堕天使の素顔を知っているから〜令嬢と麗しの子爵〜
※冒頭、誠に失礼致します。
私の短編は皆様の望むものより長めなのではないかと思いました。せめても、場面切り替えに使っている飾り表示をカウント的にしてあります。途中切りやめなくてはいけない方が、何か目印のようになれば幸いです。
◆や◇ 1を意味する
◾️ 10を意味する
例:◾️◇◇ 12番目の場面区切り
今作は全部で13場面区切りです。よろしくお願い致します。
────女が壁を這い登っていた。
真夜中。
月も出ていない夜。
それは、賭博クラブの帰りだった。
それなりと勝てて、酒も入って歩いて帰ってきた。
貸し馬車で愛人を送り届けた後は、馬車から出たいと思ったからだ。あの女の香水の残り香がプンプンしていて、耐えられたもんじゃなかった。────彼女にそう言わなかっただけ、自分は紳士だったと思っている。
だが紳士的行動をたまにしても恩恵は無いようで、むしろ恐ろしいものを目にしてしまった。
自分の屋敷近づいた時に、隣の屋敷の壁に────壁だぞ?戸口や窓じゃない。レンガ作りの頑強な壁のそれなりと高い位置に、明らかに髪の長い、ドレスの女の姿が見えた。
背筋をゾワッと恐怖が上がってきて、酔いが一気に醒める。黒く、ウェーブのかかった髪の紺色のドレスの女が壁にユラッと……いや、ゆっくりゆっくり下に向かって降りて行く。
目を見開いて二度見した。────人間!?
髪が長くてドレス着てて……人間の女!?
隣の屋敷のドレスの女って言ったら……
ある人物が思い当たって、駆け出していた。
◆
暗闇に目が慣れ始め、その人物の姿をしっかり捉えると、やはり見知った人物だと分かった。
幽霊となって浮いているわけでもなく、化け物のようにレンガの隙間に爪を立てて這い降りているわけでもなく、彼女は屋敷の外壁中に張り巡るツタをつかんで降りてきていた。
そう言うことか……
と安堵し、
だが夜中に令嬢が、やることではない!
と変な怒りが湧いてくる。
怒鳴ってやりたかったが、一つ深呼吸をして気持ちを落ちつかせた。真夜中であたり迷惑だし、大声で彼女を驚かせては、落下して首をへし折るかもしれない。
神様、見ておけよ。この 僕の紳士的配慮を。
少し近づいて、声をかけた。
「こんばんは!何をしてるんですか?危ないですよ?」
空中で彼女は首だけこちらに向けて、僕を見るなり叫んだ。
「変態!!こっちに来ないでよ!!」
"落ちて首をへし折れ!"と言い返したいのをこらえる。女性達はドレスの下は靴下が主で、下穿きが無い。処女の令嬢は下から覗かれるのを恐れているのだろう──こらえろ、神が見てる。多分。
「ラトリッジ伯爵のところのレディ・ロゼッタ・ソーフォーンでしょう?隣りの屋敷のヴィンセントです。ダリントン子爵の……」
「やっぱり変態じゃないの!愛人と恋人は常に4、5人いる"金と碧の堕天使"ヴィンセント・マドウィック!私に近づかないで!」
何なんだろうこの女性は。失礼にも程がある。────全て事実だとしても。
「落ちついて。とにかく地面に降りないと……」
忍耐の擦り切れる音がしているが、なんとか耐えた。
「あなたがいるから降りられないの!あっちに行って
"泣き虫ヴィンセント"!」
「落ちて首をへし折れ!」
言い放って身を翻した。大股でさっさと自分の屋敷に向かい、その扉を思い切り叩いた。
中から執事が慌てて開ける。
入ってからは、手袋、帽子、コートを彼に押し付けて、階段を駆け上がった。
1人になれる書斎に飛び込んで、キャビネットからデカンタを取り出してグラスに注ぐ。グイグイと流し込んで、ようやく息をついた。
淑女に────よりによって伯爵令嬢に……言い過ぎたかもしれない。酷い言葉だった。
だが、理性を失った。あの呼び名のせいで────
◇◇
その晩夢をみた────
子供の頃の夢を
夢の中では
"泣き虫ヴィンセント!"
"女顔の弱虫"
"すぐめそめそする軟弱者!"
と、からかったり叱るのはロゼッタ・ソーフォーンではなかった。
むしろ小さい彼女は、でもすでに活発で勇敢で、逆にいじめっ子達の方に泥団子やクワガタを投げつけて撃退してくれたのだ。
泥団子には中心に石を入れていたし、クワガタはロゼッタに投げられて羽を広げて飛んでいくので迫力があった。
今思えば結構なやり方だったと思うが、年上の体躯の立派な男の子達が相手だったのだから、彼女の善戦は見事だったと言える。
自分達は昔、社交シーズンに親に連れてこられた子供同士で毎年顔を合わせていたのだ。何しろ、シーズンの舞台となる王都の邸宅が隣同士で、親達も仲が良かったから。
生まれついて僕は天から恵みを与えられていた。────容姿がズバ抜けて良かったのだ。金髪碧眼、スラリとした高い鼻、いつの日も天使のようだと言われてきた。
だが、幼少の頃はそれが呪いのようだった。綺麗すぎて女の子っぽかったし、嫉妬もあったのだろう。散々、からかわれ いじめられた。
大きくなるにつれて、爵位継承者として体術や射的、趣味でフェンシングをし、自信がついていった。男子には からかわれてもやり返せるようになり、思春期になると女子に騒がれるのは悪い気もしなくなった。
外見のおかげで女には苦労しない。同級生もメイドも、友人の母親まで向こうから誘惑してきた。一通りの行為も年齢層も経験した頃には飽きてさえきて、今の自分には性交はスポーツの一種に過ぎない。
まだ二十代前半なのに、そういう面だけは早々と通り過ぎてしまった。最近は全くワクワクもドキドキも無くなってきた。
いや、昨夜ドキリとはさせられた。かなり違うドキリだが。
────壁を這い降りる女に。
いろいろ考えながら、ようやく昼過ぎに目を開いた。
仏頂面で、二日酔いの頭で、だが否応なしに思わされた。
"彼女はなんであんなことをしていたんだ?"
