38:紅茶一杯
王宮内は誰もが床に臥せっており、己の魔術の効果に思わずモアネットが厨房や水場を心配してしまう程であった。もちろん、料理中のシェフが床に臥せってしまい発火や、噴水や水場で仕事をしていた者達が臥せることで溺死……なんて可能性があるからだ。他にも、階段や梯子から落下してしまった者もいるかもしれない。
それらを案じて「大丈夫かな……」とモアネットが呟けば、隣を歩いていたジーナが小さく笑った。
「モアネットは優しいのね」
「優しい?」
「えぇそうよ。私、てっきりあの場にいた全員の意識を混濁させて自我を吹っ飛ばすくらいのことをするかと思ったわ」
「なにそれ怖い」
「あら、それぐらいして当然よ」
「そんな怖い事……でも、そっか、だからジーナさんはコンチェッタを」
そうモアネットが呟くようにコンチェッタの名を口にすれば、前を歩いていたコンチェッタが呼ばれたと思ったのかぽわぽわと点滅しだした。それに対して呼んだわけではないと告げれば点滅しなくなるのだから、相変わらず不思議な猫である。
いや、不思議なのは猫だけではない。なにせロバートソンも光っているのだ。
試しにとコンチェッタの頭に乗るロバートソンを呼べば、今度は彼がぽわぽわと点滅しだすではないか。これはきっと……。でも、いったいいつから……。
考えるべきことがたくさんだと、モアネットが足を進めながらも一度ふると兜を振るった。
順に考えよう、まずはあの瞬間の出来事だ。そう自分に言い聞かせる。
ジーナは咄嗟に「モアネットが何か大きな魔術を使う」と察し――それも随分と恐ろしい方向で――ゆえに使い魔のコンチェッタをアレクシスに放ったのだ。
いまだパーシヴァルの肩を借りて歩くアレクシスの姿を見るに完璧にとは言えないが、コンチェッタは魔術を弾く事が出来るのだろう。だからアレクシスはモアネットの魔術を受けても地に臥せることはなかった。
……アレクシスは。
そこまで考え、モアネットが足を止めた。
その瞬間モアネットの名を呼んだのは、アレクシスに肩を貸しつつ背後を歩いていたパーシヴァル。
「モアネット嬢、どうした?」
「え、いや……どうしたというか……」
「今はひとまず王宮を出よう。身を隠して、そうしたら話を聞く」
だから、と急かしてくるパーシヴァルに、モアネットがギシと頷いて再び足早に歩き出した。
倒れ呻く者達を時に避け、時に跨いで進み……。時折躓いでしまったり足早に歩くあまり歩幅が狂って踏んでしまうのだが、こんな所で倒れている人が悪いのだ。倒れさせたのは自分だが。
王宮を出て、人混みを避けるようにして森へと向かう。
幸い追手は来ず、街の人達も体が重いと口々に訴えていてそれどころではないようだ。その姿に申し訳なさが湧くが、きっと自分が離れれば楽になるはずだからと心の中で彼等に告げてモアネットは森への道を進んだ。
そうして森に身を隠すも、さすがにモアネットの古城へは向かえない。
古城は森の中に構えているとはいえ、ジーナの屋敷のように案内と魔女が居なければ辿り着けないような場所でもない。じきに王の命令を受けた騎士達が捜索に来るだろう。
それを話し合えば、アレクシスが項垂れるように俯いてモアネットに謝罪の言葉を告げてきた。
彼の表情は見ていられないほどに絶望を宿し、パーシヴァルに支えられているのもモアネットの魔術のせいなのか、それとも気落ちして立っていられないのか定かではないほどだ。
「モアネット、ごめん……僕が巻き込んだせいで、君の家まで……」
「アレクシス様」
「もしかしたら僕が戻れば、僕以外は」
自分以外は自由になれるかもしれない、そんなことを言おうとしたのだろう。だがアレクシスの言葉は途中で「むぐっ」というくぐもった声に変わってしまった。
言わずもがな、ジーナである。
正確に言うのであれば、ジーナのパンである。
それを口に詰められてアレクシスが深い茶色の瞳を丸くさせた。きっと彼も、さすがにここまで深刻な空気で彼女がこの行動に出るとは思っていなかったようだ。
だがジーナにこの場の空気を気にする様子も無く、そして主に倣ってコンチェッタもまた空気を読まず、パンを寄越せとアレクシスの足に纏わりついてンニャンニャと鳴いている。
見兼ねたアレクシスがコンチェッタを抱き上げれば、待ってましたと言わんばかりにパンを齧りだすではないふか。この主にしてこの使い魔あり。
「ふぃいな……」
「アレクシス、諦めて彼等に捕縛されるのは貴方の自由よ。でもここまで旅を共にした誼で良い事を教えてあげる」
「いいほろ?」
「私がこの国を荒らすから、捕まるならその後にしなさいってこと。下手すると巻き込まれるわよ」
