八十九、 福玉
天香は後宮の一角を歩いていた。
采嬪にもう一度話を聞いてみようかと玉楼舎に知らせてみたのだけれども、采嬪は不在だった。
まず殿舎にいるだろうと予測のつく玉柚のほうがどちらかといえばおかしいのであって、妃嬪が全員全く何の予定も無く過ごしているわけではない。
しかたなく、一度自分の部屋に戻ろうとして角を曲がったところで、ひとりの女官とぶつかりそうになった。
「あっ、ごめんなさい」
「ああ、こっちこそ――申し訳ありません、失礼を致しました」
言葉の途中で、反応が変わった。
女官は手を合わせ顔を伏せて、貴人に対する礼をとる。
その彼女の声に、天香は聞き覚えがあった。顔ははっきりとは見ていないが、この声は。
「……福玉?」
「御意にございます。公主妃殿下」
女官働きをしていたころの――正確にはその前に顔見知りになった同い年の女官、福玉だった。
少なくとも知らない仲ではない。
当然あの女官房からもしばらく足が遠のいていたことだし、と天香はつい気安く声をかけた。
「久しぶりね、福玉」
「そうでございますね」
「えっと……」
「何か?」
完全に仕事用の、貴人に対する受け答えの口調だった。
当然ではある。自分は女官の天咲ではなく、公主妃天香なのだ。他の殿舎に勤めていて直属というわけでもない女官である彼女が、往来で平然と口答えできるわけがない。
知り合いだからと気をゆるめ、気軽に声をかけてしまった自分が猛烈に恥ずかしくなった。
かあっと頬に朱が走る。
そして同時に、同じくらい寂しくもある。
気付けば、天香は福玉の肩に手を置いて、同じようにひざまづいていた。
「あ、あの?」
困惑したように福玉が声を漏らす。当然だ。
当然でない振る舞いをしているのは天香のほうだ。
うなだれたまま、天香は言った。
「普通に、平に、話して」
「でも、あなたは公主妃殿下でいらっしゃ――」
「わかってる! わかってるけど、そうやってかしこまられるのってなんだか……」
無理を言っているなあ、と自分でも思う。
けれど、何枚も壁のあるような話し方をされるのは好きではない。それが一旦は親しくなったと、少なくとも自分はそう思っていた相手なら、なおさらだ。
「お願いだから普通に話して、いえ、話していただけませんか、この通り!」
「……あなた、変わってるわよね……」
拝み倒すどころか頭まで下げる勢いの天香に、福玉は――かなり呆れ混じりに――言った。
「――で、何か用なの、天咲?」
人目を気にしながら立ち上がって、抑え目の声で福玉は言う。
さいわい近くに人の気配はないが、それでも気を配っているに越したことはない。
「あの、私の名前、本当は天香というのだけど」
「知ってるわよ公主妃殿下。でも、妃殿下じゃなくて女官仲間の天咲だと思わきゃ敬語で話しちゃうでしょ。逆に妃殿下のときにも普通に話しかけちゃうかもしれないし」
「あ、はい」
彼女なりに気を使ってくれているのだ。
ありがたくもあるし、ちょっとだけ歯がゆくもある。
「その――ごめんなさい」
天香は謝罪を口にする。
気を使わせたことにではなく、もっと前のことに対してだ。
「なにがよ」
「だからその――公主妃だって言えなくて、言わなくて、ごめんなさい」
成り行きと事情があったとはいえ、あの女官同士のお茶会にいた面々に対して、自分の立場も、そして名前も偽っていたことに、天香は引け目を感じていた。
今日このときが、ちょうどいい機会だと思った。
天香は深めに頭を下げる。膝をついてもいいほどと思っていたけれど、流石にここではできない。
「ちょっ、や、やめてよ」
「でも――」
「いいから。そもそも謝る必要もないわよ、事情はわかるし――あのね?」
「はい?」
「なんとなくうすうす、わかってたもの」
視線を合わせて言われた。――その一言にとっさには頭が追いつかず、天香は凍りついた。
「……はい?」
「確信はなかったけどね」
「えっ、えっ?」
なんで、どうして、と天香は口走ってしまう。
最初に顔見知りになったときも、場慣れと勉強のためにと女官勤めをしているときも、もちろん誰にも漏らしていない。
そんな天香に、だってあなた、と福玉は肩をすくめながら、
「蓮泉殿の御方については口が重くなるのに、公主さまのことは顔を輝かせて喋るでしょ。最初は御方については喋らないように止められてるのかと思ったけど、あとから考えたら、そりゃ自分のことは自分であけすけには言えないわよねえ」
福玉の口からすらすらと言葉が出てくる。その流暢さは、今考えながら話しているようなものではとてもない。元から思っていなくては出ないだろう。
「そ、そんなに、私って――?」
「わかりやすいでしょ。わたしでも、ああこの子、蓮泉公主さまの事が大好きなんだなあって思ったもの」
妃とまでは思っていなかったけど、と福玉は付け加えた。
「……真っ赤になってるけど、何、自分で気づいてなかったわけ?」
「やめて……」
天香は何とか言葉を絞り出す。
顔を抑えてその場に座り込んでしまいたい。穴があったら入りたいというのはまさにこういうときのためにある言葉だと思う。出来ればその上から土をかけて埋めてほしい。その後で自力で抜け出せる程度に。
