26:魔女と猫の月光浴Ⅱ
一つ、また一つと鎧を脱いで外気に肌を晒す。
纏うのは白いワンピースと下着のみ。久方どころか数年ぶりに感じる外の感覚に不安どころか恐怖すら覚えるが、それでも予想していたよりも落ち着いているのは湖から溢れる魔力のおかげか。それとも、鎧を一つ外して置くたびにスンスンと嗅いで確認するこの猫のおかげか。
そんなことを考えつつ、全ての鎧を脱いでそっと足先から水につけていった。冷たくもなく、かといって熱くも暖かいという程でもない、徐々に浸していけば染み込むように体に馴染む心地良いぬるさ。
岩場に腰かけて足を動かせば波紋が広がり、それを壊す様に水面を蹴ってパシャンと水を跳ねさせる。大きく蹴り上げれば宙に向かって水滴の一つ一つが舞い上がり、月明かりを受けて輝く。その様のなんと美しいことか。見惚れるほどに壮観で、微睡みそうなほどに心地よい。
なにより、足元に触れる湖水が、晒した肌に注ぐ月光が、体中に魔力を満たしていくのが分かる。
そうしてしばらくは水の舞う音だけが湖畔に響いていたが、まるでそれを遮る様にガサッと生い茂る草が音を立てて揺れた。
何かが居る。反射的にモアネットの視線が音のした方へと向かう。
だが草木を揺らした何かは一向に出てくる気配はなく、しばらく窺っていると立ち去ったのか木々の揺れが徐々に遠ざかり、葉が擦れる音も小さくなっていった。それでもジッと見つめ続けているとやがて音も揺れも無くなり、再びあたりを静寂が包む。水滴の落ちる音さえ周囲に響くほどの静けさ。
「なんだったんだろ……」
ポツリとモアネットが呟く。
草木の動きから生き物であることは確か。だが焦りも鼓動が早まりもしないのは、姿を見られたと言えど先程の『何か』が動物に違いないと考えているからだ。なにせ人払いの魔術をかけた。それも二重三重に。
これを抜けられるのは魔女殺しだけだ。だがその魔女殺しはとっくの昔に魔女が根絶やしにしてしまった。
だからこそ、先程の『何か』は動物以外にあり得ないのだ。ゆえに心音も早まらず、姿を見られたとしても焦りもしない。――動物と人間の美醜の感覚は違う、もちろん蜘蛛とも違う。あの古城でロバートソンと暮らしてその違いを知り、はじめて彼の前で鎧を脱いだのは何年目のことだったか――
先程の揺れは、湖に水を飲みに来た動物が人の姿に臆して逃げてしまったのだろう。
音からして小動物とは思えない、一瞬響いた音と木々の揺れから考えて人と同じくらいの大きさか。逃げてしまったあたり大きさに反して気弱な子だったのだろうか。
「水を飲みに来てたなら可哀想なことしちゃった」
そう傍らで座る猫に話しかけた。この猫もまた先程の動物の気配を感じ取ったのかピンと立った尻尾が幾分膨らんでおり、先程までモアネットの水遊びをうとうととしながら眺めていたというのに、今は目を見開いて瞳孔を広げジッと音の先を見つめている。
随分と警戒しているようで、撫でて落ち着かせてやろうとし……ヒョイと伸ばした手を避けられてしまった。濡れた手で触るなということなのだろうか。ならばと鼻先を突っつけば、水がついたのかピンクの舌がペロリと舐めとった。
どうやら警戒も解かれたようで、こちらを見上げて瞳を閉じるその和らげな表情にモアネットが苦笑を漏らす。
「あなたも入ればいいのに。こんなに魔力が溢れてるんだから、もしかしたら魔女に……魔にゃんこになれるかもしれないよ」
冗談めいてモアネットが話せば、それを聞いた猫がフンと鼻を鳴らした。
次いでヒョイと岩から降りると徐に自分の尻尾の先を湖に垂らした。ふかふかの尻尾が水面に触れ、水の揺れを受けて毛がふわりと広がる。
いったい何をしようとしているのか。モアネットが首を傾げれば、猫がゆっくりと水面から尻尾を上げ、次いでパチャンと水面を叩き……、
そして、ふかふかの体がポワポワと光りだした。
鉄製らしい騒々しい音をあげてモアネットが廊下を走り、目的の部屋の前で急停止すると共に扉を叩いた。
多少叩き方が荒くなってしまうのは仕方あるまい。なにせそれほどまでに緊急事態なのだ。
そのおかげか数度ノックを続けると物音が聞こえ、ガチャリと扉が開いた。顔を覗かせたのはアレクシス。
「モアネット、どうしたの?」
「アレクシス様、この子……あれパーシヴァルさんは?」
「パーシヴァルなら外で仕事を……。え、この猫なんで光ってるの!?」
