君が連れてきた憂鬱 3
「お気をつけていってらっしゃいませ」
総督府に向けて出立する人々を見送り、ビアンカは深々と頭を下げる。
じゃあ、と背中を向けたヴィンチェンツォの外套をはっしと掴み、ビアンカは無言で幾度かまばたきをした。
「お別れの挨拶は?」
入り口の両端に寄せられた雪山が、朝日を受けて眩しげに煌めいている。
「えーと、そうだな」
朝日よりも眩しい笑顔に、言い訳がましく両目を細めたヴィンチェンツォであった。
何してるのー、とロメオが振り返らずに背中を丸めながら、今にも雪崩が起きそうな大声を出す。
「今行く!」
と、これまた地響きが起こりそうな胴間声で怒鳴り返すヴィンチェンツォであった。
ビアンカの額に触れるか触れないかの短い挨拶を残し、ヴィンチェンツォはロメオ達の後を追っていく。
通りに出て小さくなる背中を名残惜しそうに見送るビアンカの背後に、いつの間に外に出てきたのか、ローサがすかさずずんずんと近づいてくる。
「ぎくしゃくしてるみてえだな。なーんか妙に元気ねえし。おめえさん達、うまくいってねえだか」
「喧嘩もしませんし、仲良くしてるつもりですけど」
「そういう意味じゃねえ。いい人なんだべ?見てりゃわかるべ」
言葉に詰まるビアンカをにやりと眺め、ローサは自分の半分ほどの面積しかない隣の彼女の背中を力強く叩く。
「確かに総督さまはいい男だけんども、おらの旦那にはかなわねえ。まだまだひよっこだべ、おめえさん達は」
奥様でしたの、と驚くビアンカに、ローサは照れながらも力強くうなずいた。
「カプラの鉱山に出稼ぎに行ってるだよ。なんの便りもねえけど。おらも字ぃなんて読めねえべさ、そったらもん送ってこられても困るだけだ」
「ならば、私と一緒に覚えませんか?ローサ様からお手紙を送ることもできますし、旦那様もさぞかし喜ばれると思います」
雲の晴れ間を思わせる笑顔であった。
やっと笑った、とローサは満足げに再びビアンカの背中を叩いた。二度目は少しだけ力加減をしたつもりである。
***
「何してるの」
「ローサ様が、旦那様にお手紙を書くお手伝いをするのです。まずはお手本を作ってみようかと思いまして」
「だんな……様?」
「そうです、ご結婚されてます。ですから、邪まな思いを抱いてはいけませんよ」
「抱かないから大丈夫」
というロメオの苦みばしった声は、ビアンカの「お帰りなさいませ!」とヴィンチェンツォを迎える弾んだ声にかき消された。
ほどなくして居間に戻ってきたビアンカは浮かない顔つきのまま、すとんと椅子に腰をおろした。
先ほどとは様子が違い、気付かぬうちにため息さえもらしている。
「私達、おかしいのでしょうか」
「確かに二人とも変わり者だけど」
「そうではなくて」
墨壷にペン先を入れるが、ビアンカは黙って黒い液体をじっと見つめている。
「ヴィンチェンツォ様は、私を避けていらっしゃるような気がします。他人行儀というか、よそよそしいというか……私が気にしすぎているのでしょうか」
「なんで避けなきゃいけないの?」
「ですから」
手元の墨壷が揺れ、ロメオがすかさずガラス瓶に手を添える。
「何でもありません」
顔をわずかに赤らめ、ビアンカはふるふると首を振った。
なるほど、と呟き、ロメオは「そりゃそうだよね」と早速結論づけたのだった。
ロメオがヴィンチェンツォの部屋へ様子をうかがいに行くと、総督閣下は寝台の上でだらしなく大の字になっていた。
「ビアンカがおかしなことを言ってたよ。お前に避けられてるって」
「普通に接しているつもりだが」
素っ気無く言うと、ヴィンチェンツォはごろりと背を向けた。
昔と違うのは、ヴィンチェンツォに向けられた眼差し及び瞳の種類である。
見ている方が赤面を通り越してうんざりするほどに、その乙女の瞳には期待と喜びと思い込みが満ち溢れていた。
恋する自分に酔いしれる少女特有の、恐ろしいほどに前向きな瞳のきらめき具合であった。
