六十一、 湘王参内 その二
湘王江柳宗は、青元の言葉通りの時間に後宮に姿を現した。
まだ夕日と呼ぶにはいくらか早い傾きかけた光の下に彼が姿を現すと、どこからか女官か侍女かその両方かがきゃあきゃあと黄色い声を上げるのが聞こえた。
その顔を見て、天香はほう、と感嘆の息をつい漏らした。
「すごいですね。あんな綺麗な殿方、初めて見たかもしれません」
光絢でさえそんなことをささやいたくらいには衝撃を受けているらしい。
見られるだけで眼福だ、なんて福玉も言うだけのことはあった。
「まあ、そうね」
「大昔に、素顔が美しすぎて仮面をつけて戦った将軍がいたって言いますけど、あんな感じだったんでしょうか」
「……どうかなあ、それは」
その劇なら天香も見たことがあった。
そして江柳宗というひとは、その劇で将軍を演じていた役者よりも確実に見目麗しい。
たしかに世評は間違ってはいなかった。少なくとも二人して感心してしまうくらいには。
天香は数日前の幽霊騒ぎを思い出す。海嬪の侍女の恋人という近衛の兵、燕圭のいうとおり、やや軽薄そうな(そして燕圭の言によれば本当に軽薄らしい)ところを除けば悪くない風采の男だった。それに比べれば同じ整っているという言葉で形容はできるかもしれないが、しかしあちらはあくまで整った顔立ちの男らしい男であり、こちらはなんというか、男女の別を感じさせないのだ。
切れ長の瞳からあたりを見る視線は穏やかであり、その立ち姿は頭から細いおとがいを通って上体下体に至るまで、全てすらりとして優美と呼んでよいほど。品よく整えられた衣服は全体的に薄い色でまとめてあって、帯に挟んだ羽扇だけが濃い茶色で目を引いた。
彼を評して蒲柳の質と青元は言ったが、なるほどそうなのだろうという線の細さがあった。ただし、それは触れたら倒れて崩れてしまいそうなやわさではなく、まさに名前の通り柳のような風情を感じさせる。
それが彼、湘王柳宗の第一印象だった。
「ようこそお越しくださいました。湘王殿下」
則耀がうやうやしく頭を下げ、天香たちもそれに続く。
柳宗がそれに返礼して、一行は殿の中へと入る。先導する則耀に続いて天香がその階を上がりかけて三段目、その足が階の天面を捉えるよりも先に、くらりと姿勢を崩した。体が後ろに傾く。
何でこんなときに。天香は頭の中でだけ盛大に自分を罵る。
体勢を整えて足を踏ん張ることはできなくない。できなくはないけれど、それをやるとたぶんみっともない姿になってしまう。声もたぶん出てしまう。賓客の前でそんな醜態を晒すくらいならいっそこのまま倒れこんだほうがましかも――なんてところまでが一瞬にして脳裏をよぎる。話に聞く走馬灯とはこういうものなのだろうか。
倒れこむ衝撃を覚悟して反射的に目をつぶり――思っていたよりも早く、そして激しくなく、ついでに言えば人肌温かい衝撃が来た。
――あれ。
恐る恐る目を開ければ、床にも庭にも倒れていないことに気がつく。
そして背中と肩口に人肌の感触。これは、と後ろを振り返ろうとしたところに、落ち着いた声がかけられる。
「大丈夫ですか」
まぎれもない男の声。この場にいる男は一人だけ。すなわち、柳宗だった。
踏み外して姿勢を崩した天香が背後から抱えるように支えられている、そういう体勢だ。焚きしめられたさわやかな香の匂いが天香の鼻をくすぐった。
初めて聞いた柳宗の声は高すぎず低すぎず、じわりと染み入ってくるような、聞くものを安心させるというか、そんな声だった。……と、思いを馳せている場合ではなく。
天香は慌てて身を起こし、柳宗の支えから離れると拱手してその頭を下げる。
「も、申し訳ございません!」
「――おや?」
宥めるように手を振りかけた柳宗が、何事かに気づいたように声を上げて少し首を傾げてみせる。
「貴女は、新しい侍女では?」
「はあ……」
何事かと身構えながら、天香は歯切れの悪い返事をする。
「そうでしょうね、見覚えがなかったものですから」
「お戯れを、新人ならほかにもおります」
侍女も女官も、それこそ末端まで含めれば相当の数がいる。まさかその顔をすべて覚えているわけではないだろうと思う――思いたい。もし覚えていたとして、その全員にこんな声をかけるわけはないと思う、けれども。
――たらし、なのかしら。
表に出せないような失礼なことを考える。