◆◇◆
その日の夜は、屋敷にいた。
愛人も賭け事も悪友達との遊びも、だいたい同じことの繰り返しだ。
たまにはゆっくり部屋で過ごしたって、べつに罰は当たらないはずだろう?
窓辺で読書をしていた。ずっと昔買って、積み上げていた推理小説。なかなか面白い。これから謎解きと言う時に────向かいの部屋の窓に女性のシルエットが浮かんだ。
すぐに、シルエットでは済まなくなる。向こうは室内の灯りを消して、そして彼女が窓を開けたから。
次に起こる展開に目が釘付けになる。読みかけの小説は伏せられた。
どうやら室内の窓の下に机が置かれているようで、彼女は上半身を完全に窓の外に出している。そして、腕を伸ばす。
クソッ、見てられない。だが見てしまう。見るしかない。落ちて死ぬか生きるかの場面なんだから。
彼女はツタを何本かまとめてつかむと、引っ張ってその強度を確かめた。窓枠に足が乗る。
違和感に気づいた。ブーツがかなり大きい。おそらくは、男物の山岳ブーツか何かを、靴紐をきつくして履いているのだ。だとしても壁用ではないのに。────いや、壁用ブーツなんか そもそもあるか!
彼女はツタに捕まって窓枠に立ったが、自分はもう本気で見てらなくなってきていた。
あの馬鹿女、本当に落ちて死ぬぞ。
気づいたら、部屋から出て走っていた。
◇◆◇◆
階段を降りた時、彼女のいる壁には裏口の方が早いと気づいて、そちらから出た。庭の囲みを強引に割ってすぐ隣の敷地へと出る。
見上げると、ロゼッタ・ソーフォーンはまだ壁を降りていた。生きてはいた。それでも、まだ3階ほどの高さだ。
今夜は作戦を変えることにした。彼女が壁を毎夜毎夜降りて行くんじゃ、こっちが安眠出来そうにない。
何故降りるのか、どこに行くのかハッキリ聞いてやろう。
認めたくはないが、彼女の足の動きと腕の運びは悪くなかった。細身だが、しっかりと筋肉がついてるんだろう。たるんでいるより、そういう女はいい。引っ込むべきところが引っ込んでいれば、出るところはさほど出ていなくても全身のバランスはいいものだ。でも壁を登り降りする女は願い下げだ!
────くだらない妄想をしているうちにロゼッタは降りてきた。彼女が地面に足をつけるなり声をかけた。
「こんばんは、レディ・ソーフォーン」
その背中が縮み上がる。ざまぁみろ。
……ロゼッタがゆっくりと振り返る。顔面が蒼白だ。
「見ていたのね!?最低よ!変態!」
スカートの中の話だとピンとくる。ピンとくるのも、まあ、あれだが。
「角度的に無理だ!落ちないように降りるまで待っててやったんだぞ!?こっちは礼を言ってほしいくらいだ」
「その発言は見ようとしていたことの否定にはならないわ。やっぱり変態じゃないの」
どうしても変態にしたいらしい。自分もキッチリ反論できるかは微妙な題目だ。このままでは、会話が変態かどうかで朝方までいきそうだから、ここは一億歩譲った。
「僕が変態かどうかはともかく、君の方が異常行動だろう?深夜に伯爵令嬢が毎晩壁のツタを降りてくるなんて絶対変だ」
彼女は神妙な顔をして言った。
「次はロープを探してみるわ」
──そこじゃないだろう!
「レディ・ソーフォーン、問題はツタにするかロープにするかではないと思う。なんで壁を降りる?なんで玄関から出て行かない?」
「止められるでしょう?夜中なんだもの」
分かってるんじゃないか──
「だったら屋敷から出るな!」
怒鳴られて、ロゼッタはシュンとして静かになってしまった。いたずらが見つかった子供のように、うつむいて自分の手を見ている。
やれやれ……いつもは女性を喜ばす会話なんてお手のものなのに。こっちまで、何を言ったら良いか分からなくなる。沈黙が続いてもうまい言い回しは見つからず、結局思ったことを ただ聞いた。
「何故出ていく必要がある?どこに行ってる?ロゼッタ」
最後は昔の呼び名になっていた。だが、彼女は特に気にもしないように答えた。
「父が結婚相手を当てがおうとするの。一昨年も去年もこうして逃げたら諦めてくれたから、今年も諦めて欲しいと思って」
僕は驚愕した。
「2年もこんなことをやっているのか!?」
ロゼッタはうなずいた。────が、待てよ。ちょっと待て。
「嘘だ。去年や一昨年は君を見なかった。僕はよく深夜帰ってきたり、遅くまで部屋で起きているが、今日みたいな光景は目にしたことがない」
ロゼッタは屋敷を振り返って言った。
「去年まで、部屋が違うところだったの。窓が屋敷裏になっていた所。だからとっても良かったの。うちの庭があるだけだもの。今年は、大叔母様もいらして、私の部屋は変わってしまった────あなたの部屋の向かいに。だけど、ちゃんと3年目よ」
何が "ちゃんと3年目" なのか。壁をつたい降りる経歴なんか、ちゃんとしなくていいし、3年も積み上げなくていい。
「結婚したくないなら、もっと他に方法があるだろう?
御父上にちゃんと言うとか、他に好きな相手の名前をあげるとか。毎晩窓から抜け出して、それで一体どこへ行ってるんだ?いろいろ危険すぎる」
ありとあらゆる意味で、危険すぎる。
ロゼッタは、僕を見て、説明が分からない馬鹿を相手にするようにまず大きな溜め息をついた。
説明する前からその態度って、一体どういうつもりだ?
