六十五、 行き逢う
説得力を感じたとは言っても、じゃあたとえば「なるほどそれはその通りですね!」なんて感じで気安く同意できるわけもなく、天香は笑いのような呆気にとられたような、どちらにも取れる曖昧な反応くらいしか返せなかった。天香のそんな様子を見て、洪妃はまた軽やかに笑い声を上げる。
笑いを収めた洪妃が、いよいよ本題と意気込んでか身を乗り出すようにして。
「それで、蓮泉殿のお方というのは――」
「お、お話し中失礼いたします」
切り出したとたん、侍女――筆頭格らしい彼女ではない、別の侍女が割って入った。
もちろん中断された洪妃は機嫌を損ねたようにぶっきらぼうに突き放すような声色で問いただす。
「何よ? 急を要することなの?」
「あっいえ、はい、その……蘭嬪さまがたがいらっしゃいまして……」
あるじの不満を真正面から受けたかわいそうな侍女は、室の入口で首をすくめ、申し訳なさげに身をかがめて返事をする。
その言葉を聞いて、洪妃は扇を二、三度小刻みにはたはたと振って言う。
「蘭たちが? わたしは今話し中よ。待たせておきなさい。今からがいいところなんだから」
「お、お伝えはしたのですが、その、自分たちを待たせておくほどの相手は誰なのか、と質され……」
「適当に言っておけばいいでしょ」
「お嬢さま? お嬢さまが圭寿の立場だとして、それが出来るとお思いですか?」
筆頭の彼女にぴしゃりと言われ、洪妃は思わず口ごもる。
「……うるさいわね。と言ってうるさいのは蘭たちも同じか」
「あの、そういうことでしたら私は、そろそろお暇を……」
はっと自分を取り戻した天香は、ここぞとばかりに気持ち早口で言う。これ以上問い詰められても、それを躱し続けられる自信が天香にはなかった。洪妃には悪いけれど。
「昭華さま」
「……わかったわよ。仕方ないわね」
筆頭侍女にもう一押しされ、つまらなそうに唇をとがらせてその唇に人差し指を当てる。歳に似合わないこどもっぽい仕草なのだけれど、今の洪妃にはなぜか似合っていた。
少し間があって、その指を離すと、すまし顔をツンと作って彼女は言う。
「わたし、さっき体を動かして汗をかいています。もう一度着替えるから、それまで待てと伝えなさい」
「かしこまりました」
その応答に天香は耳を疑う。
(体を動かして……?)
高位の女人、わけても妃嬪が自ら汗をかくほど体を動かすなんて聞いたことがない。外に出歩かないという意味ではない。今の言葉は、それこそ武術を嗜むような言い方にしか聞こえなかった。蓮泉殿でも燕圭が素振りなどをしている姿を見ている。あれくらいの鍛錬に近いものなのだろうか。
だとすると、透けるような薄い上衣を着ていたのも、しきりに手扇で扇いでいたのも、体を動かしたあとに涼んでいたのだとしたら納得がいく。軍部の家に生まれたからなのか、それとも本人の好き嫌いなのか。はっきりとはわからないけれど、なんとなく後者のような気がした。
「ん? あなたも気にするみたいね。軽く棒でも振ってみたらいいわ。護身術にもなるから。それに気持ちいいわよ」
「はあ」
「はあ……」
椅子から立ち上がりながら洪妃は天香に言った。これから襦裙を替えるのだろう。
なんとも言えない反応を返した天香の後ろで、筆頭侍女の彼女が音だけは同じため息を大きくひとつ漏らした。
いつものことなんですねご苦労様です、と天香は心の中で彼女を労る。
「それじゃあ、蓮泉殿の御方によろしくね。近いうちにお会いしたいものですとお伝えしなさい」
「お伝えするだけしかできませんが……」
頭を下げて天香はそう返事する。
嘘はついてない。そう思いつつ、ただ心のどこかでまたあのもやっとした感覚が湧き上がるのを感じる。心が痛む、というわけではなく。不思議な感覚に、内心で天香は戸惑う。
「それで結構よ。とにかく一度会えればいいのだし」
「か、かしこまりました」
天香は丁寧に礼をして、そのまま退出する。
洪妃――昭華は満足げにしていたが、天香は微妙な心持ちだった。とても晴れ晴れとした気持ちだなんていえないし思えない。
ただ一点、彼女が自分に――もちろん侍女の自分ではなく蓮泉殿の御方に――対して、悪感情を持っていないようだ、というのは収穫と呼んでいいのかもしれない。
部屋を出たところで、天香は日差しがやや傾いてしまっていることに気づく。意外と時間が経っていたようだった。
そわそわと足早に桃清殿の廊を歩いていると――こちらに向かってくる女たちと鉢合わせた。
きらきらしい着物を纏った四人ほどの女性たち。
おそらくというか確実に、洪妃のもとを訪ねて来た洪妃派の嬪たちだった。
もちろん天香は廊の脇に避けて礼をする。
嬪たちが過ぎたらさっさと蓮泉殿に帰らなくてはいけない。
