六十四、 うわさ話は飛躍する 下
月末月初(年度末)忙しく間が空いてしまいました。
更新ペース、少しずつ上げていきたいです。
「で、蓮泉殿の御方がご懐妊という話、本当なの?」
「は……はい?」
洪妃は挨拶もそこそこに、例のやや吊りあがった瞳をきらりと光らせてそう訊ねた。
その手元は扇をはたはたと、誰かに扇がせるのではなく自分で揺らしている。
ややゆったりとした上衣は肌の色が透けてしまいそうなほどの薄絹で、それは彼女の額に薄く浮かんだ汗の珠と相まって、天香になにか落ち着かない気持ちを抱かせた。
その顔に興味津々と大書して、まるで準備万端といったふうに待ち構えていた洪妃に対して、いきなりそんな質問を切り出された天香は目を白黒させる。
ここまでの流れから、用件は湘王か麗瑛のことだろうと勝手に踏んでいた。それだけに、まさかの蓮泉殿の御方――つまり自分に対する根も葉もない、あるわけがないそんな話を突きつけられるとは思いもしておらず。
混乱する頭の中で、いったいどう答えるべきなのか、天香はそれでも思案しようとする。
そんなことはありませんと正直に言うべきか、わかりませんと答えを濁すべきか。
本当のことです、なんて嘘を――嘘に決まっている――吐くという選択肢は当然無いし。
「……それを聞いて、洪妃さまはどうされるおつもりなのでしょうか」
悩んで、天香は問いに問いで返すことにした。
洪妃は一瞬何かを飲み込んだような顔つきになる。それからこらえ切れないようにくくっと喉を鳴らして、最後には楽しそうに高らかに笑う。
「どうもしないわよ? なに? わたしがなにか良くないことをたくらんでるとでも? お話に出てくる悪いお妃様みたいに?」
「いや、あの、その」
言葉こそ矢継ぎ早に天香を問い詰めるようでありながら、その口調はむしろ弾んでいた。そして反応に困る天香を見てさらに楽しげに笑い声をあげるのだ。
ひとしきり笑ってから、洪妃は笑いを収めて言う
「あなた、意外と忠義者なのね」
「いや、そんなことは……」
「ま、そういうことにしといてあげるわ。――もう一度言うけど、しないわよ、何も。ただ聞いただけ。それとも、わたしはそんな事をしそうに見えた?」
「いえ、その、そういうことではなくて……失礼を致しました」
「まあ、少なくとも黙って枕を濡らすだけの令嬢ではないと思われたのでしょう」
頭を下げた天香に助け舟を出すように、傍らに控えていた筆頭侍女が口を挟んだ。
言われた洪妃が口を尖らせる。
「あなたもたいがい失礼ね」
「長いことお側で見ておりますからね」
茶会のときも感じた、主従というより姉妹に近いような気安さ。それが二人の間ではごく自然なことなのだろうと感じる。
「まあ、後宮ではそれぐらい警戒するくらいでいいのかもしれないけど。でも安心しなさい。わたしは単に興味があるだけよ、その蓮泉殿の御方って人に」
「ご興味……?」
「持たないわけにはいかないでしょう? 懐妊となればなおさらね」
「いったいどこから、そのような話がお耳に達し――」
「さあ? うわさ話の出所なんてわかるわけがないじゃないの」
天香がつい反射的にこぼしてしまったその反応は、しかし途中からばさりと断たれてしまった。
たしかに洪妃の言うとおり、噂とは実体もなくその辺に漂っているから噂なのであって、誰かから出たものだとわかっているならそれは噂ではなく、明確に名前のついた別の何かだろう。
「でも、どういう流れでそんな噂が出たのかくらいなら、わからないでもないけれど?」
やや語尾を上げて少し自慢げな微笑みで、洪妃は言う。
「流れ?」
「公主殿下と湘王さまはずいぶんと仲がよろしいんでしょう?」
「ええ、まあ」
もやもやとする想いは別として、それは本当のことだったから、天香はすんなりと相槌を打てた。
「だから、よ」
「だから……とは」
流れというには途中の流れがふたをされているようにまったく見えない。
じれったい思いに駆られながら天香は問う。
「あら、だってご降嫁されるのでしょう?」
「そっ……れは、それこそ噂にすぎませんし、私は何も聞いておりません、ので」
さらりと口にされたその話題に、天香は口ごもる。ついさっきもこんな感じで誤魔化した――正確にはそう福玉たちが勘違いした――から、こちらでもそれを応用させてもらうことにする。口ごもる様子を洪妃に見せるというよりは、天香にしてみれば降嫁なんて言葉は余り口にさえしたくないので、どちらにしても都合がいい。
「ふうん? じゃあ、仮定の話として進めるけれど――ご降嫁という話が出るのは、そのあとの後宮を差配するかたが決まったからではないの?」
あっと声をあげかけて、それを飲み込む。
慣例に従うなら、正妃が決まれば長公主は差配から退く。つまり逆に言うのなら、公主が差配から退くなら正妃が決まったということ。
そう考える人が出てきても、おかしくはないのかもしれない。
いや、あるいはもっと早くに思いつくべきだったのか。
天香は軽く下唇を噛む。
そっと洪妃を見やると、悠揚とその手の扇を揺らし続けている。
