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公主殿下の寵姫さま  作者: 有内トナミ
五章 重陽 編
106/113

百一、 観月 中 香陽の不語



 昭華は一拍溜めるようにして、そして口火を切った。


「お話――ええあるわよ。さっきから聞いていたけど、あなたはそんな会話をするためにこっちにいらしたの? この間はありがとう、お月様が綺麗ですね、このお菓子はおいしいですね、そのお召し物は――それならいつもみたいに取り巻きとしてても変わらないじゃないの! それ以外に何か言いたいことがあったから、こちらの舟に乗ったのじゃないの!?」


 話しながら次第に声が大きくなるその一瞬の間に、天香はどうにか口を差し挟んだ。


「お、お声が大きいです洪妃さま」

「昭華と呼んでちょうだいと言ったはずよ、妃殿下」

「ええ、はい、そうですね、昭華さま」


 心中ではそう呼べても本人を前にしてはなかなか言いにくいという心情も汲んでほしい。天香はそう思いながらも、なだめるように名を呼んだ。ちらりと見ると麗瑛はなんとも言いにくい顔でいる。

 ――そんな顔をするくらいなら割って入って助けてほしいくらいなんだけど。

 しかしそこに割って入ってきたのは麗瑛ではなく、李妃だった。


「あ、それはよろしいですね。妃殿下、わたくしも名前で呼んでくださいませんか?」

「……はい?」

「駄目ですか?」


 唐突な、というか空気を読まないといったほうがいい申し出に、昭華は言葉を失い、天香は反応に困る。李妃当人はいい思い付きだとでも言いたげに顔を輝かせている。

 その反応に、先ほどの船着場と同じように李妃はまた小首を傾げた。

 その表情は蠱惑的や艶やかというよりただ無垢に見える。どこかふわふわと捕らえどころがない。良い言い方をするのなら、透明感とか儚さというのが近いのか。この前は病気だからかと思ったが、回復しても変わりがない。洪妃――昭華はおそらくそれをお高く止まっていると腹を立てていたのだろう。

 それはともかく、諾か否かで応えなければならない。――もっとも、拒否する選択肢はない。すでに洪妃のことを名前で呼んでいる以上は。


「か……香陽、さま」

「はい」


 たどたどしく名前を呼ぶと、李妃・香陽はにこりと笑みを浮かべた。

 横で見ていた昭華がじれったそうにいらだった様子で話を挟む。


「話を戻させてもらうけど。あん……貴女は何か話があってわざわざこちらに乗り込んだんじゃないの? と聞いているの。答えなさいよ」

「おっしゃっている意味が良くわかりません。わたくしがあなたに話があると? 逆ではなくて?」

「私かどうかは知らないわ。蓮泉殿下か妃殿下かもしれないし。いつもの取り巻き連中を置き去りにしてまでこっちに乗ってきたのはそういうことじゃないわけ?」


 詰問に対して、香陽は視線をいくらかの間ふわふわとさまよわせた。彼女なりにその内容について考えているようだったが、やがて昭華へと向きを直すと。


「――さあ?」

「さあ?」


 言葉が継げなくなったらしい昭華だが、その気持ちは天香も同じだった。

 なにしろ李妃が一人で動いているところなど見たことがなかったからだ。

 天香が宮中に来てから半年がそろそろ過ぎようとしている。けれども、これまで香陽が昭華のいうところの取り巻き連中――具体的には寧嬪や徐嬪、先日まではそこに采嬪もいて、たまに劉嬪あたりがいたこともあった――そんな親しい人間達以外と行動しているところなどほとんど見たことがなかった。

 ただでさえ、貴族階級の女人が誰一人つれずに出歩くことなどまずない。貴族家どころかその女当主でありながらそれを無視して蹴倒している人間が一人、今も宮中にいた気がするが、彼女はそれほどまでに型破りなのだ。

 それだけに、今回の彼女の行動は洪妃だけでなく誰の目から見ても、自分や麗瑛からさえも驚きでしかなかった。側近とりまきたちはなおさらだろう。だというのに当の李香陽はといえば、怪訝な表情を浮かべて首をひねっているだけだ。


「では、何一つ用事なんて無かった、ただの気まぐれと仰るのね?」

「……わたくし、何か責められるようなことをしたのかしら?」


 困惑した表情のまま香陽が言った。

 意を決して、天香は二人の間に口を挟むことにする。自分も李妃の行動のわけが知りたかった。けれど二人だけで会話させていては、そこからどんどんずれて行ってしまいそうな気しかしない。


