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漂う白花 OVERSTUFFED!  作者: 渡部ひのり
Second Take
13/29

君が連れてきた憂鬱 4

「私結婚するの」

 ヴィンチェンツォがもそもそと顔を上げると、既にタマラは身支度を終えていた。

 半分夢の中であるのかヴィンチェンツォは何も言わず、寝床から首だけ出してタマラを見上げている。

「だからもう来ないでね」

 サンザシの実のように赤く瑞々しい唇が動く。

 

「え」

 そこで初めてヴィンチェンツォは声らしきものを発した。ただし寝起きのせいか、声は頼りなくかすれている。

「これから忙しくなるから、あなたのお相手してる暇がないの。了承してくださる?」

「急にどうした。何かに怒っているのか」

 他の女官に手を出したのがばれたのだろうか。ヴィンチェンツォは眠気が吹き飛んだのか、むくりと上半身を起こした。

「私があなたに?怒る理由もないでしょう、お互いに」

 タマラの含みのある言い方は、やはり知っているとしか思えない。


 でもあっちは本気じゃないし、本当に火遊び程度だったのだから、いくらでも取り繕える気がする。が。

 言い訳を必死で考えているヴィンチェンツォを一瞥すると、タマラは餞別とばかりに若い男の唇にさしたばかりの口紅の跡を残した。

「じゃあね」

 恋人の後ろ姿を見送り、ヴィンチェンツォは「え?え?」と間抜けな声を出し続けていた。

 しばらくしてから、急すぎやしないか、と自分以外誰もいない部屋でヴィンチェンツォはぼそりと呟いた。

 ヴィンチェンツォ二十歳の痛手であった。



***



 彼女の不意打ちとも思える行動は、今回で二度目だ。

 ぼんやりと過去の苦い出来事を思い出していると、その日もタマラはヴィンチェンツォの執務室にやってきた。

「早速だけど、これが権利書よ。価格の見積りはこちらね。なるべく早くしてもらえると助かるわ」

 村で一番の豪邸を売却せんと、タマラは雪のモルヴァへ足を運んだのであった。

 今年急死した夫の遺産をさっさと整理して、南で余生を過ごす予定であるとタマラは簡潔に告げた。


 エミーリオがお茶を出すと、タマラは懐かしさを含んだ眼差しを向けた。

「あら、ずいぶん大きくなったのね。あなたが学生だった頃によく似てるわ。だけどあなたより素直で聞き分けがよさそう」

「俺は昔から聞き分けがよかったと思うが」

「昔の話をしたいの?あなたがしたいなら付き合うわ」

 しまった、とヴィンチェンツォは即座に口を閉ざした。これ以上墓穴を掘るような発言は避けたかった。


 もともと過去を引きずる性格ではない。

 昔の恋人が目の前に現われ全く動揺していないわけではないが、あくまでも若かりし頃、一時共に過ごしただけである。

 余計なことは考えずにとっとと片付けよう、とヴィンチェンツォは真剣な顔つきで見積書に目を落とす。


 そして記載された金額に「高いな」と苦みばしった声をもらした。

「この価格はどこから?」

 タマラは軽く肩をすくめた。

「王都と、隣町の仲介業者に、いろんな人の。署名があるでしょ。きちんと公正に見積もってもらったのよ」


「少々お時間をいただけるか。即答できずに申し訳ないが」

「前向きに考えてもらえるということ?」

「そうだな。別段はねつける理由もないが、価格は交渉させていただく」

「お返事はいつになるのかしら」

「こいつ次第だ」

 ヴィンチェンツォの隣に座っていたロッカが、かすかに眉をひそめた。

 自分はいったいいつまで、この人の手伝いをすればよいのか。


 用件はすんだとばかりに、タマラは満面の笑顔で立ち上がる。

 連絡してね、とヴィンチェンツォの限りなく唇に近い頬に触れると、タマラは去った。

「彼女が所有する物件が他にあるようなら、その資料も」

 ため息をつき、ヴィンチェンツォは自分専用の椅子に座りなおした。

「こちらです」

 口には出さないが、ロッカがいてくれて本当によかった。

 そうでなければ自ら凍える倉庫の中、資料探しをするはめになったことだろう。


 言葉とは裏腹な態度で、ヴィンチェンツォは興味なさそうに紙の束をぱらぱらとめくっていた。

