君が連れてきた憂鬱 2
今日もまた、朝を告げる天使の歌声が雪の上を軽やかに通り過ぎてゆく。
冬眠中の動物達も春の訪れの合図だと錯覚するような、伸びやかな歌声であった。
のっそりと寝ぼけた顔で自分を見つめるヴィンチェンツォに気付き、ビアンカは「おはようございます!」と元気に挨拶する。
ヴィンチェンツォは眩しい雪に目を細めながら、窓越しに無言で片手を振る。
眩しいのは雪だけではない。
雪除け用のショベルを抱えたロメオ・ミネルヴィーノが窓に歩み寄り、「開けろ」と身振り手振りで合図を送る。
しぶしぶ窓を開け放したものの、身を切るような冷たい風が外から吹き込み、ヴィンチェンツォはくしゃみを連発した。
真っ直ぐな瞳でこちらを見ているビアンカが雪に反射した朝日を受け、その姿はますます眩しいものになる。
「王都とは比べ物にならぬ寒さだろうに。慣れないうちは無理をする必要はない」
「いいえ、とてもお日様が綺麗で自然と目が覚めるんです。王都にいた頃より目覚めがいいみたい」
「手伝おう」
「いいえ、ヴィンチェンツォ様はそのままで。朝食の支度も終わっておりますから、後ほど」
「そんな腑抜けた顔してると風邪ひくよ」
二人の間に割って入りたくなるのは何故だろうと、ロメオは今日もまた思っていた。
ロメオに急き立てられ、「では」と屋内へ戻るビアンカを見送りながらヴィンチェンツォは言った。
「ここの生活はそれは平和で、自然と顔も穏やかになるというもの。環境が人を造るのだ」
「敵なんて熊か狼しかいないもんね。獣相手に賢そうな顔する必要ないし」
隣家の娘が大あくびをしながら外へやってきた。
「今日も朝から元気だね」
ビアンカが姿を現してからというもの、彼女の歌声が朝の合図になっていた。
「納屋に見たことのない野菜がありました。ちょっと見ていただけます?」
ローサの声を聞きつけ、再びビアンカが外へ戻ってきた。
ローサは小首をかしげながらも、ビアンカを連れて裏の納屋に向かう。
ヴィンチェンツォが借りている家の持ち主は、ローサの父であった。
ローサは誰に対しても面倒みのよい娘であった。突然現われたビアンカとて、例外ではないようだった。
何かと口と手が出るのは性分らしいのか、生活能力のないヴィンチェンツォにやきもきするのも当然のようである。
この地ならではの野菜や豆などの乾物が、納屋に山ほど貯蔵されている。
ビアンカはひとつひとつを手に取り、「これはどのようにして食べるのですか?」とローサに尋ねていた。
「すっかり馴染んでますね」
賑やかな街を懐かしみ、感傷的になることも幾度となくあったエミーリオである。
ここに来てからのビアンカが、あらゆる物に興味を示しては琥珀色の瞳を輝かせ、一日中笑みを絶やさずにいることはエミーリオにとっても喜びであった。
「怖いくらいに前向きで、逆に不安になるのだが。無理してないだろうか」
窓枠に両腕を乗せ、ロメオはじいっとヴィンチェンツォの顔をのぞきこんでいた。
「無理だったらとっくに山の手前で引き返してるよ。何より繊細な僕がよくぞあの山越えてきたって、自分を褒めてあげたい」
「俺はお前じゃなくてビアンカの話をしていたつもりだが」
真面目な顔だけれど、こいつは何を言っているのだろうか。
ロメオはヴィンチェンツォの発言がにわかに信じがたかった。
こんな男だっただろうか、と腐れ縁のヴィンチェンツォの過去の発言を思い返しながらロメオは一人葛藤していた。
「あの子は普通じゃないから。変人同士お似合いだよ」
ようやく放たれた言葉も、精彩を欠いていた。
「思い込みって怖いよな。わざわざこんな地の果てまで来てさ。勘違いだよって何度も説得したのに、あの子も物好きだよね」
「地の果てではない。モルヴァを馬鹿にするな。少々寒いが、美しい土地だ。それに、彼女は何も勘違いなどしていない。魂が惹かれ合った結果だ」
ロメオは無意識に聞こえないふりをした。
「王都に帰りたがってたくせに、ビアンカが来たらどうでもよくなったの」
「うん」
ひねりのない率直な答えにロメオは嫌味を言うのも忘れ、すっかり毒気の抜けた清々しい顔つきのヴィンチェンツォを凝視していた。
それにしてもビアンカが何故自分に会いにくると決心したのか、ヴィンチェンツォ自身も腑に落ちない部分はあった。
