「俺に養われている分際で」と夫に罵られたので、離婚して美青年を養ってみました
「俺に養われている分際で、生意気な口を叩くな!」
ぱん、と頬を張られる。
夫が愛人に貢物をして、財政状況が苦しくなっているのを指摘したらこれだ。
男爵夫人である私は、夫にやりたい放題されている。
我慢していればいつかは改心してくれるのではないかと耐えてきたが、もういいのではないだろうか。
——もう、疲れた……。
「わかりました、もういいです」
私は夫に、静かな声でそう言った。
——これが、一ヶ月前の出来事。
密かに離婚を決意した私は、離縁状を貴族院で貰って記入した。実家に状況を話して根回しをし、愛人に貢いでいる証拠を固めて離縁の正当性を主張するべく周到に準備をした。
そして、調停官を家に呼んで、夫に離婚を突きつけたのだ。
「なんだと!? 離婚したい? お前みたいな世間知らずの女が、離婚してやっていけるわけないだろう! 考え直せ! そして、俺に恥をかかせたことを謝罪しろ!」
夫は怒り狂ってそうのたまった。調停官も呆れた顔になっている。
実家には夫の言動の酷さを余すことなく伝えているし、出戻り自体は許可を得ているから私が路頭に迷うことはない。
どれだけ夫が脅してきても、私は折れるつもりはなかった。
そうして調停官の尽力もあり、私たちは離婚することになった。
「アイリス、そろそろ再婚のための見合いなんかも考えていいんじゃないか?」
実家に戻った私に、父が言う。
「いやよ。またあの元夫みたいな人に当たったらたまったもんじゃないもの。家の仕事を手伝っているのだから、ここにいてもいいでしょう?」
私の実家は、田舎の小さな領地を有する男爵家だ。税務関係の仕事なども手伝っているのだし、家の穀潰しになっているつもりはない。
でも、両親は私に再婚して欲しいらしく、あれこれとせっついてくるので、なんとか黙らせようと思ってビジネスを始めることにした。
私はビジネスの種を考えながら、領内の視察に赴く。
すると、とある一軒家のよく手入れされた庭に、男の人が座り込んでいるのが見えた。
「っ!? 大丈夫ですか!?」
私は慌てて駆け寄る。
男の人は、へらり、と笑って、うずくまったまま私を見上げた。
その顔は、驚くほどに美しい。切れ長の瞳は青い海のように光を反射して揺らめき、すっと通った鼻梁は彫刻のよう。形のいい唇がゆっくりと開かれると、艶のある声がそこから漏れ出た。
「へへ、暑くて、ふらついてしまいました」
「まあ、気をつけてくださいな。今日は特に日差しが強いですから。ところで、ここで何をなさっていたんです? お庭のお手入れ?」
私が問いかけると、青年は我が意を得たりとばかりに頷いた。
「いい庭でしょう? 僕は絵描きなんですが、モチーフがたくさんあるこの庭はお気に入りなのです。そうだ、お茶を飲んでいってください。この庭に咲いているラベンダーの花はいいお茶になるのです」
そう誘われて、青年の家の中へと案内される。
厨房でお湯を沸かした青年は、丁寧にティーポットを操ってお茶を入れてくれた。そのお茶の香りは、嗅いだこともないくらいに芳しい。
「紅茶以外のお茶だなんて初めて飲みました。ラベンダーはお茶になるのですね」
「僕が異国を放浪していた時に教わったラベンダーの使い方です。ハーブティーというのですよ。世の中には、紅茶以外のお茶がいっぱいあるのです」
この国では紅茶が主流で、それ以外だと珈琲が少し外国から入ってくることもあるくらいだった。
青年から、ハーブティーについて詳しく聞く。これは新しいビジネスの種になるかもしれない。領内で新たな事業を立ち上げられれば、両親も私に再婚をせっついてくることが減るだろう。
「そのお話、詳しく聞かせていただけないかしら?」
私は青年から、異国のハーブティーについての話を詳しく聞く。
「僕は絵画の修行のために海の向こうのラージャー公国に留学していたのですが、その時にハーブティーというものを学びましてね。僕は花の絵などをよく描いていたものですから、ちょうど植物について勉強することにしたのです」
