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公主殿下の寵姫さま  作者: 有内トナミ
四章 来訪 編
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八十三、 謎の女の独り舞台



 橙色の瓦の上に腰掛けた彼女は、黒かった。

 薄紗うすぎぬの黒い長さんを羽織り、その下の丈の短い裙も、ゆったりとくつろげた胸元に見える背子はいしも黒い。背子には鮮やかな赤の縁取りが入り、長衫を腰の辺りで留めている帯もやはり同じように黒地に赤い線が入っている。

 黒くないのは長衫の袖の下から見える細い筒袖の薄い色の襦と、裙の下に見える飾り気のない生成りの(ズボン)くらいだった。


 その彼女が登っている塀は、人の背の高さよりも高い。倍とまでは行かないが、いっぱいに背と手を伸ばして飛び跳ねても瓦の最下段に手が届かない程度にはある。

 そんな高所にどうやってか腰掛けて、一面からの注目を浴びている。

 しかし彼女は視線など全く気にした風もなく、そこに集まった人間を見下ろし……おそらく見下ろしていた。おそらくというのは、彼女は髪を前も後ろも長く垂らしていて、顔は鼻と唇以外はすっかり隠れてしまっていたからだ。なんとか判別できる髪と首の角度から、たぶんその髪の奥から道を見下ろしている、と判断できる。

 簪や歩揺といった髪飾りはおろか、紐でくくる事さえしていない流しただけの髪は、しっかりとくしけずれば艶やかに光るだろうと思われた。そんな様子を見てあらぬものを連想した人がいたらしく、


 「幽鬼……?」


 小さく誰かが口走るのが聞こえた。確かにそう思えないこともない。しかし例えそうだとしても、こんな陽の光がさんさんと照りつけている、しかも大勢の人前に出てこられても怖くもなんともない。


(鬱陶しくないのかな、あの髪……)


 天香はそちらのほうが気になった。暑苦しくて切りたくならないのだろうか。

 平然としているように見えるが自分なら鬱陶しい。

 ――それに、手入れする侍女も大変だろう。


「まあそう思いたければ幽鬼でもいいんだけど」

 聞き逃していないぞと溜め息混じりに、猫が鼠をつつきまわすような口調で言う。


「だいたい君たち、ここをどこだと思っているんだ? ここは後宮だろう。この国で最もすぐれた女が集まっているんじゃなかったのかね? どうでもいいことでわあわあきゃあきゃあうるさいったらないよ。こんなところで騒いでても意味なんてないだろ。少し考えればわかりそうなもんだけどな。ほら野次馬は散った散った、うるさいだけだからさ。何か言いたいことのある人だけ残ればいい」


 すらすらと淀みなく言葉を吐いて、散れ散れと手の振りで示す。

 さらに駄目を押すように、

「従わないなら何が怒るかわからないぞー。なにせこの身は幽鬼らしいからねえ」

 誰かの失言を蒸し返して、これ見よがしに唇を吊り上げて笑って見せる。しかし目元は相変わらず見えない。

 そんな彼女の言葉に従って、というよりもどちらかといえば気圧されて、その場を離れる人たちが出ていた。


「……では、私はお先に失礼しますね」

「劉嬪さま!?」

 黒の彼女の呼びかけをいい機会とばかりに、わざわざ言ってきびすを返した。

「――あら? あなた、李妃に恩ある身ではないの?」

「だって私、ただの通りすがりですし。それに誤解なきように言っておきますけど、私、李妃さまとは実家同士も付き合いがありますけど、別に臣下になったわけではないので――ね」


 昭華の問いかけにも北方系の涼やかさをたたえたまま返して、では、と一礼するとすたすたと去っていく。

 恩ある身というか臣下然とした二人の嬪もいっしょになってなんとなく見送ってしまっていたところに、瓦の上の異装が座ったままで声を上げた。下にズボンを穿いているとはいえ、立て膝のその様子は行儀のいいものではない。