嬉しいことにかわりはないが、一途な思い込みとやらだけでわざわざ僻地へ冒険してくるなど到底思えないのだった。
もしや、記憶を取り戻しているのだろうか。
「恥ずかしくて言えないから、忘れたふりをしているのかもしれない。彼女ならあり得る」
「僕もそれは考えた。でも違うね。思い出してるならあんな手のかかる、向こう見ずな子のままじゃないと思う」
「素直で、前向きじゃないか」
「お前はあの子の恐さをわかってない。『環境が人を造る』は、それこそビアンカの為にある言葉だ。あの子は二度目の十五歳を体験してるんだよ。一度目とはまるきり正反対の人生をね」
そのうちわかるさ、とロメオは限界までに冷え切った体を抱えて屋内へと戻っていった。
***
王都から雅な人々がヴィンチェンツォを訪ねてきたという知らせは、小さな村をあっという間に駆け巡った。
その日の昼過ぎには村の長老から「週末に寄り合いで歓迎会をやるから皆来なさい」との伝言を受け取る。
ビアンカは満面の笑顔で「是非!」と即答した。
「ここで暮らすからには、一日も早く皆さんと仲良くなりたいです」
「帰り道にその辺で寝たりしたら確実に死ぬからな。絶対に寝るなよ」
その夜は吹雪もなく、丸い月が夜道を案内してくれた。月に負けず劣らず力強い無数の星が、夜空を埋め尽くしていた。
王都で見るより星の数が多い気がいたします、とビアンカはヴィンチェンツォの忠告もそこそこに、無邪気に感動していた。
天上の星々に負けぬような煌きを持つビアンカの瞳を見つめながら、ヴィンチェンツォはどのようにして皆に彼女を紹介したものか、とあれこれ考えていた。
楽しい悩みごとでもあった。
「王都の若いもんは、揃いも揃って女みたいに細っこいなあ……でも付く物は付いてるんだべ?」
「あ、私は違います」
終始にこにこと笑みを絶やさぬビアンカに、村の古老達もつられて相好を崩していた。
「これまたこの辺では見かけないようなめんこい子だべさ。おめえさん、まさか」
村の娘達の鋭い視線はビアンカに集中していたが、当の本人はどこ吹く風といった体で、丸太で組まれた集会所の建物を興味深そうに眺めていた。
一方のヴィンチェンツォは、これでようやく煩わしい思いをしなくてすむ、と安堵していた。
彼女は、と言いかけたヴィンチェンツォを遮るごとく、それまで無言であったロッカが間髪を入れず口を開いた。
「私の妹のビアンカです。以前総督閣下のお屋敷でご奉公させていただいたご縁で、今回もこちらでお世話になるというか、お世話させていただくことになりました。皆様どうぞよろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします!」
自然な仕草でビアンカの肩をそっと抱くロッカを、ヴィンチェンツォは長いこと魂が抜けた顔で見つめたままであった。
とぼとぼと帰り道を歩くヴィンチェンツォは終始うつむき、前を歩くロッカの足跡を追っていた。
「お前、どうしてくれるんだ。訂正させる隙も与えず、俺に恨みでもあるのか」
そのくせ、ぶつぶつと嫌味まじりの小言だけは忘れなかった。
「ありますよ」
一方、打ちひしがれるヴィンチェンツォとは正反対に強気な態度に出るロッカでもある。
ロッカは笑いを含みながら、くわっと目を見開くヴィンチェンツォに微笑みかけた。
「冗談です」
「お兄様をいじめないでください」
頬をばら色に染め、ビアンカは懸命に雪道を踏みしめながら二人の後ろを歩き続ける。
「と、妹も申しています」
絶望的な顔をするヴィンスを見るのも久しぶりだと、ロッカは興味深そうにかつての上司を観察していた。
「随分楽しそうだな、お前ら」
ヴィンチェンツォの恨みがましい低い声が、長い時を置かず雪へと吸い込まれていく。
「楽しかったですよ。このように美しい妹がいるのも悪くないですね」
そんなヴィンチェンツォの心情を知っていてもなお、ロッカはどこまでも意地の悪い返答しかしなかった。
「私も!」
追い討ちをかけるような邪気のないビアンカの声が、またもやヴィンチェンツォの心に突き刺さった。
ふいに今までとはうって変わり、ロッカの声が秘書官であった頃に戻る。