「なるほど。この領内にも、ハーブティーにできそうな植物などはたくさんあるのですか?」
「ええ、たくさんありますよ。このラベンダーに、リンデン、エルダーフラワー、カモミール……」
青年は厨房から、乾燥した花や葉などを持ってきて見せてくれる。それは青々とした清涼感のある香りや、花の甘やかな香りなどを放っていて、お茶にして飲んだらいかにも美味しそうだ。
それから、私は時折青年の家を訪ねるようになった。青年はエルダーと言うらしい。
エルダーはいつも、庭石に腰掛けて、絵を描いている。
私が訪ねると嬉しそうにへらりと笑って、ハーブティーを淹れてくれるのだ。
私はエルダーからハーブティーについて学び、領内の特産物として事業化していった。ハーブティーには美容効果が高いものもあるらしく、それを全面に打ち出して宣伝したら、王都で評判になっていると言う。
「アイリス、随分と事業で成功しているようだな。そんなお前を見込んで、婚約の話がきているのだが」
「もう、再婚はしないって言ってるじゃないですか、お父さん」
そんな言い合いも家の中で発生するくらい、私の事業は成功していた。
忙しい日々の中、エルダーの家に訪問するのが私の楽しみでもある。
だが、ある日のこと——。
「エルダー? エルダー!」
彼は庭先で倒れていた。揺り起こすと、力なく顔を上げる。
「どうしたの、エルダー」
「いやぁ、ちょっとお腹が空いちゃって」
「お腹が空いた? それなら何か食べればいいじゃない」
「お金があんまりないんだ。この間、画材をたくさん買い込んでしまって……」
エルダーは絵を描くことと植物以外にはあまり興味がなく、生活力に乏しい。絵を売って稼いでいるわずかなお金を画材に注ぎ込み、食費などを削っているらしかった。
「もう! あなたのおかげで私の事業が成功しているのだから、それくらいは出してあげるわよ! ほら、ご飯を買いに行きましょ!」
エルダーの手を引っ張り、立ち上がらせる。ふらつくエルダーを支えながら街へ繰り出して、食堂へ入った。
食事を削っていたエルダーでも食べやすいように、オートミールの粥と根菜のポタージュを注文する。
「お、美味しいぃ……」
感動したようにエルダーは打ち震える。
「まったく、こんなになるまで我慢していたなんて……。私に言ってくれればよかったのに」
「だって、アイリスさんは領主ご一家の方ですし、そんな方にお金の無心をするわけにはいきませんよ」
「あら、私はあなたを養ってもいいのよ? あなたのおかげで事業に成功したのだもの」
私は元夫の言葉を思い出していた。
『俺に養われている分際で生意気な口を叩くな』
私は決してそんなことは言わない。エルダーの貢献に感謝をして、そのお礼として生活の面倒を見る。
エルダーが自由に絵を描いて生活できるようにしてあげよう。彼の貢献に感謝している私は、そう決意した。
そして、私はエルダーのパトロンとなった。
事業もどんどんと進めていき、私は元夫を凌駕する資産を作っていた。
「ハーブ園を作りましょう」
事業も好調で、王都で流行っているハーブティーは品薄となっていた。
ハーブ園はハーブに造詣の深いエルダーに監修を依頼して、整えていく。
「ここがアイリスのハーブ園か? アイリスはどこにいる!」
ハーブの茂みの奥で作業していると、入口の方からいかにも傲慢そうな威丈高な声が聞こえてきた。
嫌な予感がする。元夫の声と、とてもよく似ているような……。
「アイリス! アイリスじゃないか! ようやく見つけたぞ。さあ、俺と家に帰ろうじゃないか」
私を視認した元夫は、足早にハーブ園の畑を横切ってこちらに近づいてくる。ズカズカと遠慮なくハーブを踏み荒らす元夫によって、わさわさと生えていたハーブたちは地面に押し付けられる。
「ユージーン? どうしてここに。というか、なんの用?」
元夫と相対した私は、嫌悪感を隠せずに眉根を寄せる。
「アイリス、君は事業に成功しているらしいじゃないか。それだったら捨てないでやったのに」
元夫は、不貞腐れたようにそう言った。
