八十八、 呪詛のかたち
「だからさ――これは『見せるための呪詛』だよ」
ひらり、と扇を持った手首を返して、鄭玉柚が言った。
呪詛について調べるとは言っても、さて何を調べればいいのか。
第一段階から早くも蹴つまづいた天香が頼ったのが、玉柚だった。
「――何でうちを頼ってきたんだ。任されたのは公主妃なんだろう?」
単身安秀舎を訪ねた天香を迎えた鄭玉柚は、話のさわりを聞くと、顔をしかめてそう言った。
今日も整えていない髪を後ろで緩く結んでいるだけの、とても年頃の女性とは思えない格好だ。
服装も、いつもどおりの色の濃い上下に、さらに短衣を軽く上に羽織っているだけの軽装。
「なかなかに博識のようだから、何か手助けになるんじゃないの、と、殿下が」
「何が手助けしないだしっかり手助けしてるじゃあないか。かっこつけすぎだろう、君の殿下は」
「そこがいいんですよ」
「はいはい」
つい軽く言い返してしまったが、これは事実なので特に赤面もしない。
「あまり便利に使われるというのも癪だけど」
「使いますよ。後宮であなただけ何もしてないんですから」
ただの客人という扱いで滞在している彼女に、宮中でするような仕事は特にはない。
旧知の李妃あたりと座興に興じるかとも思えばあまりその様子もない。
基本的には安秀舎に引きこもっている。
一言で言えば暇そうである。
玉柚を選んだ理由は、もちろんそれだけではない。
妃であることを明かしてから、天香は前以上に機会を見つけては妃嬪と会話を交わそうとはしていたが、それでもまだまだ打ち解けるというまでには至っていない。
そうでなかったとしても、李妃派洪妃派のいずれにもこんな話は向けにくい。どちらにも入っていないと目されている妃嬪であっても同じだが。
その内でも特に洪妃派にこんな話をすれば、またなにか揉め事になりそうなのは目に見えていた。采嬪は李妃派の人間だからだ。
そもそも、妃嬪たちは一番に疑いの目を向けるべき存在でもあった。
わかりやすい言葉でいえば、容疑者ということになる。
妃嬪を呪うというなら、まずありがちなのは――と、采嬪と話しながらそうこぼしかけたのは、自分では気乗りがしないと言っていた当の麗瑛だった。それを口ではたしなめながらも、天香自身否定しきれないでいた。
けれど、とそこに割って入ったのは采嬪本人だった。
「けれど、そうとも思えないのです。妃のかたがたどちらかならともかく、わたくしを呪ったところで……というのもございますし。それよりも、ただただ気味が悪い、というか」
確かに、とその言葉に天香はうっかり頷いてしまい、麗瑛に肘でつつかれた。
帝の寵を特別集めている妃嬪が嫉妬から呪詛されるならわかる。お芝居なんかでもよくある筋書きだ。しかし今のこの後宮では、誰か特定の妃嬪が寵を受けているわけではない。李・洪の二妃はともかく嬪たちは――正確にはそのうちの二、三人を除いて――日夜やきもきとしているが、それが実を結んだという話は残念ながら聞こえてこない。
そんな現状で、采嬪だけを特に呪詛するほどの理由がとくに見当たらない。それを本人さえ理解しているというのに、呪いの人形は事実ここにあるのだ。
気味が悪い。はっきりした理由があるよりもなお悪い。
――再び転じて、安秀舎。
寝椅子のうえでだらりとだらしの無い姿勢のままで、興味なさげに玉柚は言う。
「そもそもさ、博識とか言われるようなことをしたつもりはないよ」
「ですよね。頭がよく回る、ならともかく。――殿下にはそう申し上げたんですけど」
「……うん、まあ、そっちは素直に褒められたと受け取っておこうか」
ずいぶんとわかりやすい反応だった。
案外、根は素直なのかもしれない。そもそもこの人も貴族のお嬢様なのだ。諸々あって言葉を少し捻らずには言えないだけで。
もちろんそんなことを素直に伝えることはせずに、天香は本題に入った。
そして、結論として玉柚が口にしたのが先ほどの、『見せるための呪詛』という言葉だった。
言葉の意味をつかみかねて、天香は訊ねる。
「ええと、それってどういう?」
「言葉通りの意味だよ。お前を呪っている人間がいると見せつけるための、もっと言えば脅しってことさ」
「喧嘩したあとの捨て台詞みたいな……」
「……いや、それはちょっと違うような気がするけども」
天香が思ったのは、例えるなら「おまえなんかきらいだ!」とか「おぼえてろよ!」なんて言葉だ。
近所の悪ガキ……やんちゃなお子様にぶつけられたことも幾度とある。いや、面と向かってぶつけられていたのは子供時代の――本人さえまだ公主だと知らなかったころの――麗瑛のほうで、天香はといえば大体はその後ろで怖怖と見ていただけだったけれども。
要するに、嫌っていると相手に誇示することのほうが主な目的で、呪詛そのものはどうでも――よくはないにしても、二の次ということだ。
「呪うだけならそこらの林の中とか、人に見られない場所でやってもいい。穴に埋めたり川に流したりもするはずだ。人形にこだわらなければ、不届きだけれど道観とかどこかの祠に行って相手の不幸を願ってもいい。単に人形に名前を入れて、殿舎の床下に投げ込んだだけの時点で、誰かが見つけることを期待してるんだ」
その言葉は言われてみればもっとも、と思える。