四人が通り過ぎて、そろそろ顔を上げようか――そう思った天香の耳に、素っ頓狂な声が届いた。
「それは本当なの、海嬪!?」
問い詰める声に続いて、聞きなれない音が天香へと近づいてくる。
ダンダンダンと響くそれは、足音高く床を踏み鳴らす音。妃嬪であれ女官たちであれ、しずしずと――たとえどんなに急いでいても――音を立てずに歩みを進める、それが良しとされる後宮ではまず聞こえないはずの音だった。
なんとなく嫌な予感を覚えた天香のその前で、その予感の通りに足音が止まり、そして棘を含んだ声が投げかけられた。
「あなた、蓮泉殿の侍女だそうね!?」
「……そのとおりでございますが」
天香は自己紹介などしていないし、半ば通り過ぎたところで急に呼び止められて蓮泉殿と言い当てられるのも戸惑うところだ。とはいえもちろん無視など出来ない。
不思議に思いつつやや目線を上げて様子を窺えば、そこにいたその三、四人の嬪の一番後ろ、半分以上他の嬪に隠れるようにして控えめに立っている海嬪の姿を見つけた。幽霊騒ぎのときに顔を合わせていたので、そのときに覚えられていたのだろう。天香に気づいて、それを仲間にご注進したというところか。
納得しながら、天香は返事をしつつそっと上目遣いに声の主を見た。
その嬪は軽く腕を組んで天香の正面に立っていた。二つ結びにした髪に、きっと結んだ口元と弧を描く目から強情さが溢れている。釣り目がちな目の形が誰かを思い起こさせる。
「そう、あなたが。なら、姉さまに招かれて話していたというのもあなたね?」
天香はわずかに頷いてそれを認める。
同時に、その口ぶりから天香はこの少女の正体に見当をつけた。洪妃を親しげにあねさまと呼ぶその態度、そしてどことなく似た顔立ちは偶然のものではない。彼女――蘭嬪は、洪妃の親戚だから。
蘭嬪、名を欧陽蘭。二文字の姓では釣り合いが悪いために、こういう場合は名から取って蘭嬪と呼ばれる。歳は十八。彼女があねさまと呼ぶ洪昭華よりひとつ下で、公主麗瑛と同い年、天香の一つ上となる。後宮妃嬪の中では三番目に若い嬪だ。
彼女は天香を見下ろすようにしながら口を開く。
「こんなどこの誰ともわからない人間を側に呼ぶなんて、何を考えていらっしゃるのだか。いいこと? いくら姉さまがお招きになったからと言っても、侍女が我ら嬪を待たせるとはどういうこと。そうなる前に、慎んで自ら場を辞して下がるのが礼法でしょう。気安いお方だからといって余りお甘えにならないほうがよろしい……くてよ」
いいこと、の辺りから指を突きつけながら言葉を強めて、彼女はそうまくし立てる。とはいえ最後に言い直したあたりがしまらない。洪妃と同じように言葉が乱れるのかもしれなかった。
むりやり庶民言葉に直すなら、『いい気になるな』くらいの意味合いだろうか、と天香は思う。
しかしそう言われたところで天香は痛くもかゆくもない。
いい気になどなりようがないのだから。
「返事は!」
「……あっ、はい、それはもう、重々承知しております」
顔を伏せて天香は答える。ふん、とひとつ息を吐いて、蘭嬪は言う。
「まったく。返事もろくにできないなんて、いったいどういうしつけを受けたのだか。あるじの器量が知れるというものだわ」
その声の硬さに反発のようなものが滲んでいる。天香を――蓮泉殿の侍女の非を挙げるようで、同時にそのあるじに鉾先を向けている。つまり自分の後ろに(居もしない)蓮泉殿の御方を見ているのだ。
「こんなところでそうやって詰め寄るのはおよしなさい。礼法を持ち出したご自分が礼法に沿っていないじゃないの」
呼ばれた蘭嬪は、ぱっと裾をひるがえして言葉の主に向き直る。
その主の派手な色使いの襦裙と派手めな顔立ちに天香は見覚えがある。それはしきりに麗瑛に鳳嬪と呼ばれたがっていた陸嬪、陸明鳳だった。
「けれど陸嬪、蓮泉殿なのですよ? あの蓮泉殿です。言いたいこともあろうというもの」
「だからと言って侍女に当たってどうするの」
「本人に言おうとしたところで蓮泉殿から出てもこないのだから仕方ないではないですか! こちらから出向いても公主殿下に阻まれる始末では!」
『蓮泉殿の御方』に対する頑なな態度を崩さずに、蘭嬪は言う。その言葉の中身に、けれど天香は状況もわきまえずに嬉しさを感じてしまう。麗瑛はこういうことからもかばっていてくれていたのだと、それが実感できたから。いっぽうで、それは嬉しいことだけれど、でもかばわれるだけでは駄目なのだとも思う。
天香は口元に浮かびかけた笑みを慌てて消す。幸い、誰もそこには目をつけなかったけれど。
「礼法をわきまえないのは主従揃って同じなのでしょうね」