そして瞳を向けられる当事者の方は、突然の天からの贈り物に喜びを隠し切れないはずである。
珍しくヴィンチェンツォが落ち着きなく見えるのも、ひとえに浮かれているせいだと思っていた。それもひと月ほど経つと、彼が妙にそわそわしているのは、怯えに似たもののせいであるとロメオは薄々気付きはじめていた。
しかしながら、王都にいれば泣く子も黙るはずのヴィンチェンツォがうろたえ、怯える理由も皆目検討がつかない。
「確かに俺はおかしい。始めは気のせいだと思っていたが、こうも長く続けば、俺は」
「俺はどうしたらいいんだ」
嫌な展開になってきた、とロメオは思った。
ヴィンチェンツォが自分に助言を求めるなど、今まであり得なかったからである。
いつになく気弱な声色も、ロメオの不安を一層掻き立てていた。
「だから何が」
「駄目なんだ」
むくりと上半身を起こすと、ヴィンチェンツォは覇気のない瞳で前方の壁をぼうっと見つめた。
「立たないんだ」
もう一度聞き返す勇気はわき起こらなかった。
重苦しい空気に包まれ、無言の時間は永遠のようにさえ思われた。
ロメオがようやく口にした言葉は、かわいそう、と世の中で掃いて捨てるほどありふれたものであった。
「精神的なものじゃないの。僻地で不自由な生活をしてるうちに、本当に仙人の域に達しちゃったんじゃ」
「いくらなんでも、まだ、まだ早すぎるだろう?俺はそこまで無欲じゃないし、充分若いつもりだ」
しばらくロメオは肩肘をついたまま考え込んでいた。
「あまり言いたくないんだけど、心の奥底では今のビアンカを受け入れていないとか」
ヴィンチェンツォの返答はなかった。
「否定しないのかよ」
「わからない」
なにやら面倒なことになりつつある、とロメオは直感した。
こいつらに関わるとろくなことにならないどころか、何故か自分まで痛い目をみる。
そこでロメオは都合よく、本来の自分に課せられた仕事を思い出した。
「僕、そろそろ行かなきゃいけないし。どうせならエミーリオも借りていこうか?そうなったら自然と二人きりになるだろ。今まで邪魔してごめんね。心置きなく二人の世界にひたってくれ」
「雪も深いし、そう急がずとも、もう少し暖かくなってから出発したらどうだ」
つくづく、ヴィンチェンツォの作り笑いが痛々しかった。
「二人きりになるのが怖いなんて、俺は微塵にも思っていない」
いつの間にかロメオの肩に置かれたヴィンチェンツォの手に、尋常でない力が込められていた。
意地でも離さないと、ロメオの細い肩にヴィンチェンツォの指先が食い込んでいく。
「痛いよ、わかったからとりあえず離して、肩が折れる!」
「雪がとけてから行け、わかったな」
「そんな無茶な。エディに怒られるよ」
押し問答がひとしきり続き、ロメオはヴィンチェンツォのしつこさに辟易しはじめていた。
「情けない。最初は僕らのこと邪魔者扱いしてたのに」
「否定しない。俺はどうせ情けない」
今度は開き直ったようである。誰か助けてくれ、とロメオは数年ぶりに神に救いを求めた。
「お前、何か知ってるだろう、何か方法はないのか!」
「僕に聞かれても」
「適任者がいるじゃない。ビアンカなら、無理矢理立たせる薬の処方を知ってるんじゃないの」
「彼女に聞けというのか。じゃあお前は、他ならぬ自分の恋人に立つ方法を聞けるのか!」
ヴィンチェンツォの切羽詰った状況は、その身を置き換えてみれば、全くわからないわけでもない。
「僕だったら、なんとなく聞きたくないかな」
「そうだろう!」
「わかったから、落ち着け」
目が怖い、とロメオは食い入るようなヴィンチェンツォの眼差しから自ら目をそむけた。
「思い込めば思い込むほど泥沼にはまるというか、良くない方向に進むんだよ。気にしないのが一番なんじゃないの」
「俺は医者にかかるほど重症なんだ。認めたくはないが、自覚せざるを得ない」
「そこまで酷いなら王都に帰った方がいいんじゃない?」
「立たなくなったくらいで、のこのこ王都に帰れるか!」
