08
孫呉の首都である建業の城ーーその謁見の間は重々しい雰囲気に包まれていた。
「ーーそれでどういうこと?」
「ーー弁明は…」
「ーー出来る、と思っているのか和樹?」
「ーーあ、あのさ冥琳。なんで白虎九尾なんか持ち出して……」
「ーーなぁに……こいつで少し頭を叩きたい男がいるからだ」
ーー床の上に正座させられているのは和樹と将司。
二人は雪蓮、華雄、そして冥琳に冷ややかな視線を浴びせ掛けられつつ囲まれており、その額には冷や汗が浮かんでいる。
(………寿春に帰りたい……)
彼等の背後で控えている中尉は無表情を作る事に専念しているが内心は郷愁にも似た感情が吹き荒れていた。
たとえ必要最低限の物しか置いていない寿春城の自室でも、帰ったら間違いなく溜まった書類の整理が待っていようともーー
(ーーこの修羅場一歩手前に比べたら遥かにマシだ)
内心で溜め息を吐く中尉は然り気無く軍服の上から腹を撫でる。
ーー近頃、胃の辺りが時折キリキリと痛むのだ。
(ーー帰ったら一日は休もう…)
ーー書類と同じぐらい溜まっている代休を消化して、と彼は考えつつ眼前の光景から逃れようと画策し始めたのだった。
「ーー帝は和樹を大司馬。将司を大将軍に叙すると言った訳ね?」
「まさか…華琳ではなく帝が絡んでいたとは……考えの埒外だったな…」
「大司馬と言えば一品官……大将軍もほぼ同等になる……今思うと雲の上の人間になる者を座らせているのだな。……なにやら痛快だ」
「大体、何故俺達がこんな官職を得られるか不思議でならん」
「何故か和樹は陛下から気に入られるしな。“これからは直答を許す”って言われるし、剣履上殿も許可されるし」
「ーーそれはお前もだろう」
「…気に入られすぎよ……」
雪蓮が呆れたかのように溜め息を吐くと冥琳と華雄もそれに続く。
「ーー皆、今日は一先ずお開きにしましょう……詳細はまた……」
「あぁ、そうだな……」
「うむ……」
お開きという言葉を聞いて和樹と将司が立ち上がるとーー
「ーー和樹は私の部屋に来なさい。華雄もね」
「ーー応。もとよりそのつもりだ」
「ーー将司は私の屋敷だ」
「「え?」」
(……延長戦突入……)
「ーー帰ったぞ」
「お嬢様、お帰りなさいませーーおや呂将軍も」
「…あぁ…どうも…」
屋敷の門で出迎えた使用人の老人へ馬の世話を頼んだ二人は冥琳の案内で邸内の彼女の自室へ向かう。
(説教かなぁ……)
「ーー入ってくれ」
これから何を言われるかと将司はだいぶ億劫になっているが、冥琳は気にも止めず自室へ彼を招き入れた。
ーー相変わらず整理がされ、江東でも有数の名家の女主人に相応しい調度品の数々が彼の目を保養していると冥琳が彼の背後へ回った。
「…あぁ…悪ぃ」
ほぼ常態化していると言っても過言ではないが、いつからか将司が彼女の屋敷を訪れると冥琳は手ずから彼のコートと上衣を衣紋掛けへ掛けるようになってしまった。
そうなった理由や切っ掛けは定かではないが、その事を将司が部下に話すと「なにそのリア充。死ねば良いのに」と呪詛にも似た言葉をボソリと吐くのだ。
コートを冥琳へ預けると将司は腰に巻いた剣帯のバックルを外して、愛刀と愛銃を提げたままの格好で椅子へ掛けた。
次いで軍服の上衣のボタンを全て外すとコートと同様にそれを冥琳へ預ける。
軍服が衣紋掛けに掛けられたのを横目に将司は黒いネクタイを緩め、土色のカーキのワイシャツの首元のボタンを外して一息つく。
「少し待ってくれ。着替える」
応、と答えると彼女は部屋の隅にある衝立の奥へ消えていった。
