることもできず、ヴィンチェンツォは「ひっ」と情けないうめき声をあげた。

 驚くビアンカを見下ろしながら、ヴィンチェンツォは申し訳なさそうに自分の背中にまわされた手をゆっくりとほどくと、

「すまない、背中が少し痛いんだ。できれば膝に座ってもらったほうが」

 と弱りきった声を出す。


「傷が痛むのですか」

「寒いとね、少し」

 いつだか偶然見たおびただしい背中の傷跡には、自分の知らないヴィンチェンツォの過去が刻まれていた。

「何をしたら、そんな怪我をするの?宰相様は戦うのがお仕事なの?」

「そうしなければいけない時もあったんだよ」

 王都でのビアンカは、執務室で書類の山に囲まれ絶えず気難しい顔をする「宰相閣下」のヴィンチェンツォしか知らなかった。 


「皆に反対されてもここまで来るなんて、確かに狂ってる」

「ロメオ様も陛下も、ロッカ様でさえヴィンチェンツォ様に会いに行こうとする私を最後まで引き止めました。私、悔しくて。私があの山を越えられるわけがないってみんなが思ってるなら、絶対越えてヴィンチェンツォ様に会おうって、思ったんです」

「体を張ってまでして山を越える必要はなかったんだ。春になっても、俺としては何の問題もなかったし」


「だって悔しいもの!君には無理だよ、って言われたら、ヴィンチェンツォ様だって悔しいでしょう?」

 そもそもかつては頂点を極めた自分に対して、そのような不遜な口をきく輩はほんの数人しかいない。

 そうだな、とヴィンチェンツォは曖昧に返答する。 


 それにしても、無駄に負けず嫌いな性格を頑固と評するとしたら、自分の頑固さなどビアンカを前にすればあっという間に霧散してこの世になかったものになるだろうな、とヴィンチェンツォはまたもや感心していた。

 いや、彼女の頑なさは今に始まったことではない。

 環境次第でいかようにもなる、と誰かが可憐な巫女から慣らしがたいじゃじゃ馬と化しつつあるビアンカを評した時もあった。

 けれどもいかに泥にまみれようと、大輪の華美な花々に囲まれていようとも、ビアンカはビアンカに変わりはなかった。


「あのね」

「うん?」

「王都にいた時、あなただけが私に怒っていたの。他の皆様は『いいよ、ゆっくりすればいいんだよ』って繰り返していたのに、思い出さない私にずうっと腹を立てていたのは、あなただけでした」

 妙なところで聡い、とヴィンチェンツォはビアンカの栗色の髪にそっと口づけた。


「村の皆には謝らないとな。本当に心配していたんだ」

 はい、と小さな声で返すビアンカを抱きしめながら、ヴィンチェンツォは長い一日だった、と心の中で呟く。


「私はヴィンチェンツォ様を信じます。今日のことは、許します。だけど一度だけです、いいですか」

「うん」

 ひねりの無い返答と共に、ヴィンチェンツォの唇が近づいてきた。

 額に、耳に、首筋に、そして対になる自分の唇に触れ、ビアンカは心臓が壊れそう、と荒々しい息を吐く。


 突然嵐のように浴びせられる口付けがぱたりとやみ、ヴィンチェンツォがビアンカの体にずいとのしかかってきた。

 ビアンカは重たいヴィンチェンツォの体の下からようやく這い出すと、瞼をかっちりと閉じた恋人の頬を撫でながら、羽のように軽やかな唇を落とした。

 


***



 ヴィンチェンツォの寝室の前は、相変わらず「犬」が陣取っていた。

「犬」はのっそりと首を上げ、ひたひたと足音を忍ばせながら近寄ってくる人間を値踏みする。

 「人間」は「犬」の前で固まったまま、微動だにしなかった。

 いつまでこうしているのか、「犬」にも「人間」にもわからなかった。

 静寂な戦いが永遠に続くと思われた矢先に終止符を打つかのごとく、背後の扉が突然開く。

 主人の気配を感じ取ると「犬」は琥珀色の瞳を一心に見上げていた。 

 

