外伝19話~魅せられた人々とその重圧~
俺はBCクラシックを制してアメリカから帰国したが、日本も随分と寒くなってきたな……最初に感じたことはそれだった。
そして時が経ち、寒空の下、俺は今日も競馬場にいた。……今日で、ここに来るのも最後なのか、なんて考える。今は厩務員である沢村さんが丁寧にブラッシングをしてくれていた。
「お前のパドックでの見栄えを良くするのも、これで最後なのか……」
しんみりとした雰囲気が感じられる。荻野さんとさっき顔を見せた横川さんは違ったけどな。鬼気迫る感じだった。
正直まだレース前だし、沢村さんの空気の方がゆっくり出来る。ずっとあれは息が詰まるからな。
「なぁファー、あの時の3択に俺が紙を持っていたら、俺を選んでくれたか?」
あの時の3択とは有馬記念、香港ヴァーズ、引退種牡馬の3択の事だろう。横川さん、荻野さん、宮岡オーナー、館山さんの4人から唯一ハブられた沢村さんは今でもその時のことを根に持っている。
「中山大障害ってふざけて書いても選んでくれたよな?」
ラストランふざけられたらオレも困るぞ。でも大障害……あれか、ジャンプする奴だな。あれはあれで面白そうではあるが……機会があれば、飛んでみたかったかもな。
「うん。よしよし、最高の出来だよ……頑張ってこいよ」
……あぁ。ありがとう沢村さん、勝ってくるから見ててくれよな。
***
ある夫婦の出来事……。
《ラストジャーニー! アメリカの地で最高峰のダートGI BCクラシックを制しGI9勝目をあげた現役最強馬ステイファートム!
最後の旅路として選択したのは中山競馬場。ターフに別れを告げるラストレース、有馬記念に堂々の1番人気として日本に凱旋してきた彼の最後の走りを、その目に焼き付けよ!
その日、競馬界は転換点を迎える。第××回有馬記念! 14時30分放送スタート!》
「あらあなた、食い入るようにテレビを見てもまだ放送は始まらないわよ?」
「分かってるよ。ステイファートムの最後の雄姿なんだから緊張するってもんだろ」
「そんなに気になるなら競馬場まで行けばいいのに」
「夜勤なんだから仕方ねぇだろ!」
嫁に声をかけられたあるおっさんはちらりと新聞紙を眺める。ステイファートム有馬記念ラストラン。その見出しを見てくしゃりと顔をしかめた。
「なんでまだ走ってんだこいつは。この戦績ならさっさと種牡馬入りさせりゃいいのに。俺はもう、リバティみたいな悲劇を見るのは二度とごめんだ」
「あらあら。でもあなただって応援してた時はその豪脚に、敵無しで別格の強さに、天井知らずのポテンシャルに、夢を見てたじゃない。この子も同じように夢を背負ってるんでしょ? なら私たちが出来ることは、無事を祈って応援することじゃないの?」
「はっ! ……もしファートムを怪我させたらぶっ殺してやる」
「素直じゃないわねぇ。あ、そろそろ始まるみたいよ。頑張ってねファー」
ある夫婦の話……。
***
ある青年の話……。
「今日は一段と横断幕の数が多いなぁ」
競走馬、誘導馬、騎手……様々な被写体にカメラを構えてシャッターを切る青年がそう呟く。
「なんたってそりゃ、ステイファートムの引退レースだぜ?」
「……感慨深いけど、寂しくなるなぁ」
「お前はファートムに脳を焼かれてるもんな」
「別にそこまでじゃ」
青年の同志には謙遜するが、青年の貯金額は億を超えている。ステイファートムに応援馬券を賭けたことから始まり、勝った額を次に全額賭け続けたからだ。なお、チキンなので全部複勝である。
「ファートムを追いかけて海外レースまで行っておいてかよ笑」
「だって仕方ないじゃないか。見学会で乗せてもらったり、ファートムからのファンサも凄すぎて」
「お前明らかに認知されてるもんな。すげぇよ全く」
青年の同志は恐れ多いと言うような表情を浮かべるが、青年としては心外という気持ちだ。
ファートムが3歳の夏、ステイファートムの見学会以降本格的に追っかけとなった、そんな青年の旅路も終盤へと近づいている。
「そう言えばファートムの全てをこの写真を収めて来たけど……今日はなんか様子が違ったな」
「へぇー、やっぱ分かるもんか」
「うん。少し顔が引き締まっているというか……あと瞳が、いつもと違う」
「怖い位理解してるじゃん。さすがファートムオタク」
「おいこら、君も俺に引きずり込まれて無事立派なファートムオタクだろうが」
「お前には負けるよ」
その時、本馬場入場が始まった。それと同時に2人はカメラを構えてシャッターを切る。雄大な馬体をターフに刻み込むその姿には本当に惚れ惚れするよ、と青年は思う。
「来たっ! ……うん、頑張れファートム、その旅の果てに何があるのか、俺達も一緒に見せてくれよ」
お目当ての馬が姿を見せる。青年はステイファートムの表情を見て思う。このレース、まだ分からないと……。
あの表情から変わっていないからだ。それでも夢を見て、夢を共に追うのがファンというもの。青年は最後まで信じる。ステイファートムという馬の可能性を……。
これはステイファートムを追っかけてきたファンの、ある青年の話……。
***
不味いな……。一週間前追い切りに跨った僕と、それを見つめる荻野さんの思いは揃っていた。
「数値上は今までと変わらん。だが……」
「気持ちの入りようが問題ですね」
緩やかに衰えていくステイファートムの肉体。そんな中でも2歳の頃から順調に成長し、変わらず動き続ける肉体には尊敬の念しかない。
「勝つという意思は感じる。だが……燃え尽き症候群? のようなものか」
「言葉にするのが難しいですね。最後のレースだから頑張りたいけど、最後だと分かってしまってるからこそ乗り気になれない?」
「あー、好きな漫画の最終回だけ読めない感じか」
「そんな感じです。あと書いてる小説をまとめにかかって終わりが見えた時、展開は見えてるのに書く手が止まっちゃう感じです」
「いやそれは分からん」
荻野さんに突っ込まれてしまった。実は僕も分かんないけど何故かそう思ってしまったんだから仕方ない。
「とにかく不安な表情や声色はダメだ。ファーの奴は鋭いから変に空回ってしまう可能性もある。大丈夫、いつも通りやればな」
決して楽観視はしない。だけど具体的な対策案は出てこない。まぁ、こう言うのは何か逆転の一手があることもあるが、逆に地道な努力が実を結ぶこともある。
「ファー、生きてるかー?」
『横川さん! 生きてるぞ! なんだその縁起の悪い確認の仕方!?』
ファーは奴は変わらず僕に擦り寄ってくる。今までと変わらない、ファーの良い1面だ。ここまで人懐っこいのは本当に珍しい。特に無理やり走らせて鞭を入れる騎手なんて人種に対して懐くのは。
「次で走るのもラストだけど、最後まで一緒に頑張ろうな」
『おぉ! 絶対の絶対に勝つからな! 横川さんも任せてくれよ! ……あぁ、勝つよ。最後まで横川さんと一緒に。必ず……』
……ずっと、ずっと乗っていたいな。ファーと一緒に。僕はそう思いながらファーの顔を撫で続けた。その後にりんごをあげて、ファーの元を後にする。