「アルマンドと途中の街で落ち合ったのですが、気になる事を申しておりました」
ヴィンチェンツォはその声色につられ、あっという間に王都にいた頃のような鋭利な眼光を放ち始める。
「ビアンカがあなたの弱みになると知れば、必ずや彼女にも危害が及びます。この件が落ち着くまでは、ご辛抱下さい」
そうか、と悩ましげであったヴィンチェンツォは突如ぐいと腕を捕まれ、かかとがつるりとすべりそうになった。
「私はお側にいるだけで、充分でございます」
微笑みながら雪に足を取られ、ころりと雪道に転がるビアンカをヴィンチェンツォは慌てて助け起こす。
「大丈夫か」
しゃっくりを交えながら途切れ途切れに息を吐くビアンカの周りに、白い霞が漂っていた。
ふいにビアンカの体がぐらりと傾き、ヴィンチェンツォはすかさず抱きとめる。
「私は、何も望んでおりません。いえ、確かに私のわがままでここまで連れてきていただいたのですけど。ですから」
「わかったから背中に乗りなさい。転んでばかりでは、いつまでたっても家に帰れないぞ」
嬉々としたビアンカの全体重がのしかかり、ヴィンチェンツォは思わず息を詰まらせ咳き込んだ。
上機嫌で足をばたつかせ、ヴィンチェンツォの首にまわされた腕の力は加減を知らない。
お願いだからじっとしていてくれないだろうか、と鼻歌を歌い始めた巫女様を背に、ヴィンチェンツォはようやくそこでロメオが不在であると気付いた。
「ロメオ様でしたら、手近な宿屋に部屋を取ると。既に泥酔状態でしたからどのみち徒歩は無理です」
エミーリオが病み上がりの青ざめた顔をしていた。いまだ全快ではなかったが、慣れない客人の身を案じて同行する働き者であるのに変わりはなかった。
「宿屋は一軒しかない。しかも肉食動物の棲家ときてるが、放っておいていいものだろうか」
「自分なら、全力で逃げます。雪の中で野宿した方がましです」
今日のロッカもさぞかし居心地の悪い思いをしたであろうと、ヴィンチェンツォは心の中で彼をねぎらってやった。
「たった数時間でよくぞそこまで分析できるな」
「女性陣の目が尋常ではありませんでした。王都のそれとは、比べ物にならないほどに」
「……あいつを助ける義理もないが」
「貸しと言わないヴィンスが善人に見えてきました」
しばし御免、と元来た道を引き返すロッカを、横目で見送るヴィンチェンツォであった。振り返りたくとも、意外と背中の荷物が重かった。
「僕も行ってきますね」
二人に気を利かせたつもりなのか、それとも心底ロメオを心配しているのか判別つきがたかったが、エミーリオは一目散に駆け出していく。
「すみません。今日はとても楽しくて、はしたなくも飲みすぎてしまいました」
「楽しそうでよかった」
「他の方々は顔色ひとつ変えず、水のようにお召し上がりでしたけど、私は大地と空がぐるぐるしています。ヴィンチェンツォ様は、平気なのですか」
「慣れだ。最初は一見水のようでついついあおってしまうが、なかなか恐ろしいものだよ」
こんなに早口で喋る子だったかな、とヴィンチェンツォが違和感を覚えるほどに、明らかに酔いのまわったビアンカである。
「私は、どんな人間でしたか。私に気を遣って、あまり皆様おっしゃらないですけど。時折、昔の自分を見るのです。遠くから見る自分は、私とは違う人間で、驚くことも多いのですけど、それもまた夢を見ているようで、本当に自分だったかどうかも、わからないのです」
話題が変わるのも早いな、とヴィンチェンツォは妙に感心していた。
「同じだよ」
ビアンカの高揚した心を静めるような、どこまでも低いヴィンチェンツォの声であった。
「確かに感情表現の度合いは以前とは違うかもしれないけれど、内に秘めたものは何一つ変わっていないと俺は思う。あなたがここまで来てくれたのは、今一度の機会をあなたの神が俺達二人にお与えになったからだと。あなたの無理のないよう互いに……昔の二人に戻れたらいいね」
「ビアンカ?」
安らかな寝息が、凍む空気に溶け込んでいく。
やっとの思いで告げたのに。そこだけは、聞いていてほしかった。それなりに気恥ずかしかったのだが。
俺に二度も言わせる気か、とヴィンチェンツォはげんなりしながらも、背中を伝わってくるぬくもりにこの上ない幸せを感じていた。




