56. <城>
1.
「そっちだ!追え!」
「密集するな!魔法職がいるぞ!」
平原を6騎の騎馬が駆ける。
フーチュンたちは馬に必死で拍車を当て、それぞれの出せる最高速度で走っていた。
彼らの後ろを追う騎馬は12。
かすかに確認した彼らのギルドタグは<日月侠>――<邪派>だった。
「こんな中原の奥にまで、<邪派>が入り込んでいるなんて」
「この間、<正派>の連合軍が賊軍に負けたらしいからな。
圧力が弱まったんだろう」
喘ぎながら呟くイーリンの手綱を片手で支えながらヴォーガンがいう。
冷静な彼にしても、顔面にいくつもの汗が滴り落ちていた。
「どうする?どこかで迎え撃つか」
もっとも殿で、馬上槍を後方に向けながら尋ねるカシウスに、一行の先頭を走るムオチョウは頭を振る。
続いて上げられた手は、彼方に見える小さな城壁を指していた。
「いや。あそこまで逃げよう。亜人や山賊たちがこのあたりまで進出するのも時間の問題だ。
今はあの城へ向かうことを先決とする」
「わかった」
一行が頷き、馬の足を速めたとき、落日が大きく西に傾いた。
◇
一行が<嵩山>を出立して二週間あまり。
当初、不気味なほどに穏やかだった旅は、ひとつの噂が驚愕とともに武林を席巻したころから徐々に様相を変えていた。
<正派>、モンスターに敗れる。
<正派>に属する<冒険者>でも、大規模戦闘に慣れた人材ばかり1,500人、しかも大隊規模戦闘の指揮経験もある<嵩山派>の幇主、ランシャンが率いてなお、敗れた。
いや、ただ敗れるだけならばどうということはない。
<冒険者>にとって大規模クエストとは、何度も敗れ、全滅しながら徐々に攻略法を編み出すものだったからだ。
だが、今回ばかりは異なる。
<嵩山>に戻った<冒険者>の中の一部が、戦いを拒否し始めたのだ。
決してその数は多いとはいえないが、それまでとは別人のように戦いに怯える姿は異様だった。
フーチュンたちが旅の途上で聞いた噂では、部屋から出てこなくなったり、かといえば
無謀なまでに軽装でモンスターに挑んでは死ぬようなプレイヤーも出ているという。
不気味な噂だった。
「何があった、と思う?」
「全滅だけなら、単に数に押しつぶされたと言えるが……」
ある野営の夜。
焚き火に車座になった一行で、ムオチョウが口火を切ると、最初に答えたのはカシウスだった。
小枝をちぎって焚き火の中に投げながら、彼は言葉を選ぶようにぽつぽつと告げる。
「<災害>以降、<冒険者>は自分自身で敵と戦わなければいけなくなった。
その恐怖が蘇ったのかもしれないが……戦い慣れた<正派>が、それもレイドに出るほどのプレイヤーが、恐慌をきたすというのは考えづらい」
「何かが、起きたんだろう」
念話で大規模戦闘に参加した友人と話していたヴォーガンがぽつりと呟く。
「連中、『あのまま死んだら帰れなくなる』と言っていた。
何かが起きたんだ。連中の戦意を根こそぎ消し飛ばすほどの何かが」
「そして、それは全員の戦意を消すほどではなかった……とも言えるわ」
イェンイが応じる。
「つまり、気にする人は気にするし、気にしない人は気にしない。
そうした類のこと……たぶん言葉だったのよ」
「ああ。別のやつに聞いたら、『黒い髪の女が映像を見せた。死ぬ状況によっては記憶が吹き飛ぶ』と言ったよ。……フーチュン。何かわかるか?」
「そうだな……」
ヴォーガンに目線で促されたフーチュンは天を仰ぐ。
今は、彼は『黒髪の女』がユウであることをほとんど疑っていない。
だが、ここにきてフーチュンは、彼女のことをほとんど何も知らないのに気がついた。
ヤマトで何をしてきたのか、何を思って旅立ったのか。それらすべてを。
「……わからんな。ただ、ヤマトはこのセルデシアで唯一、<ノウアスフィアの開墾>が実装された地域だ。そこで何かを見て、記録したのかもしれない」
「それは何だと思う?」
「あくまで推測だが」
フーチュンは一言前置きすると、自分に注目する5人を順に見て、口を開いた。
「俺たち<冒険者>は、死ぬと記憶の一部をなくす。それはみんなも知っていることだと思う。
今まで、なんとなくだが、記憶の欠損はわずかだ、と思っていた。
俺もそうだ。何度か死んだが、失った記憶の中で大事なものはそうはない。
家族の顔、声、過去の重要な記憶、そうしたものは持っている。
だが、『死に方によっては』そうした重要な記憶を、あるいは大量の記憶を奪われるとしたら?