「……大将軍…か……似合わねぇ…」
スラックスのポケットから取り出したソフトパックから抜いたタバコを火を点けずに銜えると将司は冥琳が部屋の壁に掛けた軍服へ近付く。
「ーー正直に言えばな……和樹やお前が大司馬、大将軍へ叙任されるのは嬉しい。適任でもあると思っているよ」
衝立の奥から衣擦れの音に混じって冥琳の声が彼の耳に届く。
「……所詮、特務大尉…大尉なんて階級ですら俺には似合わねぇ…」
「ーー隊の指揮は和樹に任せていたからか?交州での戦は中々の采配振りだったぞ?」
ーー軍服の両襟と両肩に取り付けた銀色に光る大尉の階級章を順繰りに指先でなぞった後、彼は窓際へ移動して窓枠を開けた。
「アレは勝手知ったる部下共だったからだよ。俺の癖や考え方を知らない奴等をどう指揮しろって?」
「ーーそれこそ現在の状況を考えれば大差あるまい。お前は2千の将兵を率いているではないか。まさか…全将兵にお前の考え方や癖を一から十まで理解しろと思ってはいないだろう?」
「そりゃ…まぁ確かに…」
銜えていたタバコへジッポの火を点けると紫煙を吐き出した。
「ーーだろう?なら問題ない筈だ」
「……キミ、城では俺達の叙任には反対じゃなかったっけ?」
「ーー叙任その物に反対ではないよ。反対する理由は至極個人的なそれだ」
衝立の奥から着替えを済ませた冥琳が姿を表した。
彼女は屋敷で過ごす時に着る赤を基調にした曲裾を纏い将司の傍らへ歩み寄る。
「……単にお前と離れるのが辛いだけさ」
「……冥琳……それ殺し文句…」
クスクスと彼女が苦笑しつつ更に声を掛ける。
「茶を淹れて来る。待っていてくれ」
「あぁ……」
ーー扉が閉まる音が響くと将司は片手で顔面を覆った。
「やべぇ……ゼッテー顔真っ赤だ……」
冥琳が戻って来る前に顔色を戻そうと彼が考えたのは言うまでもない。
「ーー荊州を?」
「ーーあぁ、朝廷の天領……直轄領にする」
「…荊州は三国で分割する手筈になっているが……」
ーー冥琳が淹れて来た茶を啜りつつ将司が放ったのは三国会議で予定されていた荊州分割とは真逆の案だった。
「何処が荊州の何処の郡を組み入れようと遺恨が残る可能性がある。なら朝廷の預かりにした方が火種は残らねぇだろ?」
「いや…まぁそうかも知れんが……」
「ここだけの話だけど…既にウチと相棒の軍は準備を整え始めてる。勅が下り次第、大司馬と大将軍による荊州平定が始まる手筈だよ」
「…荊州に点在する豪族を朝敵として滅ぼすか…」
「豪族共からすれば“お飾り皇帝”からの勅なんぞ受け入れる道理はねぇだろうしな。そんなのよりも自分達の利権を守りてぇだろうよ」
静かに茶を啜った後、将司は茶器を卓上へ置いた。
「…それだけではなかろう?“見せしめ”もあるのでは?」
「あぁ……例え降伏しても豪族共は処刑する。戦後、纏めてな」
「…荊州の地が血で染まるな…」
「だろうな……屍が山となり、流れた血は河になる」
「ーーいつ頃に始まる?」
茶器を卓上へ置いた冥琳が将司を見詰める。
「ーーそれは言えない。……けど…近い内に」
「そうか……」
「……帝が諸侯の参内を命じたら迷わず洛陽へ行け」
「…それは警告か…?」
「あぁ……」
「分かった……必ず献策しよう」
情報漏洩に当たる事かも知れないが……この程度は許されるだろう。和樹も蜀の知人へ私信を送っていたのだからーーと将司は自己弁護しつつ再び茶を啜った。
そして一ヶ月後、各地の諸侯へ向けて献帝が詔を下す。
「諸侯は其の悉く速やかに帝の御下へ参集せよ」




