閑話02
本編進まず
「…腹減った……」
グゴギュルルルと腹の虫が盛大に鳴り響き空腹を訴えて来る。
宛もなく歩くこと数日、初老を過ぎた彼は野宿をしつつ行き先すら自身でも判らない旅を続けていた。
「……これは…本格的に不味い…」
口に出来そうな木の実を食べ、偶然見付けた清流の水で喉を潤して来たが体力の限界が近い事は彼自身が良く判っている。
「……絶対にここは神奈川どころか日本じゃない……これだけ歩いても民家が一軒もない……」
自作した竹筒の栓を抜いてそれを傾けると水を一口だけ口に含み、満遍なく口内で転がした後、顔を空へ向けて一滴残らず嚥下する。
「……こんな状況で、この前みたいなのに襲われたら一貫の終わりだろうなぁ……」
自分の身を守る唯一の道具である腰に差した一振りの太刀の存在を確かめるように彼は柄を軽く撫でる。
「…そもそも…この太刀は何なのだ…?…気が付けば側にあった……」
当然の疑問が口から出たが、それを考えるのは後とばかりに彼は前を見て再び歩き出したーーー
「ーー済まん、婆さん…俺、死ぬかも…」
ーー歩き出して一時間もしない内に彼は取り囲まれていた。
無法者の集団などでは決して出来ない統率の取れた動き、統一され良く手入れが行き届いた武装ーー正規軍と思しき集団に取り囲まれ、威圧されてしまえば死を覚悟するのは仕方なかった。
「ーーそこの者」
「へ?…あぁ…私で?」
「他に誰がいる?」
毛並みの良い栗毛の軍馬に跨がって集団の中から彼へ近付いて来たのは桃色の髪を肩の辺りで切り揃えた少女だ。
(…随分と可愛らしい……というか…あれは地毛か?それとも染めてるのか?)
死を覚悟したにしては随分と暢気な事を彼が考えていると件の少女が軍馬から飛び下り、歩み寄って来る。
「……ふむ……揚州の民ではないな…」
「は、はい?」
「…腰に差してある剣は何処で手に入れた?」
「…いや…元々、私の物なのですが…」
出会い頭だと言うのに尊大な口調で問い掛けて来る少女に彼は少しばかり眉をひそめるが下手に波風を立たせない方が良いと雰囲気で察する。
ーーなにせ取り囲んでいる者達が武器を向けて来るのだ。
「…そうか。知り合いや家臣に同じ剣を持つ者が居てな。少し勘繰ってしまった。気を悪くさせたら済まない」
「お、お気になさらず」
周囲から放たれる威圧感、そして武器が放つ無言の圧迫感を否応なく浴びながら彼は引き攣った笑顔を浮かべる。
「おっと…名乗るのが遅れてしまったな。私は孫権、字は仲謀だ。そなたの名は?」
「……………はい?」
彼女ーー蓮華の自己紹介を聞いた彼は呆気に取られ、おかしな声を上げてしまった。
(ーーう、ううむ……み、妙な事になったぞ…)
つい数日前にも同じ台詞を吐いたな、と頭の片隅にある記憶を思い出しつつ彼は眼前に広がる光景を見て盛大に混乱していた。
「おじーちゃん、どうしたの?食べないの?」
「口に合わなかったかのぅ?」
「は?あ、いえ!大変美味しゅうございます!」
つい数時間前までは飢餓一歩手前の状況だったと言うのに彼の眼前には旨そうな料理の数々が並んでいた。
「ーーささっ、どうぞ」
「あ、はぁ……ど、どうも」
そして自身の傍らには侍女と思しき若い女性が控え、酌をしてくれるという歓待を受けてしまえば、つい先程前の状況とのギャップに彼の頭と身体が付いてこれないのも当然である。
酌を受けた盃の縁に口をつけ、一息に酒を煽って一息つくと彼は眼前の状況を改めて確認する。
卓の対面に腰掛けるのは孫呉の君主と名乗った孫策。
彼女は実に旨そうに酒を煽っている。
その傍らに侍るのは黄蓋。
彼女もまた旨そうに酒を煽っている。
(ーーというか彼女達、何杯目なんだ?)
