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公主殿下の寵姫さま  作者: 有内トナミ
三章 後宮 編
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六十六、 不満と理由と決心と その一



 どこかで夜鳴き鳥の声がした。

 天香は部屋の窓辺に椅子を寄せてそこに頬杖をついて、風の冷たい季節には玻璃がはめ込まれる窓木まどぎの隙間から、うっすらと暗い庭を眺めていた。

 何かの白い花が夜気に揺れているのが見える。

 あまり褒められた姿勢ではないのだけれども、いま蓮泉殿には天香と侍女たち以外にはいない。その侍女も呼ばなければ奥の間まではやってこないから、いまの天香は好きなだけ物思いにふけることができた。

 どうしても考えてしまうのは、洪妃派の嬪たちのことだった。

(なんだかなあ)

 ――姿も見せずに後宮をまとめられると思うのか。

 あれが自然な感情なのだろうと理解はできる。平静に受け流すこともできた。

 だからなんとも思わないかといえばそんなことはなく、やっぱりあのもやもやとしたものが天香の胸の辺りと頭の辺りを交互に行き来するように巣くっていた。

 このもやもやの名前を、天香はまだつかみきれないでいる。

 不安とか苛立ちとか、あるいは困惑とか寂しさとか、そういう気持ちも少しは混ざっているような気がする。けれどもそうして名前をつけてしまうと、また全然違うもののようにも感じる。

 一言で言えば、持てあましていた。


「ただいま戻りました」

「あら、おかえりなさい」


 どこかへ出かけていたらしく姿の見えなかった光絢が言いながら部屋に入ってきた。

 なんでもない返事のはずなのに、光絢はなぜかふるふると震えて。


「おかえりなさい……もう一度言ってもらっていいですか?」

「……この会話、この間もしなかった?」

「あの時は殿下に阻まじゃまされたので!」

「しない。また同じことやるつもりでしょう」


 ええー、と光絢が不満の声を上げる。

 ちなみに前回は「おかえりなさい」に続けて光絢が「ご飯にしますか、それともわた」「そんな新婚夫婦の寸劇みたいなことをさせると思う?」という流れだった。

 なんかそれ逆じゃないかな。というかそれだったら自分が麗瑛に向けてやって……みたいようななんとなく結果が見えているような。


「いいじゃないですかあ、殿下もいらっしゃらないし」

「だからって、あなた相手に小短劇をするつもりはないんだってば」

「少しくらいやってくれたって罰は当たらないと思うんですけど」


 ごにょごにょと語尾を濁らせながら、ぷう、とこれ見よがしに頬を膨らませてみせる。その頬があまりに柔らかそうで、つい人差し指を突いてみたくなるのを抑える。

 あと、罰は当たるでしょ、瑛さまのが。

 ちなみに小短劇とは芸人のやる寸劇のことを特に指すことばだ。


 そんな軽い話の流れで、天香はふと思い立って。

「そういえばちょっと聞いてよ。ひどいの、あのね――」

 つい先ほどの出来事を、かいつまんで光絢に話してみた。ひどいの、なんて言ってはみたものの、あくまでも口調は明るく軽くだ。別に天香は泣き言を言いたいわけじゃない。愚痴というほどのものでさえない。単にひどいですねーといっしょになって笑い飛ばしてほしかった。


 ただそれだけだったのに、気づけば光絢の顔には曇りが差していた。

 天香は慌てて釈明のように言い添える。


「いや、あの、そんなに暗くならないで? ほら別に私そんな気にしたりしてないから。ねえって」

「わたしも」

 天香の言葉を遮るようにして、光絢が言う。

「わたしも言われました。同じようなことを」


 ああ、と天香は思う。

 麗瑛の代理というか代行というか、蓮泉殿の諸事やこまごました仕事をやって、それにほとんど暇つぶしに近い手習いなんかもしていて、天香はあまり蓮泉殿の外に出ていなかった。

(そんなところだけ、例の『御方』の噂にそっくりだな)

 なんて。

 それはともかく、そんな天香に比べて光絢はよくお使いや連絡ごとなんかで殿舎を出入りしている。今日だってそうだった。

 要するに、今日天香が言われたようなことなんて、もうとっくに耳にしていたのだろう。いや光絢の言い方からすると、耳にするどころか面と向かって言われもしたようだ。

 もちろん天香は知りもしなかった。

 麗瑛だけではなく、光絢にも守られていたのだ。そんな噂が耳に入り込んで天香が変に意識しないように。おそらくは則耀や英彩や燕圭や、その他の侍女たちにも同じように。


「侍女でもどこでもうわさ話は一緒……なのね」

 ごめんなさい。ありがとう。そんな言葉はどうしても違うような気がして、天香はひとつため息をついたあとでそう言った。やれやれ、という感じに聞こえればいいなと思う。

 自分が福玉たちと交わしたように、光絢もまたそんな侍女たちとの会話で言われたのだろう。そう思いこんでいた天香の言葉を、光絢が打ち消した。


「いえ、言われたのは碧桃さん……じゃなくって、徐嬪さまにです」

「え?」


 徐嬪、徐碧桃。茶会のときに光絢に言い寄っていた(というとちょっと意味が違ってしまうかもしれないけれど)光絢の昔馴染だという嬪。そして洪妃の言葉を借りるなら『李妃の取り巻き』の一人。その顔を思い起こして、天香は。


