五十五、 朝雀・あるいはとある朝のふたり
「んぅ……」
寝台の上で天香は身じろぎをした。まぶたを開ければ、朝日が部屋を白く染めている。
ぼんやりと霞む寝起きの視界の中で、窓辺から小鳥が飛び立つ。
ひとつ小さくあくびをして身を起こしかけて、天香ははだけてずり落ちかけていた薄地の寝巻きを左手でかき合わせた。天を向いて脱力している右手は、まだ傍らで小さく寝息を立てている麗瑛の両手に囚われている。
目覚めたての心地よい気だるさのまま、右手から麗瑛に視線を移す。
腕の上にかかる黒い髪の流れの中から再び現れた、肩から首筋に続く白い線を目でたどっていく。すうすうと寝息を立てる口元に向かおうとしたところでその視線は逆のほうへと吸い寄せられて、天香は我知らず頬に血を上らせた。ずり落ちかけているというのを超えて、これは。
肩甲骨の少し下辺りまでは夏用の薄い肌掛け布に包まれている、つまりそこから上は掛け布から露出しているうつぶせの白い背中が、寝息に合わせて小さく上下する。その肌の吸い付くようななめらかさを思い、はあ、とため息をひとつして。
「――触りたい」
口からこぼれた音が耳に届く。
その一瞬後、火がボッと噴き出しそうな勢いで頬に朱が走った。
いま、わたし、なんて、いった?
これも絶対に瑛さまのせいだ。悪影響だ。と天香は胸中で叫ぶ。
前はこんなことはなかった。そんな節操のない思考ではなかった。そうだ日夜を問わず触れられるからいけない。そうして慣れさせられた結果だ。断固としてそうだ。
毎日こうして寝食を共にしているというのに、前よりももっと近くに行きたいなんて。
ぐちゃぐちゃと思考するが結局は肌を寄せたいというだけの衝動を、天香は深呼吸して押さえ込もうとした。
(そんなことをしたら起こしちゃうし)
ここで押し留まれるから自分はまだ大丈夫だと、もちろん全然大丈夫じゃない自己弁護をしながら。
でも、と思い、天香はその手を伸ばす。
寝台の上に流れているつややかな黒髪のひと房をそっとすくい取って、自分の指に巻きつけてみる。その髪をそっと口元に寄せて押し付ける。ほのかな香の匂いが鼻をくすぐる。
頬の熱とは別に、胸のうちにほかりと温かい何かが生まれる。
衝動や欲望ではなくて、それは安心感に近い柔らかい感触のもの。
けれど同時に、不思議となぜか少し涼しい思いもする。
「腕、細い、な……」
あらためてそう思う。
麗瑛の腕も、首も、おとがいも、もちろん肩も、白い朝の光の下でいっそう白くて細い。触れるだけで折れてしまいそう、みたいな病的なものではないが、しかしその細さで後宮という大きなものを抱え込んで差配しなければいけないと考えると、それはあまりにも細く見える。
この細い腕を痛めてしまわないように。
この細い腕が折れてしまわないように。
できれば、そう――。
――と。
「ひとの髪をいじりながらそんなむずかしい顔しないでちょうだい」
「はう!?」
麗瑛の声に心臓が跳ね上がった。
いつの間にか麗瑛はぱちりと目を覚ましていて、横たわったまま黒目がちの眼で天香を見上げている。
「ど、どこから起きて……?」
「目を開けたらあなたがその格好で固まってたから見てたんだけれど、なかなか気づいてくれないんだもの」
「うう……」
髪を掬ったそのままの姿勢で物思いに沈んでいるうちに時間が過ぎていたらしい。
ということは髪に口付けたりその前のあれこれあたりは見られていなかったらしい、とすこし安堵する。その安堵をすかさず見咎められる。
「何にほっとしたのかしら」
「べ、別にほっとしてなんて……そもそも瑛さまが、その――」
掛け布からのぞく肌に目を吸われて離せなかった、などとは言えなかった。
***
「そういえば、あのかたは結局子を流すことにしたのですってね」
朝餉を食べ終えた後で、麗瑛がそう切り出した。
青元を騙る偽者の子を孕んだ彼女の話だ。
あの騒動からすでに十日以上が経っている。
「そう、ですか」
「実家に帰るそうよ。事情が事情だからお休みっていうことにするらしいけど」
「でしょうね」
相槌を打ちながら、天香の心の中にはもやもやとした気持ちが渦巻いていた。
今回の噂の経緯について青元はとくに緘口令を出さず、麗瑛はむしろ女官たちに積極的に話を広めさせた――もちろん蓮泉殿の侍女たちも参加して――ので、それはすでに後宮中の人間の知るところとなっていた。
受け取った側の反応はさまざまだったが、大半は騙された彼女への同情と、いくらかは青元への同情も含まれていたという。もちろん、そんなことを許してしまった警備の問題や青元自身への批判・不満もなくはない。批判する相手が相手だけに後者はそこまで大きくも激しくもないが。
とはいっても、本人に興味本位な視線を投げる人間はいるだろうし、彼女も居づらいだろうことは想像に難くない。
ただ、もやもやの根本はそこではなかった。
「結局、陛下の偽物って誰だったんでしょう」
「あそこにいたうちの誰でもなかった、ってことですものね」
「全員を集めたわけではないけれど……今のところ不自然に消えた人間もなし、やめると言いだす人間もいない、となると、庭師工人の線はなかったってことになるわねえ」