「父は心臓を患っているからもう伯爵位は兄に譲ったわ。でも3年前兄が出征したのを機に、私達姉妹を結婚させようとばかりする。
元々姉は結婚したがっていたから、勧められた方とすぐ結婚したわ。妹も去年観念して嫁いでしまった。でも私は嫌なの」
ロゼッタはそこで一息ついた。
「去年までは妹が一緒だったから、家の前に馬車をお願いしていて、それで、私達の友達のセシリア・マースデンのところまで行っていたわ。
一昨年はそれが大成功で、私達が姿をくらましたら、翌朝父はすぐ結婚話を諦めてくれた。
去年はセシリアの──クレイモント公爵のタウンハウスにいるって当たりがつけられるようになって、連れもどされることも出てきた。妹は観念して、" 爵位が下でも若くて歯がそろっていて優しい方 "って条件を父につけてサマラント男爵と結婚した」
話を聞いていて、自分はロゼッタの父親の気持ちも分からなくはなかった。
長男のカーク────現ラトリッジ伯爵は結婚していない。彼は国を守るという崇高な目的のために戦地に今いるが、父親はどうしても戦死を考えてしまうのだろう。自分もいつ心臓病の発作でいなくなるか分からないのでは、娘達をはやくしっかりした男性の元に嫁がせたいのも最もだ。
「君は誰との結婚を勧められているんだ?」
「ノランド公爵」
しっかりした経済力だが、50は過ぎていて結婚をすでに2回している方だ。
「なるほど。…………君も、妹さんのように条件をつけてみたらどうだ?」
ロゼッタは渋い顔になった。愛らしい額に皺が寄る。
「私も去年条件を出したけど、却下されたの。私は男をみる目が無いって」
「なんて条件?」
「私のために泣いてくれる男性」
聞いた途端に吹き出してしまった。確かに、それでは父親には認められないだろう。僕が笑い続けていると、
「それでは、ダリントン子爵。ご機嫌よう」
ロゼッタは信じられないことに、そう言って話を切り上げて歩道に出て行った。
「待てロゼッタ!」
僕は慌てて追った。彼女は不思議そうに振り返る。
「大丈夫よ。すぐ近くだから」
「一体何が?近くに恋人の住まいでもあるのか?」
────それが君のために泣く男だとか?
すると今度は彼女の方がケラケラと笑った。子供の頃のままで、全く令嬢らしくもない。もう少し淑やかで常識があれば……見栄えはチャーミングなのに、残念……じゃない、壁を降りる女はいらない。
「恋人が沢山いるのはあなたでしょう?私は姉のところにいくの。6軒隣りなだけだもの。すぐよ」
いらない女だ。だが……6軒隣は歩くと結構距離がある。
いつの間にか彼女の隣りを歩いていた。
「一緒に来なくていいのに」
「カークに頼まれてたんだ。妹を頼むって」
言いながら思い出した。3年前彼が出征する前に、うちの屋敷に来てくれて一緒に飲んだんだ。すっかり忘れてた。
何だか…………他にもいろいろ忘れている気がする。何だっけ?
「ノランド公爵はともかく、結婚する気はないのか?」
すると思いがけないことをこちらに聞かれた。
「あなたは結婚しないの?恋人の誰かと」
「考えたこともない。商売女だし、他人の妻だし、そもそも遊びだし」
ロゼッタは大きな瞳で僕を見つめた。深い紫の瞳は宇宙のようで、星の煌めきをたたえている。
「どうして遊んでいるの?」
問われて返事に詰まる。どうしてだった?何か理由があったはずだ。いや、こんなことに たいした理由はない。……ロゼッタと話していると頭が変になる。何なんだ、この女。
答えられないまま、アデリー伯爵のタウンハウスに着いていた。ロゼッタは正面の階段を駆け上がろとしたが、転びそうになった。
慌てて彼女の肩と腕をつかんだ。
「そのブーツじゃ大きすぎるんだろう!」
ロゼッタは腕でバランスを取って大勢を直した。こっちも引き寄せる。
「女性ものって無かったの。色々探したんだけど」
令嬢用での山岳ブーツなんか存在するわけない。壁用ブーツなんかこの世にない。────そのまんま声にしようとしたら、彼女が眼前で振り返った。
「助けてくれてありがとう。ヴィンセント」
瞳を瞬く。────思ってなかった。全く。これっぽっちも。
ロゼッタ・ソーフォーンからこの言葉を言われる日が来るとは。
夜道は静かで、誰もいなかった。月さえ出ておらず、街頭の灯りと、遠くで猫の鈴のような音がするだけ。
別れ際にこの距離にいる女性とは、大抵キスをした。────だがこれはロゼッタなんだ。
ハッとして、慌てて彼女から手を離す。
その手つきが乱雑で、ロゼッタは少し不思議そうな顔をしたが、すぐに階段を上がって行った。
玄関扉前で手を振る彼女に、別れの挨拶くらいはしよう。
「おやすみロゼッタ。…………山岳用ブーツを探すなら女性用は無いから、男児用で探したら見つかるかもしれない」
ロゼッタは笑顔になってこちらに めいっぱい手を振り、
「おやすみなさい!」
と開かれた伯爵邸の扉の向こうに姿消した。
────神様、僕は今何を言った?
◇◇◆◇◇
翌日の朝、新聞の思いもよらない見出しに目を見張る。
"ノランド公爵クレイグ・カリ・アシュッド・カーメルが深夜に紳士倶楽部の階段から転落し首の骨を折って、死亡。事故が起きた際、ノランド公爵は泥酔状態だったようである。尚、爵位継承については2番目の夫人との間に産まれた…………"
なんと!とんでもないことに首をへし折ってこの世を去ったのは結婚相手候補者の方だったとは…………。
しばし、あっけに取られて新聞を凝視していた。が、やがてたたんでテーブルに放った。
────ある意味良かったのかもしれない。少なくともこれで、ロゼッタは壁を降りることは無くなるだろう。
僕は一人、息を大きくついた。
◆◆◆◆◆◇
わずか一週間後のことだった。
ロゼッタ・ソーフォーンを壁で見つけたのは────
神様、答えをお教え下さい。
1. 見なかったことにして通り過ぎる。
2. 挨拶だけして通り過ぎる。
3.「首の骨を折ってノランド公爵の後を追いたいのか」と言って通り過ぎる。
神様はだいたい いつも答えをくれない。──ならば3にしていいだろう。
付き合いのある家族の音楽会に出た帰りだった。いつものような深夜ではない。
逆にロゼッタには腹が立った。馬鹿女。誰かに見つかったらどうするんだ?とんでもない騒ぎになるし、スカートの中だって危い!────いや、それは僕の心配することではないが。
しかも今夜はバッチリイブニングドレスだ。色はブラウンだが、白い肌が出てる。月も出てる。足首も出てる。胸元も出てる!
その時だった。何か気配に気づいたのか、ロゼッタはこちらを向いた。途端に、片手が滑り出す。正装用の光沢のある手袋では、いつもより滑り易い……!!!