「だいたい無関係の連中はいなくなったかな。んじゃあ――そこの」


 言い放った言葉と共にゆるりと動かされて不躾に突きつけられた指は、采嬪をびしりと向いている。

 『そこの』呼ばわりなどされたことすらないだろう貴族育ちの采嬪は(いや、平民育ちの天香だって、混み合った市場くらいでしかそんな呼び方をされたことはないけれど)、辺りを二度三度と見回してから、恐る恐る自分を自分で指差した。


「そう、そこのあんた。あっちのが毒を仕込むとかさあ、好き放題言ってるけど、そんなわかりやすいことを仕込むほど暇人なのかい、妃ってのはさ」


 言うだけ言って、わずかに首の角度を変えて、昭華のほうへと首を向ける。

 『あっちの』呼ばわりされた昭華は、しかし片方の眉を吊り上げただけで軽く腕を組んだ姿勢で瓦上の怪人…怪女?を見据えている。


「そっちだってそうだよ。あんたたち反目してんだろ? そんなところに果物ぶら下げてくるとか無用心だよ。実際こんな風な下衆の妄想で突っかかってくるやつがいたわけだしさ」

「あら、見舞いに来るのがいけないというの?」

「見舞い自体は別に好きにしたらいいさ。見舞いの品の選択が駄目だって言ってんの。それにこんなのに捕まっても相手にしないでとっとと行けばよかったんだ。君のほうが妃で上なんだからさ。そっちもそんなに気になるならこんなところで食って掛からないで一緒に行けよ鬱陶しいな。そんなこともわからないで上を狙うつもりかい? ――ああそれと、李妃ならただの傷風だよ。そこの公主殿下は御存知だろうけど」」


 洪妃は、言い返されて手に持ったかじりかけの梨と、籠の中の果物を見る。

 不躾に呼ばれながら言い返せるのはやはり武家育ちの度胸、なのか。『そこの』に続いて『こんなの』呼ばわりされた采嬪は、口をぱくぱくと開け閉めさせることしかできないでいる。

 小ざっぱりとした口調でハキハキと話しているからうっかり聞き逃しそうになるが、内容はわりあいひどい。

 軽くため息をついて、麗瑛は采嬪に向かって言う。


「悪いけれど、李妃本人もそう言っていたわ。太医も傷風かぜと判を捺したと」

「し、しかし――」

「あなたも李妃の近くにいるという自覚があるなら、御本人に聞けばよかったのじゃなくて?」


 なおも抗弁しようとする采嬪に止めを刺すような言葉を、麗瑛は無造作に投げつけた。

 采嬪は今度こそ沈黙する。さらに追い討ちをかけるように、瓦上の彼女が得意げに。


「というわけで、こっちとしちゃあそこでぎゃあぎゃあわめかれて迷惑千万なだけでね。静かに去ってくれればありがたい――って、なんだかんだもう八割くらいはいなくなったじゃないか。良い良い。そうやって納得して鎮まってくれればいいんだ。もちろん最初から煩くしないでくれるのが一番いいんだが。あー残りもはやくいなくなってくれないかなー」


