七十一、 来訪 その二
「いったい、誰なんですか」
その天香の問いに、ああ、と非礼に気づいたというような顔をして彼女は答えた。
「これは失礼を。玉柚と申します」
そうじゃない。と天香は声をあげたくなる。
いや確かに誰かと聞いたけれども、それは名前を聞いたのではなく。
「どうして……私の名前を」
「知っていてはいけませんか? こちらにも何かを調べるくらいのことは出来るんですよ? ――色々とね」
小首を傾げて、飄々とした態度のままで彼女は言う。
麗瑛との結婚も、天香という名さえも、蓮泉殿の中と、そこから繋がりのある限られた人間しか知らないはずのことだった。それなのにこの女性――玉柚と名乗った、天香よりもいくらか年長に見えるひとは、それを二つとも知っていた。そして今この時この場所に現れたのだ。
祝いに来た、などと言っているが、それがどこまで本気でどこからがそうではないのか、天香には判断できない。どういう態度を取るのが正しいのか、それすらわからずにただ身構えるしかできないでいる。
すると、それまで黙ってやり取りを見ていた麗瑛が、気を取り直したようにやんわりと口を開いた。
「お祝いの気持ちはうれしいけれど……玉柚さん、でいいかしら。こうやっていきなり話しかけて来られても困るわ。ねえ天香」
「瑛さま? いったい何を」
「だって、この方はお祝いに来たと言ってるのよ。それにちゃんとした方法で門を通っているなら、よからぬものを持ち込んできた可能性も低いんじゃないかしら。――どこの誰さんかはともかく、ね?」
麗瑛はそう言って女――玉柚に視線を向ける。
咎めるような、同時に面白いものを見るような目。こういう目のときはだいたい後者のほうの比率が高いことを天香は知っている。
その視線を向けられた玉柚が軽く吹き出して、それから短い笑い声を立てる。
「殿下は良いお方ですね――とてもいい」
言いながら、うんうん、と何度か頷いてみせる。そうしてから彼女は改めて麗瑛にじっと視線を送って、さっきよりもよっぽど自然に朗らかな顔で言う。言い表しにくいけれど、整った顔に生気が吹き込まれたような、そんな印象を天香は受けた。
「もちろん。確かに礼を失した行為であることは認めましょう。なんといってもここは後宮。国帝陛下と、その陛下の代理で差配する公主殿下のものですから。なので、ここにいることの許可を頂きに参りませんといけません」
「何を言って――」
「陛下にご挨拶しなくてはいけないですよね。いえ結構です、ここの中にいらっしゃるのは知っていますし、自分の足で歩いて参ります。ちょうど――おや、誰かをお呼びのようですね?」
煙に巻くようなその言葉に、天香ははっと気づく。
青元が事前の計画のとおり、自分たちを呼び込む頃合だということに。
そしてそれを知らせる役目の女官――英彩が、こちらに合図を送っていることに。
くるりと再び向きを変えて、玉柚が流れるようにすたすたと歩き始める。その先は、妃嬪たちと、そして青元が待ち構える広間。
「あっ、ちょっと」
呼び止めても全く動じる様子もなく、彼女は飄然とした態度のままでそこに入っていく。そのあまりに落ち着いて淀みのない動きに、彼女とすれ違った英彩さえ引き止めることも出来ずに見送ってしまう。
「……わたしたちも行ったほうがいいんじゃない?」
麗瑛が天香の婚礼衣装の袖をくいくいと引いて言うまで、その場にいた誰もが動けないでいた。
慌てて、とはいっても婚礼衣裳のまま走るわけにも行かないので出来る限りの早足で広間の戸口の陰から中を窺えば、広間をぐるりと囲むように配された、それぞれに用意された宴席用の高膳を前にして並ぶ妃嬪たちが見えた。そしてその中ほど、手はずのとおりならばいま天香と麗瑛が立っていたはずの場所に、玉柚と名乗った女性が立っていた。
茶会のときと同様色鮮やかなとりどりの衣裳の妃嬪と、そして各々に引き連れた侍女たちもまたそれぞれの主ごとに統一された色味の服を纏っている。
華やかで艶やかなその中で、それとは対極に思える地味な色を身にまとった玉柚に、広間の視線が集中していた。