「もしかしてそれ、他の人にもわかってた……?」
「全員ではないけどね、例えば――」
そう言って福玉は二人ほど名前を挙げる。どちらも聞き覚えのある名だった。
天香は頭を抱えたくなる。
「もう……妃じゃなかったら、なんだと思われてたわけ?」
「そりゃあ、ほら、ただの侍女じゃないっていうか」
「ただの侍女じゃないって、じゃあ」
何なのか重ねて問おうとしたところで、福玉がいきなり腰を折って言葉遣いを改める。
「――では、いったいいかような御用向きでございましょう?」
何かと思った天香も、一瞬あとに気づく。
角の向こうから声がしたからだ。
そのままの姿勢で、何か女官が用事を言いつけられているだけですよとでも言いたげに、通りがかった数人の集団をやり過ごす。
距離が離れたのを見て、福玉はもう一度天香に向いて言う。
「――それで、ほかに御用は?」
「え?」
やり過ごすための方便ではなかったのかと思い、天香は訊ね返す。
疑問符を浮かべる天香の前で、もう一度膝を突くと彼女は。
「公主妃殿下がこのようにお一人でお出ましになられたご理由を、できましたらお聞かせ願えればと――」
「わあ、やめてやめて!」
焦る天香を見た福玉が、袖で口を押さえて軽く吹き出した。
「それで、噂でも何でも調べてみようか、って」
後宮に流れている噂を、特に妃嬪に関するものを、調べているのだと天香は打ち明けた。
采嬪本人に聞くことができないのなら、その周りにあるものを探す。後宮でその手がかりになりそうなものといえば――噂、ではないか。そして、そういうものに詳しいのは、いつでも女官たちだ。
福玉に会ったのは偶然だが、同時に好機だとも思った。
誰の噂を、とは言わない。もちろん呪詛の話もだ。
それは言うまでもなく、軽々しく口に出してはいけないことだろう。福玉の口がわりと軽くないのは知っているが。
「でも福玉は――明梅舎だったっけ。じゃああんまり知らないか……」
「ははあん。李妃さま派の話ってことね」
にやっと笑みを浮かべて、したり顔で福玉は頷いてみせた。
福玉の出仕先、明梅舎の陸嬪は洪妃の派閥である。もちろん対立しているからと言って全く交流が無いというものでもない。後宮の広さにも限りがあるし、そんな所で暮らしていてまったく関係を持たないということはむしろ不可能だ。妃嬪たちは反目していても、その下の女官くらいになればそこまでのことはない。それこそ、宮中に入りたてで侍女や女官たちが無駄に気を張っている、なんてことでもなければ。
あのお茶会にも、何人か李妃派の殿舎に勤める人間もいたはずだ。
「そうだけど、詳しくは言えないの」
「気をつけなさいよ。その一言で立派に噂になっちゃうわよ」
「……そうなの?」
「後宮の噂なんてそれくらい軽いものなんだから。一を十とか二十とかに膨らませて話す人もいるしね。あたしはそういうのどうかと思うけど」
「同感……」
発端がそれでも、口を経るごとに尾ひれ背びれではすまないほどに飾られていくのだろう。
さすがに二十というのは言いすぎではないかと天香は思ったが。
あごに指を当てて、福玉は目を宙に走らせて言う。
「んー、そうねえ。李妃派といえば……あー」
「何か、心当たりがあるの?」
「うーん、あるといえばあるような」
福玉にしては煮え切らない返事だった。竹を割るというか、藪を切り払うというか、そういうはっきりしたところが身上のはずなのに。
「……あんまりいい噂じゃないわ。それこそ、わたしがどこでお勤めしてるか知ってるでしょ?」
ああ、と天香は合点が行く。つまり、勤めている殿舎の主の競争相手を追い落とす、そのための告げ口のように聞こえはしないか、と思っているのだ。
「告げ口ってわけじゃないんでしょう? それだけでどうこうしようとは思ってないし――そもそもそんな権利、私にはないんだから」
「では、殿下は?」
「殿下は――この件は、私に任せる、と仰っているもの」
嘘ではない。実際一人でやってみろと言われている。すべて任せてもらったと言い張れなくはない、はずだ。
鄭玉柚に助言を貰ったのはどうなのか、とかは考えないようにする。
だが、それで安心したように、福玉は切り出す。
「なら――采嬪さまの噂は、知ってる?」
その言葉に、どきりと心臓が飛び上がりそうになった。
匂わせてさえいないはずなのに、まさにその采嬪の名が最初に出てきたのだ。驚くなというほうが無理がある。
なんでもないようにつとめて、少なくとも言葉には出さないようにして、天香は聞く。
いっそう声を潜めて、福玉が答える。
「何か、あったの?」
「それがね――最近、李妃派のなかで浮いているらしいの」
「采嬪さまが? どうして?」
「そこまでは知らないけど、李妃さまの不興を買ったんじゃないかとかなんとか」
「不興を買って、孤立……」
天香は小さく繰り返す。
采嬪に尋ねることが、もう一つできてしまった。――いや、心当たりという意味で、大きくみれば同じことだろうか。
暑さを残した風が、わずかに吹いた。
采嬪こと采祥雲の住まう玉楼舎に、監察御史が踏み入ったという一報が入ったのは、翌朝のことだった。