「香陽さま、昭華さまは、えーと、責めているわけではありません。ただ何か……そう、お悩みのこととか、お困りのことがあるんじゃないか、と思われたのでは?」

「…………そういうわけじゃないけど、まあそういうのでもいいわよ」。


 そうでしょう? とわざとらしく話を振ると棒読み気味に返ってくる。

 一方でお冠だったのを冷まさせることは出来たらしく、気色は少し落ち着いたようだった。

 対して香陽は、お悩み、お困り、と二三度口の中で繰り返していたが、やがて。


「やっぱりよくわかりません。――それより、なぜ貴女がわたくしを心配なさるの?」


 そう訊ね返されて、昭華は心底から不本意そうな顔になった。


「心配なんかしてない。それとも何? わたしに心配されるのがご不満というわけ?」

「だって、心配されるような心当たりがないのですもの」

「だから心配なんてしてないって言ってるでしょう! ああもうはっきりしない! じゃあ、言いたいことは別に何もないのね? あたしはそれが気になるだけなの!」

「昭華さま、落ち着いてください」


 語気が次第に荒くなっていくうえに地が出始めている昭華を、天香はなだめた。

 対称的に、香陽は口元に手を当てて考え込む。「言いたいこと……」と小さく口に出したのを聞いた。

 そのまま長い沈黙が降りる。何分なのか、それとも実はもっと短かったのを長く感じただけだったのか。


「……よくわかりません」


 結局返ってきたのは先ほどと同じ言葉で、昭華が気を削がれたように脱力する。

 誰かが反応を返すより前に、けれど、と香陽は続けて口を開いた。


「こちらに来たのは、両殿下のご様子を見たかったのかもしれないと――そう、今思いました」

「わ、私たちですか?」


 天香はびっくりして思わず訊ねてしまった。


「面白そうなお話ね」


 いきなり割って入った声と共に、天香は背後から自分が抱きすくめられたのを感じる。もちろんこんなことをするのはひとりだけなわけで――その声の主はおもしろそうな声で香陽に訊く。


「こういうこと?」

「瑛さまっ! お二人見てるじゃないですかやめてください!」

「見たいって言ってるじゃない」

「こういうことじゃないと思います!」


 背中に心地よい重みとぬくもりを感じながら天香は抗議する。しかしもちろん麗瑛は笑ったまま離れようとしない。その体勢のままで両妃のほうを見れば。


「……」

「……」

「ほらー! お二人とも呆れてるじゃないですか!」


 二人ともなんとも言いにくいという表情でこちらを見ていた。

 それに加えて先ほどから、周囲の舟からの視線をちらりちらりと感じていた。注目を集めてしまうのはわかるが、天香としてはまるで舞台の上にいるような気持ちになっている。そのうちの一艘が偶然視界に入る。


「ほら、あちら側からも見られてますって――」

「こちらはお構いなくー」


 物申す声が聞こえたか、あちらの船べりから声をかけられた。それは郭嬪で、その後ろでは劉嬪が茶杯ではなく酒盃を片手に軽やかに笑っているのが見えた。その向こうでうつらうつらとしているのは迦鈴のようだ。天香は今度こそ顔に火がついたように思った。お酒なんて飲んでさえいないのに。

 そのまま舟は少し遠ざかっていく。その合間に天香は身をよじるようにして、なんとか麗瑛の下から抜け出した。


「少しは満足いただけたかしら?」

「ええ、なんとなくですけれど」

「そんなこと聞かれても困りますって……えっ?」


 あくまでにこやかな麗瑛に異議を唱えるが、香陽の返答に思わず半目になってしまう。


「……ご覧になりたかったのって、本当にこういうことだったんですか!?」

「いえ、そういうことではないのですけれど。なんだか、ええっと……よくわかりません」


 それはわからないというより、言葉が見つからないのではないか。いい意味ではなく呆れてるとかそういう意味で。

 と、そこまで考えて思いつく。

 ――じゃあ、さっきのは?

 何度と繰り返された「わからない」も、同じなのでは?――だからといって何が言えるのかまでは頭が回らないけれど。


 そんなもやもやとした気持ちが像を結ぶより前に、昭華が口を開いた。


「で、結局言いたいことは無いでいいのね?」

「まだ気にしてたんですか?」

「だって答えてもらってないもの」


 しれっと言う昭華。こちらもまた自分の意向を曲げないところがあるなあ、と思う。


「ああ、直してほしいところなら一つだけあります」

「そ――それは?」


 気まずさもあって、天香は勢い込んで訊ねた――が、しかし。


「前から気になっていたのですけれど、洪妃。あなたはよく言葉遣いが乱れていますよ。妃ともあろう者がそんな市井の娘のような言葉遣いではいけません」

「なっ、あっ、そ――!」


 昭華が今度こそ絶句して、口をパクパクと開け閉めする。

 頭文字から文意を無理やり類推するのなら、なんであんたにそんなこと……あたりだろうか。わかりやすいというか、なんというか。いい加減上から目線の香陽の言い様も言い様だが、天香はそれよりもむしろ、昭華がそこでまたまくし立てなくてよかった、と思った。


 結局それから舟を下りるまでの間、昭華が香陽と直接口を聞くことはなかった。

 そんな昭華を、香陽がときおり不思議そうに眺めていた。



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