(閑話)孫堅その1
・木曜日の投下です
漢土は長江のすぐ南に銭塘江という河川がある。
昔、郡の役人がこの川に塘を築こうと考え一計を案じた。
土地の人々に「土石を一斛持ってくれば、千銭を払う」と宣言したのだ。
旬日のうちに建築予定地に雲のごとく土地の人々が土石を持って集まる。
しかし、役人は「ああ、それね昨日までなんですよ」と言って皆を帰した。
「なんてことだ、間に合わなくて損した」
土地の人々は失望した。
持ってきた土石を川縁に皆捨てて帰った。
そして捨てた土石が積み上がり、その後には役人の企みどおりの立派な堤防ができていた。
このことにより銭の塘の江という名がついたという。
この国の書にはこういう悪知恵をつかって人を騙すたぐいの話が多い。
だいたい騙すのは先進地域である中原、黄河中流域の人々と相場が決まっている。
特に穎川は知恵者が多く、漢の張良、三国魏の荀彧やら郭嘉、徐庶を輩出している。
逆にいうと、このあたり、呉郡と呼ばれるこの漢土の東南方の人々は勇猛だが純朴、騙される方なのである。
さて、銭塘江というのはまたの名を折江という。
これは川がカクカクとあみだくじのように折れ曲がっていることからそのままの名前がついたものである。
呉という土地の人々の素直さがよく分かる。
折江ではそのまますぎるということで、サンズイをつけたのは中原の人であろうか。
後にこの土地は浙江省と呼ばれることになる。
この川は河口が広く、潮汐の影響を強く受ける。
よって、大潮の時期には海水が勢いよく押し寄せ、まるで川が逆流するかのような大津波が見られる。
海嘯という現象である。
前置きが長くなった。
銭塘江でその海嘯を見つめている若者がいる。
肩幅が広く、筋肉質な身体つきで気障にも真っ赤に染めた頭巾をかぶっている。
若者の名は孫堅文台、加冠したばかりの17才である。
その右手には抜身の剣、そして左手には血の滴る生首を一つ下げている。
「さぁ、皆さん。これでもう安心ですぜぇ」
恐る恐る近寄ってきた商賈たちに孫堅は高らかに宣言した。
たった今、孫堅は銭塘江で略奪を行っていた海賊をたった一人で襲撃し、散々に追い散らした挙句、盗品を取り返して賊の首を一つあげたところであった。
「堅っ!危ないことをしおって!!たまたま逃げ散ったから良かったものの……」
その人の群れから初老の男が独り近づいてきて孫堅を叱る。
「こりゃ父上、問題ござんせんぜ?これもご先祖の兵法ってもんでござんす」
「兵法だと」
「勝兵先勝而後求戦ンです」
孫堅は伝説の兵法家である孫子の言葉を引用した。
孫堅の一族はこの孫子の子孫を自称している。
事実は知らないが、孫子が活躍したのはこの呉の地である。
「賊は略奪を終え、すっかり油断して盗品の分配などしてござんした。善用兵者、撃其惰帰」
「……ううむ」
孫堅の父は先祖の兵法を引用されて黙ってしまった。
盗品を取り返してもらった商賈などは軍神を崇めるように拝み始めている始末である。
(嘘なんだけどよ)
孫堅は胸をどきどきさせている。
だいたい今の引用もいま思いついたものだ。
海賊を討伐するにあたり、孫堅は有利そうな崖によじ登り、わざと目立つように旗を振って味方が多いように装った。
そして大声を上げて海賊に向かって突進したのである。
海賊たちもまさか孫堅がたった一人で攻めかかってくるとは思わない。
(これは、大勢の兵士をつれているから自信満々で斬りかかってくるのでは?)