「光絢、あなた――」

「言ってません! 何一つ答えてません! せっかくあの時はお姉さまに追い払っていただいたのに、それを無にするような真似はっ」


 言いかけたところで、だいぶ食い気味に光絢に遮られた。光絢に迫っていた(やっぱり他の意味に聞こえてしまうけど断じてそうではない)徐嬪を追い払ったのはまぎれもなく天香だ。

 だからこそ気を悪くするかもしくは叱られるかとでも思ったのか、光絢は勢いよく頭を下げる。

 そんなこと、あるわけがないのに。

 光絢が言うには、徐嬪はあの後もあきらめ悪く何度か声をかけてきていたのだという。そしてその中で今日聞いたのと同じような愚痴を聞かされた、と。


「だけど、色々聞かれても何も答えてませんから」

「それはわかってるから」


 光絢のそういうところはわざわざ言われなくても信頼している。


「――なんで」

「え?」

「なんで、お姉さまがあんなに好き勝手に言われなきゃいけないんですか」

 ぽつり、と光絢が言った。

 悔しささえにじませて、吐き捨てるように。


「言われてるのは、私って言うより『蓮泉殿の御方』って人のような」

「そういうことじゃありません。なんでお姉さまはそうやって納得できるんですか? 言われてるのはお姉さまです。陛下の寵妃なんて言われて、恐れながらその御子を孕んだのだとまで言われて、ありもしない話で勝手に品評されてるのはお姉さまなんです!」


 目に怒気を孕ませて光絢はまくし立てる。

 天香は思わず椅子の上で姿勢を正して窓を背中に背筋を伸ばす。少し気圧され気味に。


「お姉さまもお姉さまなら殿下も殿下です。こんな噂を立てられても何も仰らないじゃないですか。そんな立場にお姉さまがいるのはわかってたはずです。なのに殿下は湘王と噂が立つほど仲睦まじさをばら撒いてて!」

「それはだって、私もいいと言ってしまったのだし……それにそれがお仕事なんだから」

「そうやってお姉さまが何も言わないのもどうかと思います!」


 それにできるだけそういうところからは遠ざけようと、守ろうとしてくれたじゃないかと、そう天香は言おうとする。

 けれど、それよりも前に光絢の不満の矛先が、今度は自分のほうへと向いた。


「わ、私?」

「そうです!好き勝手言われているのだから少しくらい言い返してもいいと思います。我慢ばかりしないでください」

「我慢なんて、しているつもりは……」

 まったくない。ないが、しかし光絢はそうは思っていないらしい。

 身を乗り出すように――つまり椅子に座っている天香の膝の上に乗り出すようにして言葉を続ける。


「いいえ、我慢なさっています。もっと殿下にワガママを言っていいんです。いえ、言うべきです!」

「ワガママなんてそんな」

「物をねだれとか言ってるんじゃないんです。もっと言いたいこと、思っていることを殿下にはっきりと伝えるべきです。そうしていいんです。お姉さまにはその権利があると私は思います! 殿下は――」

 そこで息が詰まったようになった光絢は、一度息をついて。


「殿下は、それくらいでお姉さまのことを、嫌いになんてならないと思います」


 さっきまでの怒りから一転して、切なげな表情がその顔に浮かぶ。


「なんか、私よりも殿下のことをわかっていそうね」

「そんな大それたことは申しません。……でも、そうですね。前も言ったかもしれませんけど、たぶんわたしと殿下は少し似ているんです。お姉さまを想うもの同士として」


 光絢はそう言うと、どこか自慢げににこりと――もしくはにやりと微笑む。

 それに誘われた笑みが、時間差を置いてくすりと天香の口からこぼれた。

 何かに気づいたように、光絢がとたんに恥ずかしげに目を逸らす。


「と、とにかく、お姉さまばかりが一方的に譲歩しているようなのが嫌なんです。言いたかったのはそれだけで」

「うん、そうかもね……ありがとう」


 我慢や譲歩をしているつもりはないけれど、それはそれとして、光絢が自分のために怒ってくれているのはわかるし、それは嬉しいことでもあった。

 だから、天香は素直にお礼が言えた。


「そんなお礼なんて……それよりも、お姉さまはちゃんと殿下に聞くべきですよ。なんで噂を放っておくのか。自分はそれに悩まされてるんだーって」

「それは私っていうかどっちかといえばあなたが――」

 聞きたいことでしょう、と天香が言いかけたそのとき、


「そんなの、聞きたいならわたしに直接聞けばいいだけじゃない。いくらだって答えるのに」


 そんな言葉が割って入った。

 部屋の入口のところで、小首を傾げて麗瑛が微笑んでいた。



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