にっこりと笑ってとんでもないことを言い出すジーナに、アレクシスが目を丸くさせた。もちろんパーシヴァルも、流石にモアネットもまた驚きを隠せずに彼女に視線をやる。
ジーナの笑みは美しく穏やかで、まるで母性すら感じられるほどだ。物騒な言葉こそ聞かなければ誰だって見惚れてしまうだろう。
だが彼女ははっきりと「国を荒らす」と言っていた。そこに悪びれる様子はなく、罪悪感を覚えている様子もない。
「ジーナさん、国を荒らすって……」
「あら当然でしょ?」
ジーナが瞳を細めて柔らかく笑い、そっと手を伸ばしてモアネットの兜を撫でてきた。
鉄越しでは彼女の肌の感覚は分からないがそれでも手の動きは優しさを感じさせ、表情も愛でるような色合いを見せている。だがどことなく底冷えするような威圧感を覚え、モアネットが彼女を見上げた。
ジーナは今までこの国に来たことがないと言っていた。だというのに、いったいどうしてこの場において誰よりも先に国を見限り、それどころか潰すと宣言までしたのだろうか。それを考え、モアネットがギシと兜を傾げた。
「……もてなされなかったから?」
そうモアネットが尋ねればジーナがニッコリと笑い、そして頷いて返してくる。どうやらその通りらしい。
つまり、彼女は王宮を訪れた際に両陛下やローデルにもてなされなかったから腹を立て、そして国を潰すことにしたのだ。それに驚きの声をあげたのは、もちろんアレクシスとパーシヴァルである。
「ジ、ジーナ嬢……もてなしって、まさか、それだけで?」
「あらパーシヴァル何言ってるの、当然じゃない。彼等は紅茶の一杯も出さなかったのよ」
上品に笑って告げてくるジーナは相変わらず美しく、まるで逆にパーシヴァルが驚いていることこそ意外で冗談めいていると言いたげではないか。
そのギャップがまた威圧感に変わり、笑みを向けられたパーシヴァルはもちろん、アレクシスさえも気圧されるように彼女に視線をやっている。だがモアネットだけは兜の中で瞳を輝かせてジーナを見つめていた。
そうだ、これこそが魔女なのだ。
気まぐれで、気分屋で、おおよそ人の判断すべき基準から外れている。
王族も役職も魔女には関係なく、それでいてたった一杯の紅茶を振る舞うか否かで物事を決めてしまうのだ。国の存続より一時のもてなしである。
そうモアネットが話すも、アレクシスとパーシヴァルは信じられないと言いたげな表情を浮かべていた。
それも仕方あるまい、彼等は魔女ではないのだ。だからこそ唖然としつつジーナに視線をやっているが、当の本人は楽し気に「何をしようかしら」と笑っている。
これには流石にアレクシスも咥えていたパンを取り、ジーナの名前を呼んだ。
「ジーナ、いくら魔女だからって……」
「魔女だからよ。このアバルキン家の魔女が尋ねたのに紅茶の一杯も出さない、それどころか魔女の呪いを戯言のように否定した。これは私だけじゃない、全ての魔女への愚弄よ」
だからこそ彼等に見せつけてやらねばならない。
そう話すジーナの口調は優雅だが、聞く者の心臓に絡みつくような威圧感を感じさせる。低く野太いから尚更か。
反論など一切許さぬジーナの迫力にそれでもアレクシスが何かを言おうとしかけ……パンを口に突っ込まれた。物理的にも反論を許さないようだ。
それを察してか何か言おうとしていたパーシヴァルも口を噤み、モアネットだけが彼女の袖を引っ張った。
「ジーナさん、私もご一緒します。私も魔女ですから」
「そう言ってくれると思ってたわ、モアネット。二人で魔女とは何たるかを教えてあげましょうね」
「はい! ……それに、私がどうにかしなきゃ」
ふとモアネットが声色を落とし、次いで小さく「姉だから」と呟いた。それを聞いたジーナが瞳を細め、そして兜の口元にパンを押し付けてくる。若干潰れかけているが、それもお構いなしである。
詰め込まれないだけマシかぁ……と、そんなことを考えつつモアネットがパンを受け取ろうとした瞬間、周囲にガサと葉が揺れる音が響いた。
誰か来た、そう誰もが察し、警戒の色を強めて周囲を見回し……、
「なんか楽しい話してるみたいだな、可愛い甥っ子よ。その話、叔父さんにも聞かせてもらえないかなぁ?」
と、わざとらしい口調と共に姿を現した男に誰もが唖然とした。
歳の頃ならばモアネットの父親ぐらいだろうか。老いを感じさせる茶色の瞳は、それでもこの事態にまるで玩具を見つけた子供のようにニンマリと細まっている。厳つさと男臭さを混ぜ合わせた独特な雰囲気、そしてどことなくアレクシスや陛下にも似て……。
そんな男の姿にモアネットがもしやと小さく呟き、次いでアレクシスとパーシヴァルに視線をやった。
二人の表情はこれでもかと青ざめ引きつっている。だがそれは先程までの絶望を感じさせるものではなく、
うわ、面倒なのがきた……、
と言いたげである。