別の声が小さく割って入る。その出元を確かめるよりも前に、陸嬪が声を高めて言う。その手元で、色とりどりの花があしらわれた扇がばっと咲いた。派手だがまとまりがない絵だった。
「それそれ。御方などと言われて顔も見せないその深窓の姫とやら、いったいどのような姿なのか気になりますわね」
「子が出来たらしいですが、どのように陛下に近づいて寵を得たのやら」
「方法を教えてほしいくらいですわ。ええ、とてもね」
などなどと、飽きもせずに口から出るのはいつの間にか目の前にいる侍女から蓮泉殿の御方へと非難の対象が変わっている。そのわりには内容がうわさ話から逸脱していないのが天香には少しだけおかしかった。
相変わらず硬い声の蘭嬪に対して、方法を教えてほしいと冗談めかした、あるいは皮肉ぶったような陸嬪の言葉はけれども本心だろうな、なんてことさえ思う。『金針鳳華』の郭嬪が言っていたからだ。陸嬪は焦っている、と。
そこで天香は自分でも驚くくらいには冷静な目で見ている自分に気づいた。苦手なはずのとげとげしい空気やその文言が自分に向けられているというのに、その棘は自分ではない誰かに刺さっているような感覚なのだ。
というか、冷静な態度でよくよく聞けば、蓮泉殿の御方への愚痴をつらつらと流しているのは嬪たちの中でも主には二人、陸嬪と蘭嬪だけのようだ。やれ挨拶がない、やれ先達である我々よりも先に陛下の子を授かるなんて、やれ身元も明かせないような人間に上に立たれる言われはない、などなど。
天香がもしも本当にその御方の侍女だったなら――あまり耳にはしたくないかもしれない。
他の二人はどちらかといえば少し後ろに引いた格好で、その一人にいたってはこの場ではおそらく一言も発していない。海嬪が控えめに引いているのは印象どおりとして、そのやや前にいるのは――と視線を動かした天香は、一度だけ目を瞬かせる。他の嬪たちよりも小柄な体躯、おどおどと慣れない様子で落ち着きのないその嬪は、秋薫舎の陳嬪、淑英だった。
その陳嬪が口を開く。
「あの、そんなに言わなくてはいけません、か……」
「甘いですわ陳嬪」
消え入りそうな切れ切れの声に蘭嬪が応じる。ついで陸嬪がそれを引き取る。洪妃派としての仲は悪くないらしい。
「ええ。あなたとて妃嬪なら陛下の寵を受ける身。その寵が誰か一人に流れては後宮のありよう自体が損なわれるのです。ええ、ここで行き逢ったのも何かの縁でしょう。言うなればこれは後宮の妃嬪すべてを代表した異議表明なのです。われわれの声をたしかに届けてもらわねばいけないのだから」
胸に片手を当てて大仰な身振りで芝居がかったような構えをとる陸嬪に、
(自分にも寵が流れてこなくなるから、ね)
そんな意地の悪い突っ込みを胸中で入れてみる。異議の表明というには攻撃的に過ぎるような気がするのだ。
と同時に、天香は思い至る。
そうだ、たぶん、これが当然の、あたりまえなのだ、と。
洪妃は「知らない人には怒れない」なんていっていたけれど、本来ならこんな風に不満や憤懣を溜めているほうが自然なのだ。いくら耳にしたくはなくても、そう思う人間が現にここにいる。当然ここ以外にもいるだろう。噂の中だけで、蓮泉殿の御方はそう思わせてしまうような存在になっている。なってしまっている。
洪妃のあれは妃としての余裕だったのか、いや、蘭嬪の言うように気安いお方、つまり個人の性格かもしれない。それに対して嬪たちのこれは、むしろ敵意、と表現してもよかった。天香が『蓮泉殿の御方』本人であるとは思ってもいないぶん、直接的な敵意は向けられてはいないけれど――だけれども、彼女たちにとっては蓮泉殿の御方は警戒するべき敵、なのだ。
そして、それが『誰か他の人』にとげが刺さっているように天香には感じられる理由なのだろう。彼女たちの憤懣は、ここにはいない、そしてどこにもいない『蓮泉殿の御方』にしか刺さっていない。だから、天香は平然としていられる。洪妃と話していたときや、それ以前の福玉たちと、あるいは麗瑛と話していたときに覚えていたもやもやとした思いが今はひとかけらほどもない。それは――。
「各々がた、何をなさっておいでですか。洪妃さまのお支度が整ってございます。こちらへ」
やって来た洪妃の筆頭侍女が割って入ってくれなければ、いつまでも果てしなく不平不満が垂れ流されていただろう。同時に天香の思案も断ち切られてしまったけれど、またあとで考えればいい。
「お前のあるじに、姿も見せずに後宮をまとめられると思うのか、と伝えておきなさい!」
最後にそんな一言を投げつけるように蘭嬪が口にして、ともかく嬪ご一行様は洪妃の待つ室に歩いていった。
それを見送って、天香は蓮泉殿に向かってきびすを返す。
たしかに伝えましたよ本人に――と思いながら。