「おは、よう」

「おはようございます」

 ぎこちない挨拶をするロメオに、ビアンカは恥らいつつも爽やかな声を返した。


「そんなところで何してたの」

「何とおっしゃられても……じろじろ見ないで下さい!」

 ビアンカの振り回した手が、気持ちのよい音を立ててロメオの背中に当たり、ロメオは思わず「ぐふっ」と息を詰まらせていた。

「見なかったことにするね、でもよかったね」

 涙目になるロメオに、ビアンカは最上級の笑顔を向けていた。

「はい!」


「治ったの、よかったじゃない」

 部屋をのぞくと、枕に突っ伏しているヴィンチェンツォがいた。

「治ってない」

「え」

「治ってない。でも今のところ何も問題はない。いつまで問題ないか俺にもわからない。そして早く名医を呼べ」

  

 やけにビアンカは浮かれていたはずだが。 

「よかったね、どうせ夜通し手を繋いで私幸せとかそういう次元なんだろ?」

 ロメオめがけて恨みのこもった羽枕が投げつけられる。

 けれどもすんでのところで、扉は無情にも閉ざされた。


「自分としたことが、うっかりしていました。ですがお役に立てたようで。ですがお詫びのしようもなく」

 鈍い光を放つ銀の笛に愕然としながら、ロッカは自身が守るべき巫女の前でただただ平服していた。

「それ、ランベルトの犬笛じゃないか」

 懐かしいものを見た、と椅子の上で足を組み替えながらヴィンチェンツォは実に感慨深げである。

「鳥笛と間違えました。というか、メイフェア殿にお渡しするものと取り違えてしまったようです」

「ランベルト様?」

 ビアンカが笛を昨晩のように吹いてみると、足元の「犬」が風の化身のように立ち上がった。

 ロメオは困惑しながらヴィンチェンツォ達の反応をうかがうが、誰も何も続けようとはせず、ひたすら「犬」に見入っている。


「あー、うん。何を隠そうランベルトは、犬にも匹敵するすごい能力の持ち主なんだよ。これを吹くとランベルトが助けに来てくれる笛……のはずだったんだけど、さすがにモルヴァじゃ遠すぎるよね」

 ロメオの取って付けたような話にはあまり興味を示さず、ビアンカはひたすら「犬」の背中を撫でつけていた。

「でも代わりに、素敵な騎士が来てくれました」

 ビアンカの足元にうずくまる「犬」が、言葉を受けてちらりと主人に目くばせした。ように見えた。

 

「この件、自分に一任されてもよろしいでしょうか」

 王都にいる友人夫妻は果たして大丈夫だろうか。

 ロッカの不安は目の前のお騒がせな人々よりも遥か遠い地で生活を営む、傍目にはごくありふれた若い夫婦に向けられていた。



***



「獣道じゃないか!熊に出くわしたらどうするんだよ」

「走って逃げるしかない」

「お前、長筒使えないの。お隣のローサちゃんの構える格好はえらく板についてたけど」

「そのうち練習する。面白そうだが、暇がない」

「至近距離では当たりにくいそうです、何か起きたら逃げるしかなさそうですね」

「矢と何が違うの?性能が同じなら安くて軽い矢でいいじゃん!」


 いい年をした男達が口々にわめいていた。

「この子がいますから、大丈夫です。私達を守ってくれます」

 朗らかにビアンカが微笑み、「犬」の耳をそっと撫でた。

 この中で最も威厳を保っているのは愚かな人間共でもなく、自然の支配者である「犬」だとエミーリオは頼りない年上の男達を観察しながら結論づけていた。


 エミーリオは茂みを見つめ、不吉な言葉をもらした。

「今そこに何か、生き物のような気配がしたんですけど」

「やめろよ、まさか本当に熊が」

「犬は何も反応してないぞ」

「むしろ嬉しそうなのは気のせいでしょうか」


 エミーリオの言葉どおり、確かに背の高い枯草を荒らす何かがいた。

 人間に反応したのか、落ち着きなく動き回る音がする。

 その足音は次第に大きなものへと変わってゆく。

 ヴィンチェンツォ達が身構えるよりも早く、突如枯草の塊のようなものが浮上し、その場にいた人間達を一瞬で凍らせた。

 悲鳴を上げる隙も与えず、枯草色の塊は瞬時に身を隠し、派手な音を立てて遠ざかっていった。 

 一同はがさがさと乱暴に草を踏み分ける何かの方向を、思い思いに無言で凝視していた。

 