「あっ……!」
と、彼女が小さい悲鳴をもらす。こちらは全力で駆け出した。滑るロゼッタの両手は完全にツタから離れた!
ドサッ…………!!
かろうじて受け止めて────2人共倒れこむ。
ロゼッタを抱えたまま、芝生に尻餅をついた。クソッ……尻が痛い。
ロゼッタはしばらく身を固めていたが、助かったことに気付くとこちらを向いた。
「首の骨を折ってノランド公爵の後を追いたいのか !!」
3にしておいて、心底正解だったと思った。
怒られたロゼッタはただ僕を見つめていたが、だんだんとその頬が染まりだした。助けることに夢中だった自分は彼女の頬が赤らむ理由なんて分からなかったが、次の瞬間に気づいた。
自分の右手は、彼女の脚を無事にすくい上げたが、ひるがえったスカートの内側に入り込んでいた。今、この右腕は、スカートの上からではなく、直に脚の膝裏にしっかりと入り込んでいる。本能的に、手のひらは温かい素肌をなでた。────彼女の太腿を。
ロゼッタがビクリとして顔を背ける。
顎下から首、ネックレスの煌めきの下の鎖骨、そして襟ぐりの深い胸元の肌が、月光に波うつ。
一気に男としての熱が急上昇するのを自覚して、頭の中で理性が叫ぶ。
" やめろ!幼馴染みで!令嬢で!壁を降りる女だ! "
そうだ。あり得ない。なんでロゼッタ・ソーフォーンに欲情する?他の女でいい!今まで何年もそうして来たんだから!
流石のロゼッタも何かを感じた(はっきり言えば貞操の危機だろう)のか、僕の身体の上から素早く降りて、スカートを整えだした。
自分は芝生の上にまだ座ったまま、その姿を見て、ぼんやりと思った。彼女は次には、怒るか逃げるかだろう……と。
だがロゼッタはこちらを見て、また思いもしなかった言葉を口にした。
「助けてくれてありがとう」
何も返さないでいると、ロゼッタは
「この手袋がこんなに滑ると思わなかったの。次はちゃんと外すわ」
と言った。返す言葉が見つかった。
「次は外す────ではなくて、もう壁を降りるのをやめてくれ。危険だ」ありとあらゆる意味で。
ロゼッタは首を振った。
「今日はうちで晩餐会をしていたのよ。でも、父と母があからさまにお見合いみたいな席配置をしてきたの。次はあの人なんだと思う」
「では反対側の隣り席の人となるべく話したらいい。礼儀には少し反するが」
僕のアドバイスにも、彼女は血相を変えて反論した。
「無理無理!反対隣りはドナルテ子爵だもの。あの方、いつもフィンガーボールの水を飲んでしまうのよ!セシリアならともかく、私は見ていたら耐えきれなくて大笑いしてしまうわ」
セシリア・マースデンは、貴族の中でも最高位の大公令嬢で、作法や所作が完璧と言われている女性だ。
そして、"フィンガーボール"とは指を洗うための水が入っている容器のことだった。本来は飲み水ではない。
「確かに、君では無理だろうな」
僕の嫌味にも、ロゼッタは微笑んで返した。
「そうなのよ!だって最後まで飲み切ってしまうのよ。それでいてワインは残っているの。もうフィンガーボールの水が大好きとしか思えないの」
ロゼッタの言葉に、今度はこちらが笑わされる。
彼女の "ドナルテ子爵フィンガーボール大好物論" は広げられ、仮に彼の近くに2つ置いておいたら2つ共飲み切るのではないか とか。いつか、フィンガーボールの"おかわり! "を言い出すのではないか とか。その際には もうグラスに飲み水で渡すべきなのか、それともやはりフィンガーボールで渡すべきか────だってフィンガーボールの水が大好きだから。が、論じられた。
くだらない。全くもって、くだらない話。それをする壁を降りる変な女。
────ああ、でも ちくしょう。こんなに笑ったことなんか無かった。愛人達との甘いやり取りも、娼館でのあだっぽい駆け引きも、悪友達とのふざけた会話も。
どこか冷めた自分がいたのに。
ロゼッタ・ソーフォーンは自分に血を通わせる。
熱を帯びさせる────
笑い合っている中で、ロゼッタがふと言った。
「あなたが晩餐会にいてくれたら良かったのに。兄はあなたに招待状を出していたのに、父は送らないのよね。お隣りなのに」
その言葉が、昔の記憶の何かをかすめた。だが、今はただ思いつく理由を挙げた。
「遊び人の放蕩者の男なんかを未婚の娘に近づけたくないんだろう。────心配もわかるさ」
それから立ち上がった。服についた草を払い、ロゼッタに手を差し出した。
「屋敷の中に戻った方がいい、ロゼッタ。君が気分が悪いのに婚約やら結婚やらには、一晩では発展しないだろ?それより、ドナルテ子爵がフィンガーボールの水を本当におかわりしていないかメイドに聞いておいてくれ」
ロゼッタは笑いながら手を取り、その夜は伯爵邸の中に戻った。
◆◆◆◆◆◇◇
その夜、また夢を見た。
自分は9歳だったけれど、チビで 食べても食べても痩せていた。
ロゼッタは7歳で、もう僕より背が少し高いくらいで、活発で朗らかで……可愛かった。
あの頃の認識としては 僕にとっては、僕をいじめる奴等は 押したり引っ張ったり、足を引っ掛けてくる男子だけではなかった。女子もだった。そうだ、女も嫌いだったんだ。こちらをコソコソ見ては女同士で何か言ってクスクス笑っている。今とは違って当時はそれも心底うんざりしていた。
自分には────
自分は……
あの頃はロゼッタ・ソーフォーンだけが大好きだった。
裏表が無くて、真っ直ぐで、明るくて、強かった。
いじめっ子からも守ってくれる僕のヒーローだった。
ロゼッタといると楽しくて安心できて…………
だから、ロゼッタといるのが好きだった。
好きだったんだ、心から。
────だから真剣に申し込んだ。9歳だったけれど。
『レディ・ロゼッタ・セナ・トルドナ・ソーフォーン、大人になったら 僕と結婚して下さい』
僕は跪いて彼女に言った。
7歳のロゼッタも
『はい!』
と元気な返事をくれた!……言ってくれたんだ!僕は幸せで、スキップしたい気持ちだった。実際 していたかもしれない。
ずっとロゼッタを好きでいて、彼女と一緒にいようと思った。彼女だけと────
そうして子供ながらに気づいた。それを現実にするにはある人の許可が必要なのだ と。
そうして僕は、恐れ多くも国内でも有数の長い歴史を誇る
第98代ラトリッジ伯爵────ロゼッタの父親に婚約許可を求めに行ったのだ。
予約も約束もせずに、ただ遊びに来た要領で書斎のドアをノックした。
『誰だね?』
太く重みのある声がしたが、怖さは感じなかった。ロゼッタから優しい父親だと聞いていたし、これまでも怒られた記憶も無かったから。
『失礼します。あの、ヴィンセント・マドウィックです』
それでも、静かな書斎に入ると緊張した。だが勇気を出した。自分とロゼッタの未来のために!