捨てないでやった? そもそも離婚を切り出したのは私からなのに、彼の中では記憶がすり替えられているらしい。
「畑を荒らすのはやめてちょうだい。それに、事業のことはあなたとは関係がないわ。出ていって」
「そんなこと言うなよ。俺に養われている寄生虫だと思って捨てたけど、事業で成功しているならヨリを戻してやってもいいと思って迎えにきてやったのに」
その不愉快極まりない言い様に、私は持っていたジョウロを夫に投げつけた。
「ふざけないで! そもそも離婚をしたのは私の意思よ。あなたに捨てられたんじゃない。それに、事業はあなたには絶対に渡さないわ! 帰りなさい」
「何をするんだ。俺に向かって!」
元夫は私に掴みかかってきた。
「アイリスさん! 大丈夫ですか!?」
そこへ、ハーブ園の奥からエルダーが駆けつけてきてくれた。
「誰だ貴様! 俺は男爵だぞ、逆らうな!」
「それを言うならアイリスさんは男爵令嬢でしょう! ご婦人に暴力を振るうなんてどんな了見だ!」
エルダーと元夫がつかみ合いになる。
「落ち着いて、二人とも! エルダー、助けてくれてありがとう。ユージーン、さっさとエルダーを離しなさい!」
ハーブ園の警備員たちも集まってきて、元夫を捕まえる。
「部外者よ。つまみ出して」
「やめろ! 僕は男爵だぞ!」
警備員に指示を出し、元夫を摘み出してもらった。
地位を振りかざす元夫に、頭を抱える。私の家も男爵家だから対等とはいえ、エルダーなどは逆らえる立場じゃない。
「大丈夫かしら……」
「アイリスさん、お怪我はありませんか?」
「エルダー、ごめんなさい。騒ぎになってしまって……」
「いえ、アイリスさんが無事ならそれで」
疲れ果てた私の肩を、エルダーが支えてくれる。
エルダーは元夫と掴み合ったせいでシャツの首元がヨレヨレになっていた。そこから覗く鎖骨が妙に男らしくて、つい目を逸らしてしまう。
「アイリスさん、さっきのは元旦那さんですか?」
「ええ、そうなの。愛人への貢ぎぐせが酷くて別れたのだけど。私が事業で成功したと聞きつけて、惜しくなったのかしらね」
うんざりした声で愚痴ってしまう。エルダーはそれに対し、「どうしようもない男ですね」と私の話を聞いてくれた。
それはそれで申し訳なくて、愚痴は切り上げつつ元夫の踏み荒らしたハーブの世話を焼く。
「あ、アイリスさん。そこでちょっと止まってもらえますか?」
「え?」
「あなたの絵を描きたいんだ。ハーブの世話をしているあなたは美しいから」
唐突にそんなことを言われて、赤面してしまう。
エルダーに言われるがままにポーズをとって、絵を描かれている間、じっとしている。エルダーの描く絵は優しくて、光が柔らかく世界を包み込んでいるような、空気の暖かさが伝わってくるような絵なのだ。
私はエルダーのその柔らかい絵が大好きで、パトロンになったようなものだった。
書き終わったエルダーに呼ばれて、私をスケッチした絵を覗き込む。
「いい絵ね」
「モデルがいいんですよ。アイリスさんは綺麗だから」
「もう、おだてないでよ」
くすくすと互いに笑い合う。元夫のせいでささくれ立っていた心が、じんわりと癒されていくようだった。
けれど……。
「またあの人が押しかけてきたの?」
数日後、私は仕事を終えて実家の男爵家に帰ると、使用人から元夫が訪問してきたことを知らされた。
私に会わせろと騒いでいたらしい。
まったく、傍迷惑なんだから。
「どうやらユージーン君は鉱山開発事業に失敗して、莫大な借金を背負ったらしい。それでアイリスの事業に目をつけているんだろう」
社交に詳しい父が、そんなことを言ってくる。
「嘘でしょう。それじゃあ、粘着してくるの確定じゃない!」
私は悲鳴をあげた。
元夫が執念深く私を追い回してくるとなると厄介だけれど、借金を背負ったならそれは避けられないことかもしれない。
幸い元夫と私たちの間に子どもはいなかったから、元夫と私を繋ぐものは何もないのだけど。
「アイリス様、またあのお方が……」
翌日、仕事を終えて実家に帰ると、使用人が困った顔で報告に来た。元夫がまた押しかけてきたらしい。
「今度は何?」