モアネットの鉄の中でポワポワと光る猫を見つけ、アレクシスが目を見張った。
だがそれも当然だ。なにせ猫が光っているのだ。とりわけ尻尾の輝きは美しく、ブンと振れば光が瞬くように軌道を描く。おまけに、よく肥えているだけに光る面積も多い。
そんな猫を不思議そうに覗き込むアレクシスに、モアネットが猫とアレクシスを交互に見やり、この猫の正体を話そうとした。だがその瞬間「あら」という声が被さる。
「あらコンチェッタ、今夜はよく光ってるわね」
とは、通り掛かりの給仕の言葉。
思わずモアネットが出掛けた言葉を飲み込み、アレクシスが「コンチェッタ?」と猫から給仕へと視線をやった。
「コンチェッタって?」
「この子の名前です。たまに顔を出して、こうやって光るんですよ」
給仕がそっと手を伸ばし、光るコンチェッタの頭を撫でる。
嬉しいのかコンチェッタがゴロゴロと喉を鳴らし、それに合わせて点滅しだした。試しにとモアネットが抱き上げる手で首筋を掻いてやれば、これもまた心地よいのか点滅が早まる。
なんて不思議な猫だろうか……いや、これはもう『不思議な猫』の域を超えているか。
だからこそモアネットが「やっぱり」と呟けば、点滅するコンチェッタがどこか得意げにフンと鼻を鳴らした。鼻息と共に尻尾の先がポワッと光を強まったが、驚いたのはアレクシスだけである。なにせ給仕はいまだコンチェッタを撫で続けて点滅を早めている。
「あの、コンチェッタってやっぱり……魔女の」
「使い魔ですよ。普段は主人と谷に住んでるんですけど、たまに遊びに来て光ってるんです」
そうさらっと言いのけ、給仕が時計を見上げると「あら大変」と仕事を思い出したと小走りに去っていく。そのあまりのあっさりとした言い様に、モアネットが唖然としつつその後姿を見送った。
魔女の使い魔なのに、光っているのに、むしろ今は点滅しているのに。この街ではコンチェッタでさえもこの程度の扱いなのだ。なるほど、確かに光る猫に比べれば全身鎧の令嬢はインパクトに欠ける。
だけど、もうちょっと反応しても良いんじゃないかな。
そう思いつつモアネットが腕の中でコンチェッタを見るも、当人……もとい当猫は気にしていないのかチカチカと点滅しながら瞳を細めている。
そんななんとも言えない空気にモアネットとアレクシスが顔を見合わせ、次いで点滅するコンチェッタに視線をやった。そうして再び互いに顔を見合わせ、再度コンチェッタに……。
鉄の腕の中で猫が光る。その光景は不思議としか言いようが無く、揺れて美しい光の軌道を残す尻尾に至っては神秘的な印象さえ感じさせる。
だというのに先程の給仕の平然とした口調が意識に残り、どうにも今一つ気分が盛り上がらない。そのうえコンチェッタが大きな欠伸をし、うとうとと瞳を閉じると共に点滅の速度が緩まっていくのだ。
「……とりあえず、明日にしようか」
「……そうですね」
今更テンションも上げられず、ひとまず明日話そうとその場は解散になった。
翌朝。
「やっぱりこれは凄いことだ!」と何とか気分を盛り上げさせたモアネットは、コンチェッタを連れて宿の食堂へと向かった。――ちなみにコンチェッタは寝入ると消灯してしまった。その姿にもしやと揺り起こせばポワッと光るのだから不思議なものだ――
そうして昨夜の給仕の態度を思考の片隅に追いやり、奮い立たせるようにテンションを上げて二人が座るテーブルへと向かう。今朝もまた先に食事をとっていたようで、パンを食べていたアレクシスがモアネットに気付き顔を上げた。パーシヴァルはいまだ手元のスープを眺めているが、お構いなしとモアネットがスゥと深く息を吸う。
「コンチェッタは魔女の使い魔ですよ!」
そう改めて、そして少しわざとらしいぐらいに大袈裟にモアネットが声を荒げた。勿論、昨夜の事は忘れて仕切り直しをするため、そして仕切り直すには多少大袈裟な方が良いと踏んでのことである。
だというのに、アレクシスはそれを聞いてもなお平然と、
「おはようモアネット、コンチェッタ。朝食取ってきなよ」
と返してきた。少しくらい意図を察して乗ってほしいところである。
そしてパーシヴァルに至っては、モアネットの大袈裟な声に対して返事どころか顔を上げることもせず、いまだスープに視線を落としたまま一度深い溜息を吐き、
「……湖畔の乙女」
と憂いを帯びた声色で呟いた。