『大人になったら、僕をロゼッタと結婚させて下さい!』
そうして思い切り頭を下げた。
────少しの沈黙のあと、伯爵は言った。
『駄目だな。年下の女の子のスカートの陰に隠れているような男では、娘を幸せにできるわけがない。あの子に守ってもらおうとしているなら、君はクソ以下だ』
▼
ハッ として目が覚めた。
心臓がバクバクと鼓動している。夢から覚めた理解はあったが、荒く息をしてただ天井を凝視した。
────思い出した。そうだ。確かに言われた。あの日、あの場所で、あの人に。
悲しくて悲しくて、息も苦しくなって家に帰った。部屋ではベッドに伏していた。
何よりも辛かったのは、ラトリッジ伯爵は僕を嫌ったり意地悪して言ったのでは無かったことだった。
あの人の言葉は真実だった。僕は自分の幸せだけ考えていた。ロゼッタといれば楽しい。ロゼッタといれば安心。だからずっと一緒にいれたらいい────と ただ単純に。彼女のために何かしようとか、彼女のために強くなろうとか、全く計画も無かった。
あの人の言った通りだ。────僕はクソ以下だ。
その日から、自分はロゼッタを避けるようになった。
両親の交流は続いていたが、それも高齢だった父が亡くなる前までで、母が寡婦となって田舎にさがると、爵位を持った僕にはロゼッタの父親はなんの連絡も無くなった。
それも、当然だと思う。僕は若くして譲られた爵位と裕福な財産にかまけて、散々女遊びに明け暮れていたから。自分をからかっていた女達をからかうのが楽しかった。叶わない女性の代わりに、手当たり次第に漁った。
それでも……何を言い訳できる?
────ロゼッタに。
結局僕のしてきたことなんか卑怯で薄汚い。自分勝手な人間だ。むしろそれを証明してきたような人生
だけどもまだ 心底思った
未練がましい自分は────
全てを思い出したくなんかなかった
こんな夢みなければ良かった
初めて神様の声が聞こえた気がした
" そら見ろクソ以下だ " と
◆◆◆◆◇◇◇◇
それからはかつてと同じような日々が続いていた。
屋敷は隣同士でも、交流のないソーフォーン家と自分は基本的に会うことは無かった。大規模な両方の家が招かれるようなパーティには、他の客も多数いて、互いを見つけることも難しい。
────それでも僕は目だけでロゼッタを追っていた。彼女の存在だけは何故か分かる。そして、気づいた。これまでもいつも彼女を探していたのだと。
……ただ認めたくなかっただけで。
子供の頃の朗らかさと太陽のような微笑みは変わらずに、彼女は淑やかに美しく、大人になっていた。
────僕は変われずにここにいる
◆◆◆◆◆◇◇◇◇
今更何かを変えれば許されるわけでも、認められるわけでもないとは知りながらも、愛人達と手を切り、娼館に通うのをやめた。乱交まがいのパーティや いかがわしい集まり、無謀な馬車レースや狩猟ゲームにも行かなくなった。
悪友達は最初の頃は屋敷にまで迎えに来て声をかけて行ったが、やがてはそれも無くなっていった。
それで良かった。
所詮はその程度の付き合いでしかなかったんだ。
静かになった暮らしの中で、シーズンも終わりに近づいた頃だった。
向かいの屋敷の窓辺にシルエットが浮かぶのはもう見慣れたものだったが、なんと、その夜はまた窓が開かれた。
まさか……と、瞳を凝らしていると、やはり窓からロゼッタが上半身を乗り出していた。
慌ててこちらも留金を外して、部屋の窓を開けた。
「やめろロゼッタ!また何かあったのか?」
シーズンの終わりだ。結婚話が出てもおかしくもない。
「また結婚の申し込みがあったの。父も母もノリノリなの。逃げないと、今度こそ結婚させられてしまうかもしれない」
ロゼッタはこちら向かって話し始め、とりあえず脱走の所作は止まった。彼女は続けた。
「でも私は嫌なの。だって……だって降って湧いたような話だわ。相手のことをよく知らないし、無理よ」
ロゼッタは嫌がっている。また、窓から逃げるほどに。
────ふと、よぎった。
"もう危ない逃げ方はしないで、僕と結婚しないか?"
と言ってみたら?
断られても、笑われても、いいじゃないか。こっちも冗談にすれば。もしかしたら……もしかしたら……言ってもらえるかもしれない────
" 助かるわヴィンセント、ありがとう"
そう 言ってもらえるかも……
「よりによって、ノランド公爵なの」
いろいろ想像を巡らせている途中に言われて、思わず聞き返した。
「え?」
「相手よ。ノランド公爵なの。新しい」
先日死んだ公爵の息子だ。……ということは……
「年は?」
「26歳よ」
「評判は?」
「全然高飛車じゃなくて気さくな感じ。ホント、あの公爵の息子と思えないくらい。優しそうで、こちらの会話もちゃんと聞いて下さる」
もう会ってるんじゃないか。
「髪と歯は?」
「髪はブラウンのフサフサ。馬の立て髪みたいに艶やか。歯は全部そろってる」
それなら これについては どうだ!