その落ち着いた態度に、天香の中にはもうひとつの疑問が湧いてきた。
「それが、蓮泉殿の御方……さまだと? 洪妃さまご自身や李妃さまではなく?」
「青元さまがわたしやあの女、じゃなくて――あの李妃のどちらかに正妃をお決めになりたくなさそうなことくらい、はっきりと言われずとも見ていればわかるわ」
洪妃はあっさりとそう看破する。
それが洪妃の観察力、甘やかに言えば青元を慕う力によるものなのか、それとも閨を共にすれば嫌でもわかるという範囲なのか、天香にはわからない。
「かといって、他の嬪たちがわたしや李妃に先んじて正妃になる決め手を持っているとは思えないでしょ?」
「その決め手になったのが……懐妊だと仰るのですか?」
「わたしが言ったんじゃなくて、そういう風にうわさ話が飛び火したんじゃないかと言ってるだけ」
そう言って洪妃は髪をかきあげて、そこに扇で風を当てる。街娘のような仕草に、例の筆頭侍女がため息をつく気配を背後に感じた。
意識を前に――洪妃に戻して、天香はついさっき感じたことを口にする。
「先ほどから伺っていますと――洪妃さまが正妃にならなくてもよい、という口ぶりに聞こえるのですが」
青元の妃になるとあの茶会で声高らかに宣言したのではなかったか、と、言外に含ませてみる。
正妃が決まったのではないかと言いながら、慌てた様子もなく悠然としているのが疑問、というよりは意外に近いものだったのだ。茶会のときに垣間見た勘気を思えば、もっと激しい様子を見せてもおかしくないと思うのに。
「もちろんなりたくないわけじゃないけど、けれど正妃というものは必ずしも寵愛一等の者がつくものではない、と教わったわ。わたしは青元さまの第一の妃になりたいけれど、それと正妃と言うものが等しいかどうかは別の話でしょ」
「では李妃さまが正――」
「それは嫌」
清々しささえ感じさせる即答だった。
そこは曲がらない、曲げられないところらしい。
「でも蓮泉殿のかたはあの女――李妃とは違うわ」
「どういうところが、でしょう?」
「さあ?」
投げ出すような言葉に、天香はガクっと姿勢を崩しそうになった。というか少し崩した
「どういうところなんて知らないわよ。知らないところが違うの」
そんなことを洪妃は言う。
「さっきも言ったでしょ。わたしは蓮泉殿の御方というひとに興味がある。でもわたしはその人について何も知らないわ。だから、あなたを呼んだんじゃない。蓮泉殿で侍女づとめをしているあなたを」
一番手っ取り早いでしょ、と洪妃は言葉を繋げる。
それは要するに、茶会のときのあの徐嬪と同じことだった。
徐嬪のそれに、あのときの天香は珍しくはっきりと怒りを自覚した。
けれど今回は違った。
もちろんあの時と同じような苛立ちも少しは覚えている。でもそれは憤りというほど燃え上がっているわけではなくて、徐嬪のように強い態度で振り払おうとまでは思わない。
初対面かそうでないかということよりもむしろ、回りくどい言い訳や態度を見せずに一直線に切り込むような洪妃の様式が、天香にとっては心地よいのだ。それがどこか麗瑛に似ているからかもしれない。
とはいえ。
「私でなくても、そういうことでしたら他の侍女でも――」
「あなたを知っているのになぜ他の人を通さなければいけないのよ」
「ですよねえ」
何言ってるんでしょうね、と笑ってみせながらたらりと背筋を汗が伝う。
おかしなことを言うと思われたかもしれないけれど仕方がない。
彼女の態度を快く感じるからと言って、自分自身のことを訊ねられてもそれはそれで困るのだ。
そんな天香を不思議そうに眺めて、洪妃は言う。
「知らない人を相手に怒れって言われても困るわ。それにうわさ話が当てにならないことはあなただってわかるでしょ? なんだかんだ言われてても、それが本当かどうかもわからないじゃない」
「なんだかんだ……言われていますか?」
「言われてるわよ。だからわたしは知りたいし、会ってみたいわ。その蓮泉殿の御方というひとに」
なんだかんだ言われてるその中身が気になる。とても気になる。
けれどここでそれを根掘り葉掘り聞けばじゃあ本当はどうなのか、みたいなことになるのは目に見えていて。
だから天香は。
「会って、そのう、もし、李妃さまのようでもですか」
そう聞いた。
「馬が合わないってこと? それともあの李妃のような女なの? あなたの目から見て、あの人とわたしはどう見えてる?」
「それは……なんとも」
こうやって話してますよ、なんてもちろんここでは言えなくて。
天香はわざとらしくなるのを承知の上で、そうごまかした。
「――そうね、そんなこともあるかもしれないけど、ないかもしれない。でも、会わないまま嫌うよりは会ったうえで嫌ったほうがたぶんすっきりするじゃない」
やけにきっぱりと、洪妃はそう言い切った。
「そういうものですか?」
「ええ。だってわたし――会うまでは青元さまの本当のことなんて何一つ知らなかったんだから」
その言葉には、確かに説得力があった。
少なくとも、天香はそう思う。