 金はあるだろうか、と改めて表示された金額に腕組みをする。

 扉がこつこつと叩かれ、ビアンカが大きな包みを手に執務室へ入ってきた。

「今日は胡桃の焼き菓子です!お茶にしませんか?」

 甘い香りに包まれ、部屋中に張り詰めていた妙な緊張感が緩和したように感じる。

 いそいそと包みをほどき、ビアンカはお茶を淹れなおすとヴィンチェンツォの向かいに座った。

 ほどなくして音も立てずに立ち上がり、「それでは失礼します。気をつけてお戻りください」とビアンカは淡々とした態度で頭を下げた。


 ビアンカを見送ると、ロメオは子どもの手のひらの大きさの焼き菓子を半分ほど口に放り込む。

「なんだか機嫌が悪いけど、どうしたんだろう?いつもなら長居するのにね」

 突然扉が開き、ビアンカが執務室に戻ってきた。

 悪口を聞かれた、いやでも別に悪口じゃないし、と一瞬ひるむロメオの横をつかつかと通り過ぎ、ビアンカはヴィンチェンツォの前で立ち止まった。


 そしてやや強引な手つきでヴィンチェンツォの口元を拭う。

 ささやくような声で「付いてます」と言い、ハンカチーフの紅が付着した部分をヴィンチェンツォの目の前につきつけるとくるりと踵を返す。

 固まるヴィンチェンツォに背を向け、ビアンカは今度こそ帰途につく。

 部屋の温度が一気に下降した瞬間でもあった。

 

「うわ、おっかない声。顔も恐かったよ」

 可愛い嫉妬とは言い難い態度に、ロメオも若干怯えていた。

「あんな子じゃなかったのに」

 独り言のようにロッカが呟き、黙々と焼き菓子を口に運ぶ。


「何故もっと早く教えないんだ。わかってて黙ってたんだろう、お前ら」

「自分の座った位置からでは見えませんでした。申し訳ありません」

「僕は雪が眩しくてよくわからなかった。だいたいなんでお前の顔を逐一観察しなきゃいけないんだよ。気持ち悪い」

「えーと、すみませんでした」

 揃いも揃って、自分の肩を持つ気はさらさらないようである。


「俺のせいか!俺が悪いのか!」

「自分の不始末を周りに押し付けて、迷惑千万だよ。またエミーリオが涙目になっちゃったじゃない」

「ですよね、エミーリオに八つ当たりしないでください」

 してない、と声を荒げるヴィンチェンツォを、エミーリオが困ったように見つめている。

 いずれにせよ、昔と変わらず少年に気苦労をかけているに違いなかった。ヴィンチェンツォは「わかった、俺が悪かった」と素早く反省の弁を述べる。

 ビアンカ様がため息をつく度、自分も心が沈む。ヴィンチェンツォ様の目の前では明るく振舞っていらっしゃるけど、最近のビアンカ様はどことなく寂しそう、とエミーリオなりに気に病んでいた。 


「だけど、あれくらいで怒らなくてもいいじゃないか」

 一応同意を求めてみるが、肯定的な発言は聞こえてこない。

「結構嫉妬深い子だったんだね」

「誤解は解かないといけませんね。誤解ならです」

「えーと……早く仲直りしてください」



 逃げるように総督府の建物から飛び出したビアンカに「ごきげんよう」と王都訛りの声がかけられた。

 ビアンカは一度まばたきをすると、「ごきげんよう」と強張った声で返した。

 皆が噂するタマラ・ストールという女性は、村の女性達とは違い、いかにも都会育ちであると全身で表現しているような華やかな人物であった。

 口さがない村の娘達の本日の話題は、前総督夫人の帰還一色であった。

 夫が亡くなった途端に僻地の村から姿を消した薄情な女性であると、あまり評判は芳しくないようだ。

 けれどビアンカに微笑みかけた顔には、親しみやすさが感じられた。


「少しお話ししましょう?ビアンカ・フロース様。相変わらずここは田舎で話が合う人もいないし、退屈」

 目を見開くビアンカに向かって、タマラは愛嬌のある笑顔を投げかけた。

「あなた有名だもの。王都でお見かけしたわ。言葉を交わせて、大変光栄に思っておりますのよ」

 タマラはもう一度、親しみを全開にした笑みを浮かべた。


 幸運なことにタマラはビアンカを詮索するつもりがないのか、話題は自分がモルヴァに嫁いでからの生活に終始した。

 夫が急死したこと、それをきっかけに南にある別宅へ住まいを移したこと、それから遺産整理を済ませる為に再びモルヴァへ戻ってきたことなどを林を歩きながらタマラは語り続けた。 