国帝青元を騙った人間について、一番最初に疑いの目を向けられたのは当然、後宮に入り込める立場の男たちだった。つまり、庭師、工人、そして門衛侍衛に内官長の部下の官吏たちである。蓮泉殿の中庭に連れ出されたのはその全員ではない。
もしあの中に騙った人間がいたなら話は早かった。あの下女がその男を指し示していたはずだからだ。だが、そうはならなかった。そして内官長からの報告によれば、配置などを問わず、ことが公になった後に急に辞職した人間も、それすらなく姿を消した人間もいないということだった。
「慌てて逃げ出すような小心者ではないか、もしくはその中にはいなかったかだな」
その報告を聞いたとき、麗瑛と天香の前でそう青元がこぼしていたのを思い出す。
「庭師工人官吏でなく、夜の後宮に入れる人間……いるんですか、そんな人?」
天香はそう疑問符を浮かべて訊ねる。
「まったくいないわけじゃないでしょう。お兄さまが許可を出せばいいのだから」
「その許可ももちろん記録にある、はずですよね」
重ねて確認すれば、そうね、と麗瑛が頷く。
後宮にやってきたころ天香が聞いたように、許可さえ下りれば楽団や商人の類でさえ後宮に入ることは出来る。妃嬪の日々の無聊を慰めるものだ。そのほかに国帝自らが歓待する賓客もまた後宮に滞在することがある。それらの許可の記録はもちろん残っているはずだ。
見つかれば厳罰追放とは言うが、それは逆に言えば見つからなければどうにもならない、ということだ。実際に今そういう事態になっているのだから。要するに、妃嬪に近づくものには厳しく目を配るが、女官や下女についてはそれほどではなかったのだ。とはいえ、それでも誰かに見咎められれば罰は免れないだろう。そういう意味では度胸があると言うか肝が据わっているというか。
いや、それを言えばそもそも帝の名を騙るなど、普通の太さの神経では出来ないだろうけれど。
「でも、その程度のことはもう内官長も女官長もわかっているでしょう? そのうえで、十日以上も過ぎてなんの進展もないというなら、その側から調べても行き詰まってるということなんじゃないかしら」
「……ということは、わたしたちではお手上げですか」
天香は肩を落とす。詮議の件にしても後宮の中、いや最大限甘く見ても帝城の中で終わることだったから麗瑛の差配の範囲内で協力も助力も得られた。だが相手というか、犯人候補が城の外にも広がるとなると、いかに麗瑛が長公主であっても権限にも限度がある。
お忍びで城下に買い物には出かけられても、そこで人探しをして成果が上がるかどうかはまた別の話、なのだ。天香にもそれは理解はできる。だからここは下がるしかない。
「わたしだって気になるのはあなたと同じ。でも、残念ながら……ね。それにしても天香――」
「何です?」
首を傾げる天香に、麗瑛は言う。
「下女のこと、気に病んでいるんじゃないかと少し心配だったのだけど。大丈夫みたいで安心した」
「ああ、まあ……もうちょっと上手いやり方があったんじゃないかとは、思ったのは確かで……」
晒し者にするようなやり方ではなく、もっと他のやり方が。
自分の提案が、彼女の居心地を悪くさせた原因のひとつになったのは確かだし、そういう意味では悔いが残っていないとは言わない。けれど。
「でも、たとえば内々で処理してしまったとしたら、陛下と彼女がまったく無関係なことは見せられなかったと思うし……それに何より、後宮の差配って意味では瑛さまにも矛先か何かが向かないとも限りませんし。あ、瑛さまならそれも黙らせるくらいできるとは思いますけど、いや、そういうことが言いたいんじゃなくって」
間違っていたとは思わない。そう主張したくて言葉を探しながらわたわたと繋げる。
そんな天香を見て、麗瑛が軽く吹き出した。
「もういいわ。そんな慌てなくたってわかるわよ」
「だって」
「あとはそうね、何年も経った後になって、お兄さまの自称ご落胤なんてのが出てこないとも限らなかった。その可能性もまとめてつぶせたわけだし?」
「や、そこまで考えていたわけじゃない、ですけど」
わたしの姫さまはやっぱりちょっとだけ過激、かもしれないなんて天香は思う。
言われてみれば、確かにそういうこともありえたかもしれない。けれど顛末を広く知れ渡らせたために、例えばそういうことだって先んじて防げたのだと、それは天香の判断を後押しする言葉だった。
「あのかたのことを少しでも不憫に思うのなら、騙した人間にはその分まで合わせてきつい罰を与えなきゃ。そのときどうするか、今から考えておきましょう。それに――」
帝を騙ったという一件だけでもすでに犯人の極刑は決まったようなものだ。最終的に死ぬのならばそれまでの間に……と麗瑛は言いたいのだろう。正直、天香もそれに異論はない。が。
「それに?」
「――沈んだ顔の天香は全然可愛くないんだから」
言って、にやっと唇を歪ませる。
からかわれたと悟ってすぐさまかあっと赤くなる、いつもながら単純な自分の頬に呆れながら天香はうつむいて、麗瑛の肩に手のひらを交互にぺしぺしと打ち付ける。
そして打たれた麗瑛は、打たれながら愉快そうに喉を鳴らして笑った。