「今のは何でしょう?」

「熊さん?」

「でっかいみの虫!」

「虫があんなにでかいわけないだろう!」


「妖精」

 エミーリオがぽつりとつぶやき、一同はあっけに取られて音の消えた方向を見つめていた。

「は?」

「のはずないですよね」

 少年は恥ずかしさを隠しながら、「犬」の動きをそっと見守っていた。



「なんだこれ」

 みの虫を恐る恐る追いかけてたどり着いた場所には、小さな小屋があった。

 煙突から噴き出る煙から察するに、みの虫でも熊でもなく人間の住処に違いなかった。

「物語では道に迷った兄妹がお菓子の家を見つけるんです。でも、中には魔女が」

「お隣の国のくだらない伝説?魔女なんているわけが」

 ロメオはぶるぶると震えながら、毛皮の外套を胸の前でかき合わせていた。


「美人の魔女が登場することを祈ろう」

「でも四百才とかなんでしょ。さすがにお相手しかねるんだけど」

 無駄口を叩く余裕がおありで結構、とロッカは言い捨てると、ためらいもなくすたすたと入口らしき戸へ歩み寄った。

 そして一心不乱に扉を叩き続ける。


 人の拳の半分ほどの隙間が開き、長筒がロッカの鼻先に向けられた。同時に男の鋭利な声が響いた。

「誰だ!」

「ロッカです」

「知らん!撃ち殺されたくなければ、とっとと帰れ!」

 けれどもロッカは怯む様子もなく、両手を挙げたまま淡々と語り続けていた。


「ロッカ・アクイラです、父さん」

 長筒の先が徐々に下に向けられてゆくのを、ヴィンチェンツォ達は固唾を飲んで見守っていた。

 ややあって一気に毒が抜けたような声をもらす男に、総督閣下一同はほっと胸を撫で下ろす。

「おう、お前か。後ろにいるのは何だ」

 ぐいと割って入るように視界に侵入してきたヴィンチェンツォを睨み、父はすかさず長筒の先をヴィンチェンツォの顎に突きつけた。


「お前こそ帰れ!何しにきた、この疫病神が!」

「ルチアーノ様!ご命令とあらば、直ちに引き金を引きます」

 若々しい女の声が男の背後から聞こえる。

 そしてもう一つの長筒がわずかに開けられた扉の隙間から飛び出してきた。


「おそらくどなたかとお間違えのご様子ですが、俺はヴィンチェンツォです」

 容赦なくぐりぐりと顎に食い込む筒の先端に、ヴィンチェンツォは全く生きた心地がしなかった。

 死にたくない、しかもこんなくだらない理由で。


「おう、覚えているぞ。息子の方か」

 実際にはほんの数秒の出来事であったが、ヴィンチェンツォには人生で何度目かの「今度こそ死ぬかもしれない」が頭の中を駆け回る時でもあった。

 ルチアーノは長筒を降ろし、ヴィンチェンツォをぐいと抱きしめた。


「こいつのお父さんって、いったいこの人に何したの」

「さあ。疫病神なのは代替わりしても同じなんですねえ」

 数年ぶりの父との再会を深く噛みしめる余裕は皆無である。

 ただひたすら、自分達はいつまで経っても国の生贄でしかない、と改めて悲しい認識をするロッカであった。


 さっきの、妖精。

 ふいに敵対心を含んだ緑色の瞳が、自分のものと交錯する。

 ルチアーノの後ろで相変わらず警戒心をあらわにする少女が、エミーリオは気になって仕方がなかったのである。



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