「わかったから大声出すな」
「僕が思うに、完全に精神的な歯止めがかかってるんじゃないかな」
ふいにロメオが真面目な顔つきになり、にわか医者のように自論を披露しはじめた。
「生き死にに関わるような状況だったからこその繋がりかもしれない。それがなくなった今、無邪気なビアンカをお前がそれでも必要としているかどうかだ。そうでなければ離れればいい。今のお前に必要でないのであれば」
「立たなくなったくらいでどうして話がそこまで飛躍するんだ?」
「お前が変にいい人ぶるから、僕が代わりに言ってあげたんだよ」
「あの子は、昔の自分を取り戻したくて仕方が無いんだ。お前に愛された自分に戻りたいと思っている、気持ちだけが先走っているんだ」
「俺だって、彼女が一番大事だ、当たり前だ」
ロメオはゆっくりと首を振り、外の静寂な空気に溶け込むような声を出す。
外では、粉のような雪が、音を立てずに降り始めていた。
「違うよ、ヴィンス」
「今の君達は、運命共同体でもなんでもない。自由な一人の人間なんだ。どうあがいても取り戻せないものがある。そこで折り合いがつかないなら、見切る必要もあるんだよ。それがビアンカの為でも、お前の為でもある。過去のつながりにすがりつく必要なんて全然ないんだ」
すぐさま反論するものの、ヴィンチェンツォの声には迷いが満ち溢れていた。
「そこまで割り切れるわけがない。彼女は俺を助けた。誰にもそうは思えないだろうけど、彼女なしに今の自分は存在しない。離れるなんて、あり得ないんだ」
怖いのだ。生死を共にした片割れを失うことに、ヴィンチェンツォは酷く恐れているだけなのだと、ロメオは思わずにいられなかった。
***
ロッカの目線が定まらないのは気のせいだろうか。
目の前の友人の微々たる狼狽ぶりが、ヴィンチェンツォには意外に映った。
「総督閣下にお客様です」
「誰だ」
「ストール夫人です」
ストール夫人とは、昨年急逝した前モルヴァ総督の妻である。
夫が他界した後、暖かい南で療養中と聞いていた。
ロッカの背中越しに、ひょっこりと顔をのぞかせた女性には見覚えがあった。
猫を思わせるような鋭い瞳の持ち主は、これまた猫を思わせるような軽快な足取りでヴィンチェンツォに歩み寄る。
「お久しぶりね」
「タマラ?」
タマラと呼ばれた女性は、素早くヴィンチェンツォの頬に紅の後を残すと、爛々とした瞳で間抜けた顔のヴィンチェンツォを面白そうに観察していた。
「お前、何故俺に知らせなかった」
ご機嫌がよろしくない。
ロッカはヴィンチェンツォの心情を無視して、かつて秘書官だった頃のような事務的な声を出す。
「とうにご存知だと思っていました」
「ご存知って何をだ」
懐かしい。
そして、この反応が久しぶりに面白い。
「個人的にご存知かと。配慮が足りず、申し訳ありません」
「まさか、本当に何もご存知なかったのですか。タマラ様がモルヴァの総督に嫁いだことすら」
「知るか」
「申し訳ありません」
ロッカはわざと言っているのだろうか。
自分の反応を楽しんでいるようにさえ感じる。
唯一ヴィンチェンツォを気遣うのは、エミーリオのみだった。
よくわからないけれど、ヴィンス様がご機嫌ななめなのは、前総督夫人とやらのせいなのかも。
だけどどうして、機嫌が悪くなるんだろう。
ひとしきり考えたのち、エミーリオは「あ、そうか」と独り呟いていた。
そして「そうなのかな……?」と再び確信を持てずに呟き直すのであった。
「お帰りなさいませ」
ヴィンチェンツォの冷えた外套を受け取り、ビアンカはほがらかに微笑んでみせた。
けれどヴィンチェンツォはいつも以上に、気難しい顔をしたままである。
「ヴィンチェンツォ様?」
「ああ、うん、支度ができたら呼んでくれ」
ヴィンチェンツォはぼそぼそとした不明瞭な声を残し、今日もまた自室へ引き上げてゆく。
ヴィンチェンツォを見つめる琥珀の瞳は寂しさをたたえ、一点を捕らえたままであった。