 最後のほうはものすごく芝居がかった棒読みで言う。

 断じて違う。納得してというよりはあなたに気圧されて、あるいは怯えて、ぶっちゃけて言えばドン引きして、触らぬ何とかでこの場から逃げ出したのだ。

 よっぽどそう言ってやろうかと思ったが、そうするとそれはそれでまた何倍かの淀みない反駁が帰ってきそうだったので、天香は傍観を貫いた。


「――あなたの理屈はよくわかんないけど、そりゃ、もともとの理由はお見舞いよねえ」

「行くのですか、姉さま!?」

「だってせっかくここまで持ってきたんだもの。勿体ないじゃない」

「ですが――」


 ぐずぐずと言いかける蘭嬪、額を押さえたまま固まっている筆頭侍女(いつもご苦労様です)を差し置いて、昭華は歩き出す。

 天香の傍らを通り過ぎるところで、彼女は唐突に言った。


「あそうだ、結婚おめでとう!」

「あっ、はい、ありがとうございます」


 手紙も貰ったのに、いまさら何だ、という疑問が顔に出ていたらしい。

 ぱっと破顔して彼女は言う。


「直接言いたかったのよ」

「……」

「どうしたの?」

「いえ、その、ずいぶん屈託なく言われたので……」

「他の人に、何かつまらないことでも言われた?」

「ええと、その……驚かれなかったのですか?」


 ええまあそんなところです、などとは言いづらい。

 天香の質問に、きょとんとした顔で昭華は。


「驚いたわよ? でも好きなんでしょ? 強引に連れて来られたとかでもなさそうだし、あなたたちを見てれば好きあってるくらいはわかるわよ。そういうの、聞かないわけでもないしね」


 実際に結婚まで言うのを見たのは初めてだけど、と小さく付け加える。


「じゃ、あた……私はもう参ります。またね、公主妃殿下。……さ、行きましょうか采嬪、徐嬪?」

「なぜあなたにそんなことを言われなきゃいけませんの!?」

「あらあ、一緒に行ってお目付け役をなさるんじゃなかったのかしら?」

「うぐっ……」


 わざとらしい口調。明らかな挑発だが、采嬪は口ごもってしまって言い返せない。

 しまいには本当に渋々という態度で、昭華の後に続くしかできなかった。そのさらに後に徐嬪も、少し剣呑さを含んだ視線を天香に向けながら続いて、天香たちが今さっき出てきた栄寧殿に入っていった。


 わずかの間に主だった人間がいなくなり、ずいぶんと広くなった空間を見下ろして、瓦の上で彼女が立ち上がった。慣れているのか不安定な足元だろうにその所作に乱れはない。そんなところで乱れがないのもどうなのか。


「ほら、さっぱりした。きれいになると気持ちがいいもんだ。じゃ、こちらも失礼し――」

「待ってください!」

「天香?」


 くるりと背を向けかけたところで、天香は彼女を呼び止めた。

 半身の体勢で、彼女が見下ろしてくる。髪の毛に隠れて目元は見えないままだけれど。


「あなた、鄭姫……玉柚さま、ですよね?」

「えっ」

「んー? 何か御用ですか、公主妃白天香殿下?」

「……どうしてわかったのよ、天香?」

「わかったも何も、特に隠す気もなかったと思いますよ。別に声色を変えてらしたわけでもないですし――」


 呼びかけたとき、特に否定もごまかしもせずに答えたのが証拠だ。

 それに、と麗瑛にもわかりやすく手で示してみせる。


「この向こうにあるのって、安秀あんしゅう舎ですよね」

「あ」


 後宮に滞在したいと言い放った鄭玉柚に対して、青元が貸したのがこの場所のすぐ隣にある安秀舎である。

 すっかり抜け落ちてた、というふうな麗瑛の声。

 素知らぬふりを決め込んでいたのかと思えば、どうやら本当に気づいていなかったようだった。

 麗瑛でも他のことに気をとられていると肝心なところがおろそかになるものらしい。

 天香は逆になんだか嬉しくなる。

 そして、鄭姫こと玉柚相手となれば、自分たちには――。


「待って。あなたが鄭姫本人なら、わたしにもお話があるわ」

「そうですか。私にはないし、さっきも言ったとおり静かに過ごしたいんだけど」


 めんどくさそうな雰囲気を全身から醸し出す。

 ああそう、と麗瑛は応じて。


「なら、安秀舎の正面で大声で呼び続けてもいいのよ。静けさとは無縁になるでしょうね」

「……わかりました、どうぞお越しください、両殿下」


 観念した風に、投げ捨てるように、鄭玉柚は言った。




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