「だからなるべく高値で、尚且つ時間をかけずに処分したいのよ。総督閣下は高いって文句言ってらしたけど、あなたからもお願いしていただける?」


「どうして私に?」

 ビアンカの声は、未だ払拭できない敵意のようなものが含まれていた。だがタマラは意に介する様子もなく、にこにこと微笑んでいる。

「あなただって、さっさと私に出て行ってほしいんじゃないの。総督閣下を取られたら困るって、顔に」

 初めて会うのにどうしてわかるのかしら、とビアンカは気恥ずかしさを感じながらも素直に驚いていた。


「ウルバーノから聞いていたのと、だいぶ違うわね。イザベラに似て気も強そうだし」

「ウルバーノ様?」

 思いがけない人物の名を聞き、ビアンカは興味深そうにタマラを見つめている。

「私の従兄妹と、お知り合いなのですか」


「あの方がモルヴァにいらした時は、もちろん私もまだここで暮らしていたし、王都にいた頃もね」

「ウルバーノ様は、モルヴァにいらしたのですか?」

 ほんの少し怪訝そうな顔をするタマラに気付き、ビアンカは慌てて話を続けた。

「そういえば、そうでしたっけ。あの、ウルバーノ様は何と」

「世間と同じよ。風に耐える小さな野の花のよう、って。でもそんな顔して私を睨むくらいですもの、言われてるほど儚げでもないわね。お芝居が上手なの?一応褒めてるのよ」


 自分の従兄妹について、ビアンカは詳しくなかった。

 事故で亡くなったとだけ聞かされている。

 それもどのようにして亡くなったのか知らず、ビアンカの記憶にない従兄妹の存在は、心の中で釣り針のように引っかかっていた。一度何気なく尋ねた時、両親がひどく悲しそうな顔をしていた。

 もしや気を悪くしてしまったのだろうか、とタマラは黙り込んでしまったビアンカに「いい意味で言ったのよ」と言葉を変えて付け加えた。



***

 


「私がここにいるのは迷惑ですか」

 ヴィンチェンツォは困惑しきった表情で「どうしてそんなことを」と言うが、ビアンカの静かな迫力に圧されて内心穏やかではない。

「あなたとの繋がりを実感できずにいるからです。昔みたいに戻れたらいいって、嘘です。ヴィンチェンツォ様は全然努力してくださらない。する気さえないんですもの」

 ビアンカの押し殺した声に、ヴィンチェンツォは自分は楽観的すぎたと悟る。


「悪かった。忙しかったのもあるが、寂しい思いをさせてすまなかった」

 腑に落ちない部分もあるが、ここはひたすら謝罪しておこうとヴィンチェンツォは神妙な顔つきになる。

 ついでに彼女から余計な詮索をされる前に自分から話しておく方が賢明とも思い、ヴィンチェンツォは渋々口を開いた。

「タマラのことなら、心配しなくていい」

 だが、ビアンカが懐柔する気配は一向に感じられない。

 