「結婚歴があるとか、愛人の話は?」
「ないわ。前ノランド公爵が遊び人で何人も愛人がいた上に結婚も数回もしたから、自分はそんなことはしないんですって。今回申し込みを下さったのは、死んだ父親がしていた約束をちゃんとソーフォーン家に対して果たしたいからですって」
────決定打だった。打ちのめされて、崩れ落ちる音が頭に響く。
元々爵位も領地の広さも、経済力も上の相手。年齢は適度に上で性格と人間性は圧倒的に……上だ……
「断る口実も見つからない方なのよ。だから、逃げないと……」
ロゼッタはまたツタをつかもうと手を伸ばす。
「やめろ!!」
と僕は叫んだ。
ほとんど、怒っているかのような響きになった。ロゼッタはビクリとして、僕を見た。
その美しい紫の瞳で。
「逃げるのはやめろロゼッタ。もう逃げる必要は無いはずだ。誰がどこから聞いてもいい話だ。君も分かってるはずだ。これまでとは違うって」
二人の間を夜の冷たい風が通った。
初めて壁で君を見つけたような、月も無い夜。
「ちゃんともう結婚しろロゼッタ。新しいノランド公爵なら、君を幸せにしてくれる。きっと」
そう。僕より確実に────大切な君を
「……………………分かったわ」
長い沈默のあとだったが、ロゼッタはそう答えた。
闇夜に、紫の瞳だけが煌めいて見える。
「おやすみ ロゼッタ」
僕がそう言うとロゼッタは
「おやすみなさい ヴィンセント。…………ありがとう」
と言って────窓を閉めた。そして、カーテンが降ろされる。
…………良かったじゃないか、言ってもらえた。
" ありがとう " を。
見ていたか神様、クソよりはマシになったろう?
僕は、開けたままの窓とは反対側に向かって歩いていき────そして、壁に思い切り拳を叩きつけた。
◾️
数日後の晩だった。
その日は社交界でも有名な、ベアリング男爵の仮装舞踏会の夜だった。
貴族の中では爵位は下位の方だが、家柄の古さや王室への貢献度────そして、着飾りや客のもてなしの仕方でも社交界では評価されることがある。ベアリング男爵夫妻は正にそれだった。
毎年奇抜なイベントを開くこの夫妻は、今年は自分達の邸宅ではなくて、古くなった洋館を貸し切っての仮装舞踏会を催した。────テーマはなんと " 死者 " だった。
よって、今年はみんながゴーストやら、ヴァンパイアや、天使や────あとは包帯をとにかく巻いたり、首に紐を輪っかにして着けてきたり、口の端に赤いインクをつけたりして着ていた。仮装と言っても、フルでやっても部分的にやっても許されるのだ。
今年は 凝るような気分にはとてもなれなくて執事に任せた。すると、執事のミスター・モリスは膝下まで丈のあるような立派なマントを羽織らせた。
「ヴァンパイアってことか」
と僕が言うと、
「ドラキュラでございます」
と言われた。────正直、どっちでも良い。
何にせよそれで、今日はドラキュラに扮していることになった。
貸し切りとなった古い洋館に入ったが、やはり普段の夜会での建物とはまるで違っていた。
天井も壁もくすんでいるし、歩くとミシミシと音がして、
ふと不安になった。いきなりこんなに大勢の人間が押しかけて、この屋敷…………もつんだろうか?
いや、まさか崩れたりはしないだろうが。床なら誰かが酔っ払ってジャンプや地団駄を踏んだら、本当に穴でも開きそうだった。
そうして辺りを見回して見ると、ドレスコードが『死者に関する仮装』の日なので、ある意味砕けた衣装が多かった。男性達は自分も含めて燕尾服などではなく、スーツが多いし、暖かい夜なので肌を出して古代風の服装をしている物も多い──何か古の英雄の仮装なのだろう。
女性達はイブニングドレスもいたが、より簡素なモーニングドレスやアフターヌーンドレスも多かった。
何しろ、死者に扮するにあたり服を切ったり血の色の演出もするから、流石に高級な生地はためらわれたのだろう。
天使が圧倒的に人気のようで、そこかしこに頭につけた金色のリングや羽根がひしめき合っていた。
────何が天使だ と思っていると、ロゼッタを見つけた。彼女は黒い色のモーニングドレスの裾周りをギザギザに切って首には赤インクを付けてゴーストに扮したようだ。サマラント男爵夫人となった妹のシーラと一緒にいる。
ロゼッタは絶対にユニークな方の仮装をすると思っていたので、自然と顔がほころんだ。
だが、そう言うセンスの全く分からない意地の悪い輩もいるようだ。
「見て、ソーフォーン家の次女を。足首が見えているわ」
「不適切なことよ。みっともない」
「なんでしょうね。シーズンも終わりだからと、殿方の目を惹きつけようと必死なのかしら。あさましい」
未婚の令嬢達ばかりをチェックして歩く、既婚のうるさい中年おば様方だ。
「あさましいのはどっちでしょうね?」
声を低くして、だが力強く言った。
魔女のような、妖怪のような姿の彼女達がこちらを向く。────なんの仮装だか知らないが、僕にはそう見えた。
「フォトラント伯爵のご令嬢やカーセン子爵のご令嬢も……いやぁ、もっと脚も腕も出ているのではないですか?おっと胸元もかな?
それに比べたらラトリッジ伯爵の妹はずっと慎ましやかだと思いますけれどね」
魔女の1人が反論してきた。悪魔かも知れない。
「いやらしく見ているのはそちらじゃないですか?ダリントン子爵。私達は自分達の意見を言っているだけです」
「いいや、あなた方がしているのは弱い者への嫌味と悪口ですよ。ラトリッジ伯爵は出征中で、前伯爵の御父上はご病気から滅多に夜会には顔を出さない。あなた方が狙うのはいつもそう言う娘達だ。強い後ろ盾が不在で反論もできない若い娘。────もうやめたらいかがですか?その見た目通りのことは」
おば様方がキーキーと騒いだが、こちらはかまわず立ち去った。後は相手をするのも無駄な連中だ。
────すると、すぐに横から声をかけられた。
「ダリントン子爵、こんばんは」
目をやるとアデリー伯爵夫人────ロゼッタの姉である
クラリスと、そしてセシリア・マースデンの姿があった。
◾️◇
少し話があると言われて、3人で場所を変えた。
お化け屋敷のような会場なために、図書室や休憩室も使う気になれず、2階から降りて来て外に出た。
小さな庭のようなところを3人で歩く。暑い夜だったので風も気持ちよく感じられた。
「昔のようにヴィンセントと呼んでいいかしら」
その問いに 僕はうなずいた。
クラリスは、今夜はパラパライというシダで編んだ仮装用のレイを頭につけていた。何かの女神なのかもしれない。
「さっきはありがとうヴィンセント。あの人達はいつも何かあるとロゼッタに文句をつけていたの。ホラ、あの子って変に人目を引いてしまうところがあるから」
確かに。そそっかしくて危なっかしくて……美人だ。
「あなたの指摘してくれた通りよ。男性方が来るとやめるの。でも、父やアデリーは来てくれても遅くからなのよ。だからアレを聞いた上で、あなたがきっちりやり返してくれてスカッとしたわ」
僕は口を開いた。
「たまたま聞こえただけですよ。僕があそこでやり返さなくても、ロゼッタはノランド公爵との結婚が決まっているでしょう?それが発表されれば、どのみち彼女達は歯軋りしていたでしょうよ」
クラリスはセシリア・マースデンと顔を合わせて奇妙な顔をしている。……なんだろう?
