五十八、 幽霊一件 その三
三人を見送ったあと。二人の部屋。天香は麗瑛に尋ねる。
鏡に向かって髪を梳いていた麗瑛はそれに軽い返事を返して。
「瑛さま、いくつか聞きたいことが」
「なーに天香」
「――いつからお化けが怖くなくなったんですか?」
ぴたり、と麗瑛の動きが止まる。
「何のことかしら」
「変だと思ったんですよ。だって瑛さまだって幽霊とかそういうの苦手だったはずじゃないですか。覚えてますよあれは確か五、六歳のころ――」
「その話は今あんまり関係ないんじゃない!?」
珍しい、殿下のほうが劣勢だ。光絢あたりがこの場にいたらそんな風に思ったかもしれない光景だった。
天香が感じた、幽霊の話を食らいつくように聞く麗瑛の姿への違和感。自分が苦手なのと同じように、麗瑛もまたその手の話が苦手だったはずなのだ。青元の脅かしに大泣きしたこともあったし、そのあと夜中に起きたら怖くて一緒に手を繋いで深夜の廊下を、いやその話は今はいい。とにかく、だから天香は違和感を覚えたのだ。
「もしかしてと思ったんですけど、瑛さまは全部わかったうえで光絢たちを送り出したんじゃないですか?」
「わかった? 何を?」
「この幽霊騒ぎがどうして起きたのか、を」
じりじり、と燭台で蝋のはぜる音がかすかにひとつ。
「――さあ、どうかしら」
「……やっぱり本物の幽霊じゃないんですね」
少し間を空けて帰ってきた、含みを持たせた答えと微笑み。それだけで天香にはわかる。もちろん麗瑛も天香がそれに気づいたのがわかっている。だからか、彼女は小首を傾げてひとつ問いかける。
「本物の幽霊だったら見てみたかった?」
「いえいえいえそんなそんな」
首をぶんぶんと振って即答する天香に、麗瑛は重ねて聞く。
少しだけ、違った言い回しで。
「じゃあ、もし本物の幽霊なんてものがいるとしたら……会いたい?」
その問いに天香はちょっとだけ考える。
好奇心、怖いもの見たさと言う意味では見たくないこともない。苦手ではあるけど。心のどこかで少しだけ、でもすぐ逃げ出せるような体勢で、なるべく危なくないところで、出来るなら明るいうちに、ってそれじゃもう幽霊とかじゃないな。
けれどわざわざ麗瑛が、見たいか、ではなく、会いたいか、と聞いた意味はたぶんそういうことじゃないはずで。
「会いたくは、ないですね」
天香はそう答える。
「英彩さんがさっき言ってましたよね。幽霊って思い残したことがあるから出て来るんだって。だからそれをやりたくて、または誰かにやってほしくて姿を見せるってこと、なんでしょう。……でも、それって悲しいなって」
「悲しい?」
「だって、その思い残したことって私たちに出来ることとは限らないでしょう? もしかしたら誰にももう叶えられないものなのかもしれない。知らない誰かでもそう思うんだから、自分の知っている誰かがそんな思いを抱えていたなんて、たぶんもっとずっと悲しい。だから――死んだ後のその人じゃなくて、生きてるその人に会いたいって、そう思います」
麗瑛はその言葉に静かに一度頷いて言う。
「わたしも同じ。幽霊でもいいから会いたい、なんて思う人もいるんでしょうけど、それは我が儘。生きているうちに会わなきゃ何にもならないわ。それに――」
「それに?」
聞き返す天香ににこりといたずらっぽく微笑む。
――あ、この顔はあの顔だ、なんて天香が勘付いたのが先か麗瑛がその身を寄せてきたのが先か、気づけば寝台に押し倒され、その肩口に頬を摺り寄せられ、左腕は麗瑛の腕によってその胸元とへと抱え寄せられていた。
「見たことはないけれど、幽霊なんて触ろうとしてもすり抜けてしまうんでしょ? なによりも、こんなに温かくもなさそうじゃないの」
「……もー」
天香は眉根を寄せる。仕方ない人だなと思いながら。
けれど、確かにその肌のぬくもりは生きている人間だから――麗瑛だから、心地いいのだ。
その心地よさに、天香は自分からその肌を寄せにいった。
――麗瑛と天香がそんな会話を交わしていた頃からいくらか経った後。
「わあ! なんか今ガサガサって言いました! ひゃ! 今度は首、首に!」
「静かにしないと出てこないわよお、幽霊」
「ガサガサ言ったのは私が踏んだ枝、首に触ったのは木の葉っぱよ。あなた大丈夫って言ったじゃない……」
「お姉さまがいれば大丈夫なんですお姉さまにいいとこ見せられると思ったんですうううう」
「「まったくもう」」
そんな風に言い合いながら、三人は『そのとき』を待っていたらしい。
そして。
「本当に出たああ!」
「本当に出たああ!」
声が重なった。前者は震え混じりに、後者は少し嬉しそうに。
その中で最後の一人は、静かに握った棒を握り締め。