「心配しなくていいとはどういう意味です?」

 刺々しさを残した声色でビアンカは切り返してきた。

 どうしてそこで理解してくれないのだろうか。

 ヴィンチェンツォは気乗りしないものの、慎重に次の領域へと踏み込んでいく。

「昔の知り合いなだけで、何もないから」

 そう、今は何もない。ヴィンチェンツォが半ば自分に言い聞かせる為の言葉でもあった。 


「今夜一晩、私がこちらにいてもよろしゅうございますか」

 それは、と煮え切らない態度のヴィンチェンツォを、ビアンカは悲しげに見つめていた。

「どうして?」

「ほら、エミーリオもいるし、みんないるから」

 何故こんな無駄に積極的なのか、とヴィンチェンツォは予想もしなかったビアンカの発言に衝撃を受けていた。

 たじろぐヴィンチェンツォを睨み、ビアンカはまたもや攻撃的な口調になる。

「そんなの、理由になりません」


「あなたはいつも隠し事ばかり!どうせウルバーノ様のことだって、あなたがみんなに話すなって命令したのでしょう!知ってはいけない何かがあるのですか」

「なんで、ウルバーノの話が」

 動揺するヴィンチェンツォをきっと睨み、ビアンカは一気にまくしたてた。

「タマラ様とお話した時に、ウルバーノ様の話題になりました。あなたは私が知りたいことを何も教えてくださらない。一年経っても、きっと知らないままに決まってるわ。私に知られたくないことが多すぎるからですか」

 呆然とするヴィンチェンツォを残してビアンカは立ち去った。


 一体タマラは彼女に何を話したというのか。

 もしや二人の過去まで洗いざらい話してしまったのでは、とヴィンチェンツォは血の気が引く思いで開け放たれたままの扉を見つめていた。

 まずいことになった、とヴィンチェンツォは文字通り頭を抱えて自分の机に突っ伏した。

 下手に隠すと余計に分が悪い。嘘をつかずに話した方がよいかもしれない。

 けれど既に「昔の知り合いなだけ」と微々たる嘘をついている。そこを責められるのも、耐えられる気がしない。

 何故このような時に限って良い考えが浮かばないのかと、ヴィンチェンツォは自分の愚かさを呪った。


 うめいているヴィンチェンツォの元へ、ロッカがのそりと顔を出した。

「ビアンカがいません。鍋は火にかけたままです」

「さっき大声出してたろ。また怒らせたの。おなかすいたんだけど」

 ロメオがうんざりしたようにあくびをしながらぶつぶつ言っている。

 遠くのエミーリオの声に弾かれ、ヴィンチェンツォは外に出る。ビアンカのものらしき小さな足跡が雪の上に残されていた。足跡は村の一本道に続いて何処までも伸びている。

「少し降ってきてます。空が荒れないうちに連れ戻した方がよろしいかと」

 空を見上げ、ロッカが片手を差し出した。



 どうせ私はあの女の人みたいに大人じゃないし、魅力に欠けるかもしれないけど。

「あんまりだわ」

 ビアンカは頬を伝う涙を拭い、その冷たさに驚く。

「ここは、どこ?」

 風に巻き上げられた細かな雪が、目の前を通り過ぎていった。


 夢中でやみくもに歩いているうちに、完全に道を見失ってしまった。

 少し一人になるつもりが、人家から離れた森の中に足を踏み入れてしまったようだった。

 恐ろしいことに、全方位が同じ風景に見える。

 ここからは明かり一つ確認することはできなかった。

 どうしよう。

 ビアンカは胸元にかけられた笛をじっと見つめる。


 モルヴァで役に立つこともあるやもしれません、とロッカがくれたものだった。

 だけど鳥なんてどこにいるのかしら。

 もしかしたらだけど、何かが助けに来てくれるのかしら。

 