不意を打たれた海賊たちは盗品を投げ捨てて逃げ出してしまった。
そして逃げ遅れた海賊を一人斬り捨てて今に至る。
特にそれ以外の策はない。味方の兵もいない。
孫堅はたった一人で大声を上げて突撃しただけである。
この漢朝でも有数の猛将は、根っからが勇猛で素直な呉の人間であった。
先祖の孫子は尊敬している。
孫子兵法は頭に叩き込んでいる。
だが、戦いとなると血がカッと燃え上がってしまうのだ。
孫堅はそういう人間であった。
― ― ― ― ―
隣の会稽郡に朱儁という賄賂の使い方が上手い武将がいた。
他人が何か困ったことがあると要路に銭や絹を贈って解決しており、そのためには母親の財産を勝手に持ち出すというよく分からない人物である。
ついにはそのために絹商人をしていた母親を破産させている。
自分のために賄賂をするわけではないので義人という評価を受け、さらには親孝行だということで推薦されて県令に昇進した。
残念ながら我々には何が義人で親孝行なのかは分からない。
推薦した太守に聞くしかないだろう。
ただ、あちこちで上司に気に入られたようで、ついに中央に推薦されて交趾の刺史となった。
交趾刺史の管轄下である南海郡の太守と盗賊が蜂起し、各地の城を攻め取っては略奪を繰り返していたので、その討伐を任されたのである。
なお、この当時はまだ交州は設置されていない。
朱儁は会稽で5000人を徴兵して現地に乗り込み、傘下の各郡県の兵を集めて賊を討伐。
その褒賞を受けて1500戸の都亭侯となった。
これにより、賄賂だけでなく戦争も上手いという評価を得た朱儁は黄巾の乱でも起用されることになる。
― ― ― ― ―
孫堅は海賊討伐のあと、あちこちの郡県で軍人として働いていた。
黄巾の乱が起きると、孫堅は朱儁に自分を売り込んだ。
同じ揚州出身者の出世頭である朱儁に憧れていたのである。
朱儁も孫堅の武勇はかねてから知っていたので大喜びで武将に加えた。
孫堅は朱儁に従って潁川や汝南で黄巾の渠帥である波才と戦い、撃破した。
この時も孫堅は頭に血が上って追撃しすぎ、敵に馬からはたき落され死ぬところだった。
孫堅の馬だけが自陣に戻った。
馬がやけにうるさく嘶くため不審におもった味方が馬について迎えに来てくれたので九死に一生を得たということがあった。
(……すこしは戦う前に考えるか)
孫堅は少しだけ反省し、兵法をもう少し使おうと考えた。
波才軍の残党は南陽の張曼成と合流し、南陽郡の宛城に籠城した。
朱儁はこれを包囲したが時間がかかってしまう。
そのころ、北では広宗城を包囲していた董卓が怠慢の罪で皇甫嵩と交代させられていた。
皇帝は黄巾の乱の軍事費が多額なのを気に病んでおり、速戦を求めていたのである。
朱儁も同じように交代論がでていたが、司空の張温が「将軍を軽々しく変えてはいけません」と弁護したため交代せずに済んだ。
なお、董卓は全く弁護されていないが、理由は分からない。
朱儁のほうが賄賂の使い方は上手かった可能性はある。
さて、急いで攻めないといけないが、城を無理に攻めては損害ばかり大きい。
実際に大きかった。
(城攻めは下策だ)
孫堅は思っている。
孫子も蟻のように城壁にとりついて攻めたら兵の三分の一が死ぬと言っている。
「閣下、故備前則後寡と言いますぜ。ここは……」
孫堅は朱儁に献策して城の西南を全力で攻めさせた。
黄巾軍がそれを見て城の西南に兵を回したところを見て、精兵でもって東北を急襲。
ついに城を落とすことができた。
黄巾の乱が終わると、朱儁は車騎将軍となり、銭塘に五千戸の領地を得た。
孫堅も朱儁の幕僚として多額の褒賞を得た。
(出世する親分につくと本当にありがてえな)
孫堅は朱儁についた先見の明を自ら誇っていた。
しかし。
「……解散だってぇ?」
朱儁が突然すべての官職を辞めて、故郷の会稽に帰ってしまったのだ。
朱儁の母が死んだ。
朱儁は孝行息子ということで官職を得たので、母が死んだら喪に服して母をしのばないといけない。
朱儁は少なくとも三年は実家にあばら家を立てて引きこもる。
孫堅の所属する車騎将軍の幕府はあっさり解散となった。
「……俺、何すりゃいいんだろうな?」
孫堅とその部下たちは失業して洛陽に置き去りになってしまった。
・いいねくーださい♪
・参考文献 「孫子」
・参考文献 「三国志 呉書 孫破虜討逆伝」
・参考文献 「後漢書 朱儁伝」