その視線を投げているのは女ばかりではない。宰相の月勝や殿中監の遼大夫なども許されて出席しているはずだった。
それらの怪訝そうな、あるいはもっと単純に険しいもの(供給源の大半は宰相閣下の発するものだった)も多量に含まれた視線にも特に気も払わない様子で、玉柚は数段高い上座を向き、そこ座っている人物に恭しく頭を下げている。言うまでもないが、そこにいるのは国帝青元である。
その手元、拱手した玉柚の手が女礼ではなく男礼であることに天香は気づいた。
男女の礼は単純に言えば左右の手の形が逆になるものだ。そして凶事のときにも左右の形を入れ替える。でも、そういう隔意を持っているような口ぶりではなかった。
玉柚がじつは女装した男、なんてことでもないと思う。いずこかの貴人らしいとはいえ、そんな程度で後宮入りの検査を逃れられるわけではないはずだ。
「余は我が妹を呼び入れたはずだが……そなたは誰だ?」
義妹と同じようなことを、不機嫌そうに青元が下問した。
予定外の出来事に、楽の音もいつしか消えてしまっている。
一国の帝の、棘の入った声色にも特に動じた様子を見せないで、玉柚はもう一度頭を下げた。
「主上にはお初にお目にかかります。臣の名は玉柚。主上の――」
「玉柚? ……では、鄭姫どの?」
玉柚の名乗りの途中で、淑やかな声が割って入った。その声の主に視線が集中して、再び玉柚との間を往復する。天香もそっと様子を窺う。
声の主――李妃・香陽は、腰こそ浮かしていないものの、驚いたように軽く目を見張って玉柚を見ていた。
李妃の上げた声の意味を理解して、周囲がざわざわとざわめきだす。
鄭姫。
琳国有数の貴族家を、不幸な出来事の末に継いだという姫当主の名だった。
呼びかけられたその名に、彼女はわずかに体を向けて応じた。
「これは李家の香陽姫。十年、いえそれ以上ぶりかな。御久しゅうございますね」
「鄭……玉柚? 鄭家の当主だと? そなたがか」
「ええ」
向き直って、軽く頷くだけで答える。帝を前に直答しているとはとても思えない、平然とした態度。
ざわめきがいっそう大きくなったのは、その態度のせいか、彼女の正体の故か。
あれが鄭姫? なんでここに? 陛下がお呼びに? でも陛下も驚いてるようよ。
そんな声が、切れ切れに天香の耳に届いた。
「気に入らないわ」
天香の隣で、ぽつりと麗瑛が漏らす。天香とは逆に壁に背を向けている。
「一応お聞きしますけど、何がです?」
「もちろん、あなたとわたしの披露宴を台無しにしたことよ」
「まだ台無しになったわけじゃあ……」
「十分よ。これじゃあ先んじるも何もないじゃない。話の種も噂もわたし達一色になんてならないわ」
きり、と天香の袖の紗絹を音がするほど握り締めて、悔しそうに麗瑛は言った。
ああ、せっかくの衣裳にしわがついてしまう。つかむなら私の手にしてくれたほうがいいのに――二重の意味で。
「……でも、瑛さまと私の披露宴を台無しにする、それだけが目的なんでしょうか」
「それ以外の理由があるって言いたいわけ?」
「だって……それって、あんなに目立つように名乗りを上げてするようなことじゃないと思うんです。それに、祝いに来たとも言ってましたし」
反論か同意か、何かを言いかけた麗瑛を遮るように、青元が問いかけるのが聞こえた。
目の前にいるのが誰なのかがわかったからか、だいぶ落ち着いた口調になっている。
「――で、その鄭家の当主たるそなたが、何ゆえ、何の用があって後宮にいるのだ?」
「何の用と言われましても。わざわざこのような晴れの場に出てきたのですから。お分かりいただけるはずでしょうに」
ふい、と青元から顔を逸らして、玉柚は広間の入り口を見る。
様子を窺っていた天香の姿を捉えて、その切れ長の瞳が弓形に曲がった。
それを見た天香はざわりと胸騒ぎを覚える。
ああいう表情にはとても覚えがある。具体的にはいまこのときも隣にいる。
麗瑛があんな顔を見せるときには、だいたい、何か悪巧みを仕掛けるときの顔だ。それも、例外なく天香を巻き込んで。
「ご結婚のお祝いを申し上げに参りましたの。聡明な公主殿下と……その殿下に嫁いで来られた、可愛らしい公主妃殿下に」
――ほら、やっぱり。