 鼻水をすすりながら、ビアンカは笛に唇をあて、何度か吹いてみる。

 今度は足元を雪だまりが吹き抜けていった。

 当たり前だけど、誰も来ない。ヴィンチェンツォ様も、追いかけてこない。

 あの人はいつもそう。

「結局、追いかけてこないじゃない。私ばっかり、ひどい」 


 ビアンカは木に寄りかかり外套の襟をかき合わせた。

 だけどここで立ち止まってしまったら、二度とヴィンチェンツォに会えない。言いたいことも言えない。

 ビアンカは必死で打ちひしがれる心に鞭を打つ。

 その時、暗闇で何かが光ったような気がした。


 何かいる。

 二つの鋭い光に、ビアンカは目をこらして前方を見た。

 残念なことに、獣の目のようにしか見えない。

 徐々に近づいてくる二つの光から目をそらすこともできず、ビアンカはごくりと喉を鳴らした。



***



 村の集落ではビアンカがいなくなったと大騒ぎになり、明かりを片手に人々が右往左往している。

「いたか!」

「いや、わがんね!まだ見つかってねえべ!」


「本当に山狩りするの?」

 鼻息荒い村人達の様子に、ロメオはいやな予感がしていた。

 まさか自分まで捜索隊に加わるはめになるのだろうか。

 若い衆が不足しているこの村では、当然自分も即戦力として数えられているのだろう。

 ローサがぼんやりしているロメオの肩をとんとんと叩き、すかさず「ほれ」とくわのようなものを手渡した。


「俺が悪いんだ。あんなに怒るなんて思わなかったんだ」

 おろおろしながら身支度をしているヴィンチェンツォを、ロッカがじとりとした視線で一蹴した。

「そんなのはとうにわかってます。言い訳は結構ですから、あなたが率先して山に入ってくださいね。自分はそれほどこの土地に詳しいわけではありませんから」

 ロッカがいつになく冷たい。


「まあ、皆さんおそろいで。こんばんは」

暗闇の中、ビアンカののんびりした声が聞こえ、人々は一斉に振り返った。

 家の前で、村人達が総出で集まっている。お祭りみたい、とビアンカはのん気に思っていた。

「どこさ行ってた!心配したー。みんなで山狩りするところだったべ!」

「ごめんなさい」

 ローサは両手を広げてビアンカに駆け寄るが手前で足を止め、ビアンカを探るような表情で観察していた。


「ごめんなさい、道に迷ってしまって。だけどこの子が道案内をしてくれて」

 先程から、見慣れない生き物がビアンカの足元に寄り添っている。

「ビアンカ、それは?」

 恐る恐るヴィンチェンツォが尋ねると、ビアンカはついと視線をそらしつつ、豊かな背中の毛をなでつけにっこりと微笑んだ。

「お礼を申し上げたいのですが、どなたのわんちゃんでしょうか?とても賢い子ですね」

 ふっさりとした毛皮の生き物を目にした途端、村人達が悲鳴をあげて後ずさった。


「皆様どうなさいました」

 くわやすきなどの農具や長筒を構えてじりじりと後退していく村人を、ビアンカは不思議そうに眺めている。

 ごくりと唾を飲み込み、ローサが皆を代表して言った。

「それは……狼だべ」


「いいえ、犬です。狼みたいですけど、私子どもの頃に飼ってましたから間違いありません」

 危ねえから撃ち殺すか、と怯える村人の声に、ビアンカはとっさに毛むくじゃらの生き物を抱きしめる。

「この子は、私を助けてくれたんです。殺すなんてとんでもない。私が大事にお世話します。人に危害を加えるような子じゃありません」


「いやいやいや、それはどう見ても狼だから。村の人がそう言うんだから」

 なだめるロメオを遮り、ヴィンチェンツォは先程までの情けない態度から一変して厳しい顔つきになる。

「ビアンカ、悪いことは言わない。野生のものは野生に返した方がよい。とにかく山に戻そう。俺も付き合うから」

 集落の近くに狼の群れが出没しているのだとしたら大問題である。総督としての立場上、村人を危険にさらすわけにはいかなかった。


「いやです」

 ビアンカはすうっと立ち上がると、すたすたと家の中に戻っていく。犬と呼ばれた生き物が、当然のようにビアンカの後ろに付き従った。

「この子は犬です」

「駄目だ、返す。何より近くに群れがいるかもしれない。危険だ」

「いや!」

 ビアンカの叫び声に呼応するかのように、「犬」がうなり声をあげた。

 ビアンカは自分に伸びたヴィンチェンツォの手を振り払い、一目散に奥の部屋へと駆け込んだ。激しい音を立てて扉が閉められ、ビアンカの姿は犬らしきものと一緒に消えた。

「うちでは飼わないぞ!冗談じゃない!だいたい、そこは俺の部屋だ。出てきなさい!」

 いやです、というビアンカの大声が廊下に聞こえてきた。


「前にもこんなことがありましたね」

 エミーリオはどんどんと扉を叩くヴィンチェンツォの後姿を見つめ、力のない声で言った。

 犬でも狼でもなんでもいいや、とロメオはあまり関心がないようである。何より山狩りが中止になったことを誰よりも喜んでいた。

「ヴィンスになつけば、文句ないんだろ?」

 隣のロメオに、救いを求めるような顔を見せるエミーリオだった。

「だから問題なんです」 



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