六十二、 宣言とその理由
夕刻から始まった歓待の宴が終わった後、蓮泉殿の居室にて、麗瑛がわくわくしたそぶりで話しかけてきた。
「どうだった天香? 湘の兄さまは」
「あ、そのー、すごい方でしたね」
天香は我ながらもっと他に言い方があるだろうと思うような返答をする。
けれどすごいと思ったことは確かだった。
頭の回転や機転、知識、心配り。そんなものが気の置けない会話の中のところどころで出てくる様子だけでもその片鱗が窺えるのだ。
かと思えば知力だけでなく。
「楽器まであんなにお上手だとは思いませんでした」
「お体が弱かったでしょう、そのころに習い覚えたのですって。体の強さに楽や書は関係ないから、と」
「なるほど」
ということは文字を書くほうも達者ということか、と自分の乱筆を棚に上げて天香は推察する。
しかしそんな麗瑛にひとつだけ釘を刺したくて、その次の言葉を口に出した。
「でも」
「でも?」
「すごいとは思いましたけど、瑛さまがそんなに自慢げにしているのは、あまりいい気分じゃありません」
天香が口を少しとがらせるようにしてそう言った、その瞬間は呆気にとられたようだった麗瑛の顔が、数瞬のあと笑み崩れた。
「もう、天香ったら!」
「ちょっ、殿下!」
身構える隙もあればこそ、とはこのことだろう。抱きつかれ、長椅子に押し倒された。
また侍女たちの見ている前なのに。
しばらく長椅子の上で騒いだあと、麗瑛が息を整えつつ口を開く。
「そんな心配性なかわいい天香には少し悪いお知らせがあるのだけれど」
「はあ」
「わたしは、明日からしばらく、湘の兄さまと逢い引きをしますから」
「――はい?」
聞いた瞬間何を言われたのかとっさに理解できなかった。それは麗瑛との付き合いではもう特に珍しくもないことなのだけれど、もし順位をつけるとするなら、今回はその中でもわりあい上位に来る突飛さかもしれなかった。
「なんですかそれ! お姉さまがおかわいそうじゃないですか!」
天香が反応に困っているうちに麗瑛は身を起こして立ち上がる。その麗瑛に光絢が顔を赤くして――またはその前から赤かったのかもしれないけれど――食って掛かった。
それに対する麗瑛の返しはいたって冷静な、予想通りの反応を楽しむようなものですらあって。
「そうかしら?」
「だって、そんな、まるで浮気の宣言じゃないですか!」
「あら、浮気の宣言なら前に天香に言われたわね」
「――ッ! いや、あれは……」
同じ部屋に居づらくて光絢のところに逃げ込んだあの時のことを引っ張り出されて、天香はとっさに否定の声を上げかける。天香は光絢に、麗瑛は青元にそれぞれ諭される、その前のことだ。
「じゃあいまここでこんなことしてもいいんですね?」
「ちょっ!?」
言うなり、今度は光絢が飛びついてくる。天香の首に腕を回してしなだりかかるように体を預け、――いや唇まで突き出してくるのはどうなのさすがにそこまでするつもりはないから。と天香は声を上げる。なにが「じゃあ」だ。
「やーめーなーさーい!」
「いーやーでーすー!」
諦めずに顔を寄せようとする光絢の姿に、さすがの麗瑛もやや強い口調で制止に回って。
「落ち着きなさい光絢、今から説明してあげるから。あと天香から離れなさい」
体勢はそのままに、光絢は麗瑛のほうにそのふくれっ面だけを向ける。
その光絢を首からぶら下げるようにして、天香は身じろぎする。
長椅子に座っているから重くはないけれど、ぴたりと寄り添われると、それはそれで居心地が悪いというか、具体的には暑い。
「逢い引きなんて言葉を使ったのは謝るわ。許してね」
「いえ、謝られるほどでもないし許すとか……」
「天香の呆気にとられた顔が見れるかと思ってつい」
「前言撤回していいですか」
結局そこはいつものようにからかわれただけだったのだ。
してやったりと言いたげな顔を浮かべていた麗瑛は、その表情を真面目なものに改める。その様子に天香も少しだけ――なにせ光絢がついているので――少し姿勢を改める。
「簡潔に言うと、わたしはお兄さま――湘の兄上に恩返しがしたいのよ」
「恩返し、ですか」
「天香には話していなかったわよね。わたしが、わたしとお兄さまがこの宮中に来たころの話なのだけれど――」
今から十と一年前。青元と麗瑛が宮中へと引き戻されたころ。
引き戻されたとは言っても、麗瑛にはその前の宮中の記憶はない。それは彼女がまだ這いも出来ない乳飲み子のころの話だったのだから。
過ごしていた屋敷や周りの人(もちろん天香を含む)から急に引き離され、連れてこられたのは今までに見たこともないような宮中の奥御殿。青元以外には知る人もなく、そしてその兄も帝子、つまり帝の男子としての務めもあり四六時中そばにいられるわけでもなく。