「それが見せるための呪詛、ってことですか。……でも、御自分は信じていないというわりにはお詳しいんですね」
「うちの軒下にもこういうのが投げ込まれてたこともあるからさ。でも、このとおり自分はピンピンしてるよ。だいたい、今どき呪詛なんて頭から信じてる人間がそれほど多いとも思わないけどさ」
さらり、と不穏なことを言ってのける玉柚。
彼女が鄭家を継いだときにあったらしいあれこれの一端を垣間見た気分だった。
とはいうものの、本気で信じているわけでないというなら玉柚のみならず天香だってそうだし、『依頼人』である采嬪本人すら、呪詛そのものよりもそれをした人間のほうが気になると言っていたほどなのだから。
しかし、目に見えないものは怖い、というか気味が悪い。
それは天香が幽霊が苦手なことと同じだ。
えたいが知れないからこそそれに怯え、あるいは逆に目に見えないからこそ頼りたくなる。
そういうものなのだろう。
「でも、本人には心当たりはないって仰ってましたけど」
「心当たりがなくたって呪詛されるときはされるさ」
「それも、経験談ですか?」
「……そうだよ」
すこしだけ苦い顔になった玉柚の反応を見るに、あまり触れないほうがよさそうだ。
本人に心当たりがなくても――というのは十分ありえることだろう。それこそ、心当たりのない噂を立てられている自分たちも同じことだ。采嬪にも同じようなことが起きているのだとしたら――放ってはおけない。
思案に暮れていた天香に、玉柚が声をかけた。
「――しかし、君の殿下もなかなかに甘いところがあるよね」
「はあ?」
急に麗瑛のことを持ち出されて、天香は疑問符を浮かべる。
麗瑛が自分を甘やかしているのは周知の事実だし、ここでいきなり切り出す必要があるのか、と。
しかし、玉柚は。
「だってそうだろう――」
言いながら、玉柚は寝椅子の上に身を起こして、天香の側に身を乗り出した。
手に持った扇の先端が、天香の顔の下、頤にぴたりと当てられる。
玉柚はさらに顔を近づけて、その整った顔に薄く笑みを浮かべて言う。
「君をひとりでこんなところに来させて、無事に帰らなかったらどうするんだろうね?」
天香は――その言葉に、すぐには反応しなかった。
出来なかったのではなく、しなかった。
そうしてじっと、近くにある玉柚の瞳を見つめる。
すっと空気が踊って、前髪がその風に遊んだ。
「――そんなことするほど考えなしじゃあないでしょう、あなたは」
「ほう?」
「もし私に何か不埒をしたら、殿下は容赦なくあなたを後宮から叩き出しますから。それはあなたの望むところではないんですよね? 私なんかよりそちらのほうがあなたには大切なこと、でしょう?」
天香は重ねて訊く。
玉柚は小首を傾げて訊ね返す。
「それが君の殿下の意向か?」
「殿下と私の意見です」
瞳を逸らさずに、天香は言い切る。
ぶつかり合った視線を断ち切るように、先に動いたのは玉柚だった。
パッと身を翻すと、裳裾が乱れるのも気にせずに寝椅子にふんぞり返って、つまらなそうな声を上げる。
「あーあ、つまんない。すこし艶っぽく迫ってみたのになあ」
あれで、という言葉を天香は飲み込む。
ちなみに天香にいわせれば、さっきの玉柚と同じ振る舞いをしたとしても、麗瑛のほうが何百倍も艶がある。
「からかわれただけだってくらい、私でもわかりますって。それとも、女なら誰でもいいんですか?」
「誰でもよくはないけれど、何人いてもいいよね」
「男なら?」
「もっと誰でもよくない。……あ」
恨めしそうに、玉柚は横目で天香をにらむ。
「引っ掛けたな」
「いえいえ、ただ気になっただけ。でも、正面から聞いてもはぐらかされそうだったから」
目の前で玉柚が侍女の唇を奪ってみせたときに、天香が感じた違和感。
そしてさっきからの会話でも同じように感じたそれ。
自分たちと同じだと、つまり、同じように女を好いている人間であると示す態度が、言葉を選ばずに言えば――『行き過ぎている』と。
芝居がかった彼女の振る舞いに、一度は誤魔化されかけたけれども。
否。
誤魔化せても誤魔化しきれなくても、彼女にはどちらでも良かったのかもしれない。
顔はこちらをじとりとねめつけるけれども、その声色はからりとしていた。
「別に――女が好きなわけじゃないんでしょう?」
「いやあ、好きだよ? 女の子は誰だって可愛いじゃないか。君もそのうちの一人だけど」
「それはお断りします」
「おいおい」
玉柚は呆れたように肩をすくめた。
「――何人いてもいいと仰るわりには、ここに連れてきたのは一人なんですね」
「ああ、まあね」
天香たちの目の前で唇を奪われていた彼女のことだ。
今日も茶杯を持ってきて下がっていった。
貴族家の当主というのなら、もっと大勢の侍女を連れていてもおかしくはない。天香たちでさえそうなのだから。
「ひとりでは手が足りないことはありませんか? なんでしたら数人お付けしても――」
「いや。尚寝、だっけ? 掃除には当番で来てくれてるし、それは大丈夫なんだけど。……なんなんだい、急に?」
不思議そうな――不審そうな玉柚に対して、天香は言った。
「客人が不自由でないかどうか訊いただけです。お忘れかもしれませんけど、後宮の差配は私と殿下の仕事ですからね」