「婚姻関係の復活を求める嘆願書を貴族院に提出したと……」
「は?」
私は思わず声をあげた。離婚は正式に成立しているのに、今更何を言っているのだろう。
「貴族院の方から連絡があり、ユージーン様が『妻が一時的な感情で離婚を決めたが、今は後悔しているようだ』と」
「はあぁ? 私が後悔? 冗談じゃないわ!」
カッと頭に血がのぼる。ふざけるのも大概にしてほしい。元夫の厚かましさには呆れるばかりだ。
数日後、貴族院から正式に呼び出しがかかった。元夫の嘆願について、双方の意見が聞きたいという。
私は貴族院へ向かった。
調停室に入ると、元夫がすでに席に着いていた。私を見るなり、にやりと笑う。
「アイリス、やっと会えたね」
「会いたくもなかったわ」
私は冷たく言い放つ。
調停官が席につき、審議が始まった。
「ユージーン男爵、あなたは婚姻関係の復活を求めておられますが、その理由を述べてください」
元夫は咳払いをして、芝居がかった口調で話し始めた。
「私はアイリスを心から愛しておりました。しかし、彼女は些細な行き違いから離婚を望み、私の懇願も聞き入れてくれませんでした。今、彼女は事業で成功し、私無しでもやっていけると思っているようですが、女性が一人で生きていくのは大変です。私は彼女を守りたいのです」
聞いているだけで虫唾が走る。
「私は復縁する意思は一切ありません。元夫は愛人に貢ぎ、私に暴力を振るいました。離婚は私の確固たる意思によるものです」
私ははっきりと宣言した。
「アイリス! 君は誤解している! あれは愛人じゃなくて……」
「愛人じゃなかったらなんだって言うの? 私は証拠書類も提出しているわ! あなたが愛人に送った金品の記録のね!」
私の言葉に、元夫の顔色が悪くなる。
「それに、ユージーンは事業に失敗して多額の借金を抱えていると聞きました。私の事業が目当てなのは明白です」
調停官は離婚時に提出した書類に目を通し、厳しい表情で元夫を見た。
「嘆願は却下します。アイリス様の意思は明確であり、復縁の正当な理由も認められません」
調停官の言葉に、私はほっと胸を撫で下ろした。
調停室を出ると、元夫が追いかけてきた。
「待てアイリス! 俺がどれだけ困っているのか、お前にわからないのか!」
「あなたが困っていようと、私には関係ないわ。自分で蒔いた種でしょう」
私は振り返りもせず、その場を後にした。
ささくれ立った心を癒したくて、帰り道、エルダーの家に立ち寄る。
「お帰りなさい、アイリスさん。調停はどうでしたか?」
「無事に却下されたわ」
「それはよかった。お茶でも飲んでいってください。疲れたでしょう」
エルダーはふわりと微笑むと、私の手を取って家の中に案内してくれた。
エルダーの淹れてくれた甘いカモミールの香りに心が解けていく。
「アイリスさん、あなたに渡したいものがあるんだ」
「渡したいもの?」
ティーポットを片付けたエルダーが、部屋の奥から一枚のキャンバスを持ってくる。
「これは……」
そのキャンバスには、私がハーブ園で手入れをしている姿が描かれていた。裏面にはタイトルが記載されており『永遠』と書いてある。
「僕はあなたと一緒にハーブの手入れをしたり、あなたの絵を描いたりして生きていきたい。これからも一緒にいてくれますか?」
艶のある声が、甘く囁いてくる。
ふと見上げると、改めてエルダーは綺麗な顔をしていた。その顔で見つめられると、頭がぼうっとなる。
「わ、私も……。私もあなたとハーブの手入れをしたり、あなたが絵を描いている姿を見るのが好きだわ」
絵描きの青年を囲い込むだなんて、貴族女性としては外聞が悪いかもしれない。でも、そんなことはもう私には関係なかった。
エルダーから伸ばされた、骨ばった白い手を取る。
夕刻の橙色をした光だけが私たちを照らしていた。
お読みいただきありがとうございます!
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またたくさん短編も書いているので、そちらもお楽しみいただけたら幸いです。