彼の眼前には次々と酒を煽る彼女達の姿がある。
それなりに酒好きである彼は注がれた酒を一口呑んでアルコール度数が特に好んで口にしていた日本酒よりも高い事を悟った。
自身よりも遥かに多く盃を干している彼女達の姿は正に酒豪としか言い様がない。
「ーー酔っ払っちゃう前におじーちゃんに聞きたい事があるんだけど?」
「は、はぁ」
盃の酒を飲み干した雪蓮が薄く紅を塗った唇を舐めた後、唐突に声を掛ける。
「おじーちゃん、韓狼牙と呂百鬼って名前に聞き覚えはない?」
「…かんろう…が?…りょひゃっ…?」
「うーん……その様子だと知らないみたいねぇ…」
「まぁ両名とも偽名だと申しておりましたからな」
「じゃあ…真名?」
「むしろ本名の方が宜しいでしょう」
「いや…和樹の本名は聞いた事あるけど」
「…かずき…」
ーー雪蓮が紡いだ真名に初老の彼が反応した。
「…まさか……“桂木和樹”…では…!?」
「え?あ、うん。和樹からはそれが本名だって聞いたわよ」
「そして…もう一人はーー」
「ーー“加藤将司”という名では?」
宴席が催されている部屋へ唐突に入室して来たのは冥琳。
彼女は足早に彼へ近付くと携えて来た二つの写真立てを見せる。
「ーー周公瑾と申します。この両名に見覚えはございますか?」
「それ私の部屋に置いてるしゃしんじゃない」
「必要かと思ってな」
「…拝見します…」
二つの写真立てを受け取った彼がそれを注視する。
一方に写るのは雪蓮と和樹。彼は和服に袖を通し、締めた帯に愛刀二振りを差していた。
もう一方の写真に写っていたのは冥琳と将司。彼も和服を着込み、腰に大小を差した格好で写っている。
ーー早いモノで唐突の別離から十数年の時が過ぎた。
警察の知人から指名手配を受けた二人の弟子が傭兵となっている事を聞かされた時は随分と驚いた。
自身の長年連れ添った妻が亡くなった時、口座に多額の金額が振り込まれていたのを知った時、心の何処かで二人の弟子からだと感じたのは都合の良い想像からだったのだろうか。
彼の記憶にある二人の弟子の容姿は最後に会った十代の若人のままで止まっている。
彼等は若いままなのに自分は随分と老いてしまった。
白髪や皺も増え、体力も落ちてしまった。
写真に写る二人は十数年前の容姿のままで止まっている彼の記憶の若人達の面影が残るが、精悍な顔立ちになっている。
傭兵となったからには恐らく口にするのが憚られるほどの地獄を垣間見て来たのだろう。
きっと何人もの人間を殺して戦い抜いて来たのだろう。
懐かしさ、憐憫、悲しみ、様々な感情が混じり、彼の双眸からは涙、そして口からは嗚咽が漏れ出た。
「…別れも告げず…勝手に消えおって…馬鹿弟子共が…!」
「ーー将司はその事を気に病んでおりましたよ。そして貴方が父親代わりのような存在だった事も話しておりました」
「ーー和樹も絶対に頭が上がらないって言ってたわねぇ」
「ーーもし再会したら木刀で追い掛け回されそうだとも言っておったのぅ」
二つの写真立てを額に押し当て、彼は静かに涙したーー
ーーとは言え、感動というモノも少し時間が過ぎれば薄れてしまうものだ。
「ーー和樹と将司め……戦争から帰って来たら脳天に木刀をくれてやる…!」
すっかり酔ってしまった彼は据わった目をしつつ、ここには居ない二人へ細やかな恨みを込めて素直な心情を吐露する。
「和樹と将司の剣の師匠だけあって言う事が凄いわね…」
「本気で脳天に振り下ろしそうじゃな」
「…雪蓮の言った通り、何処となく纏う雰囲気があの二人に似ているな……さぁ、どうぞ」
「ーーあぁ、どうも…」
横に腰掛けた冥琳から酌を受けた彼は軽く礼を述べ、盃の酒をチビチビと舐め始める。
「…それにしても…あの二人に恋人とは……」
「あら意外だった?」
「いや…将司は兎も角…和樹の方はストイックーー禁欲的で克己的な感じがあったのですがね…」
「あ~~……まぁ出会った頃はそんな印象あったかも…」
「酒の肴代わりに二人の昔話などお願い出来ませんか?」
「二人の……それは興味深いのぅ…」
「二人はあんまり昔のこと話さないしねぇ」
「まぁ構いませんが……」
グイっと盃を傾けて酒を煽ると彼はアルコールに染まった息を吐き出す。
「例えば、和樹の奴が13の頃にデカい野良犬に追い掛けられた恐怖で小便漏らした事とか…将司は小動物が好きでウサギとか小鳥を見るとニコニコしてたとか…」
『是非とも詳しく』