いや、粗相をした自分への気遣いだろうとは薄々わかる。緊張で身が固くなっているとでも思われたのだろうし、もしかすると自分でも自覚できないうちにそうなっていたのかもしれない。その証拠に、こんな砕けたことを考えるくらいの余裕ができている。
余裕ついでに、抱きとめられた瞬間、どこか近くの殿舎のほうからまた黄色い声が上がったようなのを聞いたことと、まさに今、衝立の後ろや御簾の向こうそれに柱の影あたりから飛んでくる視線が痛い気がするのは気のせいということにしておく。代わってほしいとか言い出す人がいたらむしろ代わってほしい。いたたまれない思いのまま、天香は再び則耀に続くように歩き出す。
柳宗もそれに続いてまた歩き出す。そこには構えた格好も気取った様子もない。なにか特別なことをしたとさえ思っていないような風情で、それがまた嫌になるほどさまになっている。
柳宗の年は青元と変わりないはずなのに、もっと大人びた――いや、立派な成年男性にそんな言葉はふさわしくないかと言葉を変えるなら、もっと落ち着いて見える。天香は歩きながら抱きとめられた感触を思い出す。いくら線が細いとはいえそこはやはり男の力か、予想以上にしっかりとした強さがあった。
と、そこで唐突に気づく。青元と変わりないということは二十も半ばを過ぎている。その年で妻を持たないというのは何か理由があるんだろうか、という小さな疑問だ。皇族であるなしにかかわらず、高位の貴族であればもっと若いときに結婚することも珍しくない。たとえば少しばかり事情が違うとはいえ、麗瑛も当年とって十八歳なのだ。
もちろん本人に聞くわけにもいかない。ただの答えのない問いなのだけれど、それは少しだけ引っかかった。
やがて設えられた広間の前に着く。といっても天香と麗瑛がひそやかな婚儀を挙げた蓮泉殿の広間ではない。というよりも殿舎そのものが違う。ここは国帝青元の住居、青円殿だ。
その広間に入ると、そこには麗瑛が立ったままで待ち構えていた。そして柳宗の姿を見るやいなや輝くような笑顔で両手を広げ、歓迎の姿勢をとって挨拶をする。
「いらっしゃいませ、湘の兄上。お久しゅうございます」
「やあ、公主殿下。お元気そうでなによりです。少し背が伸びましたか」
「首を長くして待っていただけですわ」
「しばらく見ないうちに、また一段とお綺麗になられたような気がしますね」
「いやですわお兄さま。まだ半年と少ししか経っていませんのに」
「宮の年ごろの半年というのは、見違えるのには十分すぎると思うのですけれど、ね」
微笑を浮かべた和やかな声色でそう褒めそやされて、麗瑛が面映ゆそうに顔を伏せる。
気の知れた挨拶であるというのに、むしろそうだからなのか、彼以外の口から出たならば歯の浮くようなの一語で済まされそうな言葉が続く。
「大人になったと思ったのは本当だとも。何せ昔は飛びつくように迎えてくれたというのに、今はもう一端の令夫人のような御振る舞いだ」
「……あまり、からかうのはおよしください」
殿下が照れている。
あんなにわかりやすく頬を染める麗瑛を見て、天香は訳もなく衝撃を感じた。
できることなら今すぐ寄って行って目を塞ぎたい。可憐な赤い顔を隠したい。ふとそんな思考が浮かび上がって全力で打ち消す。
「あまりからかうのはやめてやれ湘王。いや、柳」
上座の側から、砕けた口調で青元が言葉を投げかけて割って入る。
帝だけが着られる竜の刺繍が縫い取られた豪奢な衣装を羽織り、行儀悪く膝を立てている。そんな気の抜けた姿勢の国帝の姿にやや目を見開いて、湘王は臣下の礼をとった。
「困らせるつもりはなかったのですけれどね。お久しゅうございます、陛下」
「そんな堅苦しい挨拶はなしでいい。どうせこの場にはそれで困るやつなどいないだろう」
青元はそう言って、いたずらっぽくにやりと笑った。
「ああ――そうですね。しかしだからといって、あなたは少し気を抜きすぎじゃないですか、青」
微笑みを崩さないでその口調もまた丁寧なまま、しかし青元に返したその声はすぐ前の言葉とはがらりと変わって昔なじみの気安さに溢れていた。形ばかりとはいえたった今までは確かにあった、帝と臣下という垣根などそこにはすこしもなく。
その声色だけで、柳宗という人間のまとっていた、どこかこの世離れした雰囲気までも吹き飛ばしてしまったことに、天香は目を疑う思いがしたのだった。




