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「はあぁぁぁ!?」
シックに纏められた部屋には、先日届いた新しい上質なデスクが大きな窓のそばに置かれていた。学園を卒業したセドリックには、自室とは別に新しい専用の執務室が用意された。
セドリックは、あまり慣れない執務室で、同じくまだ体になじまない椅子に座りながら耳を両手で塞いでいた。
クリスフォードのあまりにも大きな声に部屋がキーンと鳴いた気さえした。
「うるさいよ……内密にって言っただろう?」
「お前なぁ! 自分が何を言ってるか分かってんのか!?」
扉のそばに立っていたクリスフォードはズカズカとセドリックの座るデスクに近づき、真新しいデスクを大きな手のひらでバーンと盛大な音を立てて叩いた。
「話し相手だと!? それも逮捕状を揉み消してかっ!? お前これがバレたらどうなるか分かってんのか!?」
唾液まで飛んできそうな距離にセドリックは思わず少し椅子を引いて後退する。そして、さも余裕な態度で続ける。
「バレないようにすれば良いさ。それに馬車の件での逮捕状のみでは、どっちにしても彼女を処刑まではできないさ。その件はすでにハイム子爵が処されてるからね」
「でも、あいつはレイチェル嬢を狙ったんだぞ!?」
「――そうだよ。そして、そのレイチェル本人が彼女を自分の侍女にしたいと言ったんだ」
また大声が発せられると思い、セドリックは耳を両手で塞いで守る準備をしたが、その必要はなかったようだ。クリスフォードが驚きのあまりあんぐりと口を開けたまま固まっていたからだ。セドリックはため息をついて、話を続けることにした。
「幸い、その件はその場に居た者しかまだ知らないしね。記憶喪失という診断が出ているのに、そのまま罰することはちょっと難しい」
「――なんも難しいことねえだろ。むしろ、以前のお前ならその診断の方を揉み消して刑に処してたじゃねえか」
「――勘違いしないでくれ。これはレイチェルの望みであって俺のじゃない。俺は今でもできることなら、そうしたいさ」
深い息を吐き出したのち、背もたれに体を預け後傾姿勢をとるセドリックに、クリスフォードも同じく深いため息をついた。今までは、やや強引なやり方のセドリックをクリスフォードが止めに入って諌めていたが、エレーナ・ハイムの件はこれまでのようには進まなかった。
クリスフォードは、レイチェルの頼みでありえない決断を下すセドリックに何とももどかしい気持ちをどうにか押し込めていた。
「――お前はどう思う?」
長年の付き合いのおかげかセドリックのたったこの一言で、クリスフォードは彼が何を訪ねたいかが分かってしまう。
「……確かに、今までのエレーナ・ハイムとは違う……。仕草や表情の作り方一つ一つが見てきたものとは全く違う。まるで別人みてえだ。記憶を失ったからってここまで人が変わるかって言うぐらいに、前とは全く違うな」
「そうか……クリスがそう言うなら間違いなんだろうね」
「――今のあいつ見てると何だか妙な気持ちにもなる。……なんかこう、守ってやらないとっていうような変な気になんだ……でも、それがあいつの狙いかもしれねえし、実際あいつに操られてた兵士も居るしよ……」
「でも、あの部屋で力は使えない……そうだろ?」
「――あぁ……だから余計に気になってた。でも、逆手にあの空間さえ凌駕する力があるとすれば、とも考えた」
「――それはありえないよ。あの空間は、罪人のための部屋でもあるけど、万が一の際に狂った王家の人間を囲うためのものでもあるんだ。今まで竜帝王のようにまで狂った人は一人もいないけどね」
「はぁ……だからって話し相手までは飛ばしすぎだろ……お前の婚約者なんだから、お前がそこはうまく言えよ……ったく」
クリスフォードは両手をデスクから離すと、顔に似合わず大きく鍛えた体をフラフラとさせながら移動し、ソファーにドサっと勢いよく座りこんだ。
「俺なりに譲歩して、侍女から話し相手にしたんだ。これでも褒めて欲しいくらいだよ」
クリスフォードはもう何も聞きたくないと言うばかりに深い息を吐き出し、頭までソファーに預けてから視界を腕で覆ってしまった。
クリスフォードは己の勘には自信があるだけに、今回のエレーナの件は慎重に進めようとしていたのだ。おそらくセドリックは処刑だと言い張ると予想し、なんとかそれを遅らせ彼女の様子を見ようとしていたが、予想とは全く違う主人の決断に頭痛さえする気がした。
「クリスには負担をかけるけど、今まで通り彼女を監視してほしい。他の件は、とりあえず手の空いてる者にまわすよ」
返事もしなくなったクリスフォードを叱ることなくセドリックはただ苦笑いを浮かべた。
「――もし危険があるようなら、処罰は問わない。お前の判断に任せるよ。責任は俺が背負うから、クリスが思うように動いてくれ」
クリスフォードはついに重たくなった頭をゆっくりと持ち上げ恨めしそうな視線を旧友であり主人であるセドリックへ送った。
「どーせ、俺に拒否権はないだろーが。ったく、責任を背負われたところで、お前に何かあった時には俺も仲良く御終いだっつーの」
セドリックはクリスフォードの正論に相変わらず苦笑いをこぼしている。
クリスフォードは、セドリック付きの近衛になってから、綺麗事だけでは政は回らないということを主人とともに痛いほどその身をもって体験してきた。
エレーナ・ハイムが以前とは違うということは分かっていたが、信用するには程遠い存在だと思っていた。とはいえ、このまま罪を償わせるのは、赤子に親の罪を背負わせるのような嫌な気分だったことも事実だ。しかし、記憶喪失が本当であれ嘘であれ過去に彼女が犯した罪は償わせねばならないとも思う。
セドリックに報告に来るまで、「あははっ、死刑に決まってるじゃないか」と言い張るであろう主君を諫めることしか考えていなかったクリスフォードは思わぬ現実にぶつかってしまったのだ。
クリスフォードはこれからのことを思いながら、堪えきれない深い息をソファーで吐き出すのだった。