「ヴィンセント……あの、どこから聞いたか分からないけれど、ロゼッタはノランド公爵とは結婚の予定は無いわ」
────何だって?
セシリアが前に出てきた。頭に金のリングと白いドレスの育ちの良い大公令嬢は、無理なく天使のようだった。
「ダリントン子爵あのう……私も名前までは教えてもらっていないんですが、ロゼッタは昔凄く好きな男の子がいたみたいなんです」
自分の周りから、セシリア・マースデンの声以外の音は消えていた。
「大人になってからも、なんとなく、その男の子が…………今は彼も大人なんでしょうけれども、気になるって言っていました。ここ最近何年も、です。
先日どうもその人と何か決定的なことがあったみたいで、ロゼッタは……」
「ロゼッタは?」
僕は聞き返していた。身も乗り出していたかもしれない。
セシリアが話そうとしたその時────
ガラガラガラ……ドン!!!
と聞いたことの無いような音が響いて、地面が振動した。
僕もセシリアもクラリスも一瞬グラつき、セシリアとクラリスは互いに支え合った。
振り返ると わぁわぁと お化け屋敷から人が駆け出してくる。────まさか……
出てくる人々の中にロゼッタの妹のシーラの姿は見つけた。だが、ロゼッタはいない。
僕も、クラリスもセシリアも、シーラに駆け寄っていた。
「何があった!?」
シーラは息を切らして、そして泣いていた。
「バルコニーが崩れたの。そしたら、誰かが " この屋敷は崩れるぞ!"って。それで、それでみんなが走り出して……ああ、私も出て来てしまった。怖くて出て来てしまったの」
クラリスは末の妹の両肩をつかんだ。泣くのを許さないという気迫で尋ねる。
「ロゼッタは? ロゼッタはどこにいたの !?」
「最後は分からない……でも暑いからバルコニーで飲み物でも飲まないかって、シェリーを持ってきたミスター・クラムに誘われていたの…」
シーラの声は小さくなっていたが、最後まで聞いてもいなかった。僕は走り出していた。
神様のクソッタレ!!!
◾️◇◇
階段を降りてくる人混みを割って上に上がった。屋敷内はどこもまだ抜け落ちてはいない。だが、むしろ今さっき大勢の人間が踏み荒らして行ったからではないだろうか────床の軋みは酷くなっている気はした。
気持ちだけでも端を通り、バルコニーのある開閉できるガラス戸の所まで行く。のぞいてみると、確かにバルコニーの4分の3程もが無くなっていた。屋敷に近い部分はまだいくらか残っているが、それも大丈夫なのかは不明だ。
それでも────
踏み出して そのバルコニーに出た。
ロゼッタはここにいたのか?下に落ちたのか?
それだけを確かめたくてまた一歩踏み出した。
「ロゼッ…」「……助けてっ…」
呼ぼうとした時、確かにそう声がして、慌てて周囲を見回す。
「助けて……ヴィンセント……」
声を手がかりに腹ばいになってバルコニーの床に伏せ、顔だけ出して下をのぞいた。
────いた!すぐ下にロゼッタの顔があった。良かった!
「ロゼッタ、すぐ助ける!」
手を伸ばす。
彼女も伸ばして、その手は繋がった……!
しかし、実はこちらのいる残ったバルコニーもすでに外側に傾いていたのだ。
おそらくは水平であっても、人を1人引き上げることは難しいのだろう。力をうまく込められず、自分の体重も支える形になっていて、とてもロゼッタを引き上げられそうにない。
「…………ぐっ…っ」
「……ヴィンセント…………! 」
パラパラと、崩壊途中のバルコニーから、まだ破片の落ちる音がしてる。このままだと2人共落ちるかもしれない……バルコニーと一緒に────
「ヴィンセント!……も、もう、いいから!」
同じことに気づいたのだろう。ロゼッタがつかんでいた指を解いた。僕の手の力だけが、ロゼッタを繋ぎ止めている。
「あなたは逃げて! あなただけなら逃げられるから !
…………行って ! 行って……!!」
最後は悲鳴に近かった。ロゼッタが僕を助けようとしてくれているんだと分かった。……それだけで……
「嫌だ」
────幸せだから。握る手を離さない。君を離さない。
────幸せだから……
「一緒に落ちていい。だから、離したくない……」
涙が溢れる。
もう泣かないと誓った
9歳のあの日から
止めていた涙が──
「ヴィンセント…………」
自分の涙を通して見るロゼッタの顔は、煌めきが増して信じられないくらいに綺麗だ。
────神様 この女性を助けて
どうか
どうか
どうかどうかどうか…………!
彼女の生命が救えるのなら
僕のこの生命を捧げていいから────
「愛してる」
その言葉を聞いたロゼッタの紫の瞳が見開かれた。
────バラバラと言う音が強くなる。僕はロゼッタをつかむ手に渾身の力を込めた。ロゼッタも もう離そうとはしていない。
なんとか引き上げようとするその時に……
「ロゼッター!大丈夫かー!」
男達の声が正面玄関口の方からして、2、3人の紳士達が駆けてくる。……助けが来たようだ。
「ノランド公爵!」
ロゼッタがその中の1人に声をかける。ん?ノランド公爵?