「殿下の仰ったとおり……か」
そう小さくつぶやくと、彼女は二人を庇うようにその前に自らの体を割り込ませる。
そしてその隙の無い体捌きのまま一歩を踏み込んで、握った棒を静かに、しかし鋭く振りぬいた。
***
「で、こうなったわけね」
蓮泉殿の中庭。
先日は男たちが並んでいたそこに、今日は二人だけが――ひと組の男女が並んで座らされていた。
首だけを天香に向けて麗瑛が言う。
「どう? わたしもちょっとは出来るでしょう?」
「私もって」
「あなたばかりが頭を使ってるわけじゃないのよ」
「いやそれはわかってますけど」
「本当に?」
「あの、それは後でゆっくり聞きますから、今はそこのお二人に何かお言葉を」
以上小声で交わされた言葉は二人には届いていないはずだ。
中庭には砂利が敷かれているので、一応執子の一種を置いている。その上に青ざめた顔をうつむけて、二人とも神妙な面持ちで座っている。
「お言葉といわれてもねえ。自分たちの逢い引きのために人払いをしようとして幽霊をでっち上げたんでしょう? 特に掛ける言葉が見つからないって言うか」
呆れ混じりだと誰にでもわかるような口調で麗瑛がばさりと断罪する。
――そう、それがこの幽霊騒ぎの真相。
人魂というのは鉄線に吊るした布に火をつけて、白い人影が宙に浮かんだのは人形に着せた布を木の上からこれも鉄線で吊り上げて。そうして丹慧と一緒に来た侍女たちを驚かし、蓮泉殿の三人を驚かして、失敗して今に至る。というわけだった。
「わ、私が! 最初に話を持ちかけ……いえ、やろうと言い出しました。罰するなら私を!」
額をこすりつけるようにして、女――昨日案内してくれたその当人、丹慧が声を上げる。
その隣で、男――近衛の官服を身につけた青年が歯切れの悪い言葉を口にする。
「おおお俺こそ、いえ私こそ、えー、それを止められず! このようなことになりましてそのー」
歯切れは悪いが、その姿勢にもかかわらず丹慧以上に声が通るのは日々の鍛錬の賜物だろうか。まあ、こんなところ以外で役に立ててほしいものだが。
「まあこいつはこういう男ですよ」
吐き捨てるように言ったのは、それまでじっと黙っていた燕圭である。
「……知り合いなんですか?」
「同期です」
ええ……と、蓮泉殿側の人間の中から声にならないため息が漏れた。
構わず、燕圭は言葉を続ける。
「女癖が悪くて頭の中身も軽い男です。見ての通り風采は悪くないし武技のほうもなかなかで――まあそうでなければ近衛などにはいられませんが、そのわりには考えがまあ軽い軽い。それで何人の女を泣かせたか。今回だってどうせ大したことなど考えていませんよ。こんな大事になるとも思ってなかったのではないかと――いや、失礼しました」
普段にない長台詞が、そのまま彼女の苛立ちをよく表している。
「待ってくれ燕圭、ひとつだけ訂正させてほしい! 今までの女が泣いたのは全部俺のせいだってわけじゃないし、それもこれが最後だ!」
「そんなことを問題にしてんじゃないわこのタワケがッ! ……失礼」
怒鳴ってから、恥ずかしげに燕圭は口元を押さえる。蓮泉殿組にしてみれば珍しいものを見たので、言葉は少しおかしいかもしれないけれど、なにか感動というか、それに近いものがある。
完全に見物人気分で天香が見ていると、というか実際見物しているだけなのだが、そこで光絢が素朴な疑問を口にした。
「でも、あの色、普通の火じゃなかったですよ。もっと青っぽい怖い色でしたよ?」
「軍で使う煙火の類だと思います。あらかじめ決めておいた色をつけた光や煙で情報をやり取りするんです。私も詳しい理屈は知りませんが……こいつは顔が広いので」
そういうものを担当している兵から教えてもらったのではないか、という、燕圭の見立てだった。が、しかしそこで慌てたように「こいつ」こと近衛の男が声を上げた。
「違う違う。そんなこと迂闊に言わないでくれ。俺が軍から材料をくすね、いやええと、着服したように聞こえるだろうが。知り合いの劇団の奴に聞いたんだ。ほんとだって」
「どっちでもいいわ阿呆ゥ! お前はそこで這いつくばってろ!」
同期という事で気安くなっているのを差し引いても当たりがきついような気がする。いや、同期だからこそ、これまでに積もった苛立ちがあるのかもしれない。これまで何人もいるという泣かせた女の中に仲のいい友人とかが含まれていたり――まさかその中に燕圭自身が、なんて思い至って。
いやこの剣幕だったら自分で半殺しじゃ済まない目にあわせてそうだな、とかなんとか天香は場違いな感想を抱いたのだった。
三話で終わらせる予定だったのに(またか)