帝の寵妃の子とはいえ、そしてそのときには事情があったのだろうとはいえ、一度は外に出されそして出戻ってきた兄妹への風当たりがどんなものだったかを思うことは、さして難しくもない。
そんなときにあたたかく迎え入れてくれた数少ない人間のうちのひとりが、柳宗だったのだ、と麗瑛は言った。
当時まだ体の弱い子供、といっても青元とほぼ同年だから少年といったほうがいいだろう。けれど青元と並ぶと柳宗はどう見てももっと年下に見えたし、腕も足ももっと華奢だったという。それで髪まで長ければ、今と違って素のままでも美少女に見間違えたかもしれない。けれど髪だけは青元と同じように短くしていたそうだ。
けれどやはり体力の無さはどうしようもなくて、青元たちのようには動けずにいた。その代わりに彼が励んだのが音楽や書だった、とそこはついさっき聞いた話である。
それを活かして、麗瑛に字や書を改めて教えたのも彼だった。
「この話、天香とも無関係ではないのよ。そのおかげであなたに手紙が書けたのだから」
「あっ、えっ、そういう――。じゃあ、あの習字のお手本ってまさか」
「湘の兄上に頼んで書いてもらったものよ。懐かしいわね」
あああ、と天香は天を仰ぎたくなる。具体的にはさっき自分のことを放り投げた棚をそれごと壊したい。
宮中に入った麗瑛からの最初の文と一緒に送られてきた、字の練習の手本。あれが柳宗の手によるものだったのだ。つまり自分にとっても字の先生のようなものではないか。とはいえその後すっかり自己流になってしまい、結果としてはまったく上達していない。いや、普段遣いには特に支障はないのだが、ただ畏まった文面となるとどうしても能筆とは言いがたく……ってそんなことは今はいいとして。
ともあれ。
「そのほかにも色々とあったのだけれど……これ以上は、また改めて話すこともあるでしょう。でもね、だからこそ湘の兄上には不自由なく過ごしていただきたいし、わたしはそのお手伝いとお世話をしたいのよ。兄上が宮中にいらっしゃる間だけでも……どうしたの、呆けた顔で」
「いえ、その、思ってたよりもいい話ですねえ、と」
「一言余計よ」
いいながらも少しだけ顔を赤らめている様子がこの上なくかわいらしい。
慌てたように服の裾を整えてみたりして、少し間を空けてから、彼女は言う。
「というわけだから、少しの間天香には我慢を強いることになってしまうかもしれないけれど……いい?」
「そんなの、決まってるじゃないですか」
天香は即答する。
ここまで言われなくても、最初から答えなんて決まっている。
たとえよくなくてもそうとは言いづらい流れだったけれど、嫌な気持ちはない。言葉巧みに持っていかれた結果ならそうも思ったのだろう。でも、麗瑛はそういう考えでそうしたのではないとわかるから。
だから我慢とか不満とか、そういうものは考えてもみなかった。
少なくともこのとき、天香はそう思ったのだ。
「殿下がやりたいことなら、私はそれを支えるだけ。もし何かあったらそのときは二人で――前もなんか、似たようなこと言ったじゃないですか」
「……ありがとう、天香。だからあなたがだいすきよ」
「私も、大好きですよ」
微笑を交わす。ここで抱きついて来てもいいのに今日は来ないな、と天香が思っていると、やや下の側から思い切り不服そうな声がした。
「……忘れられてますよね、私」
「そんなふくれ面をするよりも、そういうときは先に察してどいておくものよ、光絢」
天香の首元でその言葉を聞いていた光絢が、うーとかがーとか唸り声か吠え声みたいな、少なくとも十五歳の女の子の出していい声じゃないものを発しながら立ち上がる。その声やめたほうがいいと思う。
「私はまだ納得してませんし! 諦めてもないですからね!」
そしてそんな事を言いながら部屋を出て行った。
「あれ、負け惜しみだと思う?」
「聞かないでくださいよ……」
聞かれたって答えようがない。勝ち負けじゃないはずだし、そう思いたいのだけれど。
そんな事を思っていると、麗瑛が切り出した。まだ話は終わっていなかった。
「私が前もってあなたに伝えたのはね、この間のことを反省したからなの」
「この間?」
「子ども扱いしないでくれって言われたでしょう? だから、今回は先に言っておこうと思って」
「瑛さま……」
じんと胸に暖かいものが広がる。
「だから――交換条件というわけじゃないのだけれど、ひとつ頼みたいことがあるの」
「な、なんでしょう?」
「わたしが湘の兄上の相手をしている間、蓮泉殿のことを頼むわね。こちらのことに首を突っ込んではダメよ」
「ええと……はい?」
天香は疑問符を浮かべて首を傾げた。