「受け止めるから!彼女を落とせー!」
そう言いながら男達は走って来てくれているが、僕は……
僕は、多分0.1秒くらいの間に頭の中でイッキに思い描いていた────
【ノランド公爵が下に来てロゼッタを受け止めた場合】
1.ノランド公爵がロゼッタのスカートの中を見る。
2.ノランド公爵と他の助けに来た男もロゼッタのスカー
トの中を見る。
3.スカートが下手にひるがえった場合、ノランド公爵と
他の助けに来た男と、さらに遠くのヤジ馬にまでスカ
ートの中が見えるかもしれない
「────僕が引き上げるっっっ !!!!!!!!!!!!! 」
瞬時に寝そべっていた大勢から膝立ちになって、自分の身体は脚だけで留めた。腕にだけ、右腕にだけ!力を込める────────!
「ぉおおおおおおおおおおっ !!!」
雄叫びを上げて、足まで踏ん張って力を入れて
上げた!上がった!!
ロゼッタの身体は僕の腕一本に吊り上げられ、バルコニーの残骸の上にのった…………!!!
そのまま右手で押し込むようにすると、彼女もフラフラで、簡単に室内の方に入り、ヘタレ込んだ。
お──── ! と、下から歓声が上がっていた。
何が"お──"だ。死んでもお前らにロゼッタのスカートの中なんか拝ませるものか。
「……ロゼッタ……良かった」
室内の彼女に頬笑んで立ち上がった時、グラリと視界が────下に沈んだ。
足場が無くなっていく。
残っていたバルコニーが……崩れた。
最期に見る彼女は何かを叫んでいる
僕を呼んでいる?
僕は落ちている。
神様…… こんなのってあるのかよ……
ああ でも ちくしょう
僕が望んだんだ
彼女を救えるなら 生命を捧げていいと
確かに 心から そう祈った
祈ったんだ あなたに
なら……仕方ないよ…な…… …
◾️◆◆◆
目が覚めた時────
僕は信じられないところにいた。
多分、天国の方が納得していただろう。
僕はラトリッジ伯爵の邸宅に────ソーフォーン家に連れて来られていた。
……十数年ぶりだった。
傍らには、ロゼッタやその姉妹、セシリア・マースデンと姉妹の夫達…………それからロゼッタの父親である前ラトリッジ伯爵がいた。
「良かった ! ヴィンセント ! 」
ロゼッタが泣きそうになりながら呼んでくれた。
生きてたんだ……! 死ななかった……!
ベッドから起き上がろとすると、物凄い激痛が右肩に走った。背中や尻も痛い。あちこちに何かがつけられたようで、そして、包帯が巻かれている。
「バルコニーの瓦礫の上に落ちたの。でも、上だったからまだ良かったみたい」
ロゼッタの妹のシーラが教えてくれた。
「他の人は?」
と聞くと、
「バルコニーが一度目に崩れた時には、下に落ちた人は男性2人だったの。2度目の、あなたがバルコニーと一緒に落ちてくる寸前にその2人はノランド公爵達が助け出していたの。
だから、あなたも含めて今回の負傷者は3人よ」
今度は姉のクラリスが答えた。
セシリアが前ラトリッジ伯爵の方を指し示すような手をして話し出した。
「ロゼッタのお父様があの時もう到着なさっていたんです。それで、あなたの落下を見て、ここにダリントン子爵を運ぼうと申し出て下さったんです」
「……ラトリッジ伯爵…」
僕が、15年ぶりに彼を見つめると、その人は一つ咳払いをして言った。
「娘を守れる男になったようだからだ !!」
理解するのに少し時間がかかって、それから喜びで笑いが込み上げる。だが、体が揺れるとあちこちが痛くて敵わない。
幸せなんだか、辛いんだか、分からなくて……いや、幸せだった。絶対に。
「さあ、私は帰ります。皆様も、ご予定があったのではないですか?あとはロゼッタが子爵を看病なさるでしょう」
セシリアが言い出し、みんなはそれに従った。
未婚の令嬢に厳しい社交界のマナーも、重病者の看護で室内にいることは容認されやすい。
みんなはロゼッタを残してくれたんだ。
ロゼッタはこちらに向けて
「待っていて」
と言って、一度廊下に出て行った。声が聞こえる。
「セシリア、いろいろ本当にありがとう。もしもあなたが恋をする時には私必ず応援するわ。それが、どんな恋であっても」
セシリア・マースデンの笑い声がして、足音が去っていく。
ロゼッタは戻ってきた。────僕のところへ。
それがただ嬉しくて、左手で彼女を抱きしめた。
「実は、レディ・マースデンからは、君が小さな時に凄く好きな男の子がいて、大人になってからも気になっている……くらいまでしか聞けていないんだ。
ロゼッタ、君は僕を本当はどれくらい好き?」
腕の中の彼女がさらに身を寄せてきた。
「生命をかけるくらい好き。あなたがあの時死んでしまうなら、私1人が落ちたいと思った。心から」
僕は笑った。
「本当に?なら、凄く相思相愛だ。僕も同じように思ったから」
「分かってる。あなたは、それを証明してくれたから」
「だけど……僕は気づくまで散々馬鹿をやった。無理だと思っていたんだ。僕みたいな男が君と結婚なんか。────君は、どうして信じていられた?こんなに長い時間」
答えてくれた彼女の笑顔は女神のようだった。
「あなたの素顔を知っていたから」
────僕の神様はここにいた
ー完ー
後記
大変楽しく書かせて頂きました。
ヴィンセントのキャラクターが大好きでした。
カッコいいし、容姿端麗なのに、何かが残念でうまくいかなくて、でも頑張る。
今まで書いた中で、最も愛らしいヒーローでした。
頑張ったね!と言ってあげたいです。
本作は、既に連載完結しております
『その瞳を知れたなら〜令嬢と孤高の騎士〜』のスピンオフ作品、シリーズ作品と言えるものです。
こちらでは、本作にも友人として出ていたセシリア・マースデンの片思いがゆっくりジリジリ、ラストは爽快ハッピーエンドで書かさせて頂いております。まだの方、是非こちらもよろしくお願い致します。
一年後のロゼッタとヴィンセントも出ております。
ブクマ・ポイント・リアクション・感想等頂けましたら大変嬉しいです。
本作をお読み頂きまして誠にありがとうございました。
2025年11月14日 シロクマシロウ子