例えば……思い出したくもないほど無残な死に方をした場合……とか」
「可能性の論議だな」
ムオチョウが一蹴する。
彼は、常日頃の彼より若干ながら早口でフーチュンに言った。
「俺はこの世界に来て最初のころ、ノールの群れに殺された。
呪文も何も放つこともできず、仲間が次々に死んでいった最後に連中に殺されたんだ。
惨めで、悲しくて、悔しくて、思い出したくもないような死に方だった。
だが、それでも俺は記憶を失っていない」
「記憶がなくなれば、思い出すこともできないんじゃないかしら」
イーリンがぽつりと口を挟む。
ムオチョウはむきになったように首を大きく振った。
パチリ、と爆ぜる焚き火に、彼の影だけがまるで道化師のように蠢いた。
「違う!俺も気になったから、何度か自分の記憶をメモしてみた。
両親の顔、恋人の顔、声、家族旅行やデートの出来事、故郷の風景、仕事場の風景、いずれもそのままだ。
仮にそれ以外の記憶、例えば前の日の夕飯とか、やった仕事の中身とか、そうしたものが消えたとしても……俺は俺だ」
ムオチョウの言葉が終わると、一座に再び沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、再びカシウスだった。
彼は、手にした小枝を緩やかに振っている。そのさまは騎士というより古代の呪術師めいて見えた。
「記憶を失うリスク。そのリスクは、過去より今のほうが大きいんじゃないかな」
「え?」
誰かの驚く声に、カシウスは苦笑する。
「だって、ほら。俺たちはもう一年近くこの世界にいるんだぜ?
どんな記憶力のいい人間だって、一年前の記憶なんてよほど鮮明なものじゃないと覚えていないだろう。
俺たちの地球の記憶は、徐々にこの世界の記憶で塗り替えられている。
一年前は、そうじゃなかった。
俺たちには失ってもいい、無数のどうでもいい記憶があった。
だが、今は。
本当に強烈で、大事な記憶しか持っていない奴もいるかもしれない。
そうした連中にとって、死によるリスクはかつてより大きくなっている、と言えるんじゃないか?」
「リスクの……増大か」
死による記憶の欠損が、本当に地球での記憶に限定されるのかはわからない。
しかし、人によってはかつての世界の知己の顔すらおぼろげになっている人間もいるだろう。
そんな人々にとって、忘却が果たして死によるものか、それとも生きていることによるものかはわからない。
ただ、ひとつ言える事がある。
死ねば、確実に何かの記憶を失うということ。
それは、親兄弟や恋人・妻子のそれである可能性は決してゼロではないのだ。
再び、場に沈黙が落ちた。
今度は、先ほどよりさらに重苦しく、不気味さを増した静けさだ。
誰もが、自分たちが当たり前のようにやってきた『戦い、死ぬ』という行為の本当のリスクを理解していた。
そして、それを意図してかはわからないが衝いた、黒衣の<暗殺者>のことを。
「そういえば、話は変わるが聞いたことがある」
唐突に口を開いたのはムオチョウだった。
「こういう場面で言っていいものかわからないが」と前置きし、苦笑する。
「<日月侠>のウォクシン教主、彼は相手のMPを根こそぎ吸い取る絶招を持っている。
<吸星法>というそうだが」
「ああ」
フーチュンとカシウスが頷いた。
二人は、あの恐るべき魔侠が絶招を使うのを、その目で何度もみたのだ。
「以前、まだここまで対立がひどくなる前、<邪派>にいた知り合いに聞いたことがある。
あの絶招の元は装備だと。
彼の篭手には相手の魂を吸い取る力がある、とフレーバーテキストに書いてあるんだと。
どうせフレーバーテキストだ。単なる与太話の類だと思って聞き流したんだが……今になって思えば不気味だ。
魂を吸う、というアイテムの性能が、対戦相手のMPを吸い取ることであるならば。
MPイコール俺たちの魂、ということになる。
魂を吸われる。
じゃあ、吸われたのは本当にMPだけなのか?
ウォクシンが吸っていたのは、本当にMPだけか?
魂、というのは何なんだと、思う?」
ムオチョウの発言は、一座を明るくする役にはまったく立たなかった。
むしろ、逆だ。
死ねば記憶をなくす。
ウォクシンは魂を吸う。
その二つの事象はまったく別個のものでありながら、不気味な同類項のように6人の誰もが思っていた。
「そもそも、今の俺たちは何者だ? 単なるデータのバグなのか?
それとも異世界に放り込まれた魂なのか?
魂魄二元論で言えば、人間は心と体――魂と肉体でできている。
少なくとも俺たちの今の肉体は、生まれ持った本来の肉体じゃない。
とすれば、俺たちが『俺たち』と自己認識しているのは、魂によるものだ。
記憶も、人格もすべて魂によるものだと思っている。
ならば。
その魂を吸われたら、あるいは度重なる死に擦り切れてしまったら、俺たちは、どうなる?」
訥々と語るムオチョウの言葉に、横合いから別の声が重なった。
「……古代エジプトには、魂には複数あるという考え方があった。有名なものが魂と精髄、そして格だな。
例えば、俺たちにはHPとMPがある。MPがなくなっても俺たちは生きているが、HPがなくなれば死ぬ。
HPは、例えば首を刎ねられれば一瞬で消えるが、何度剣を突き刺されても減るだけで、一瞬で消えはしない。
いわばHPが精髄で、MPが魂だ。そして両方があって初めて人格が生まれる。
そのどこに俺たちの意識が乗っかっていて、記憶が保存されているかわかりようがない。
……わからない以上、むやみに恐怖を感じる必要はない……と、思う」
カシウスの淡々とした声に、だが、とムオチョウはなおも議論を続ける。
「それも仮説だろう。どのみち俺たちに証明する術はない。
できるのは、できるだけMPとHPを減らさずにすごすようにするだけだ。あるいは」
「あるいは?」
フーチュンは、口を一旦閉じたムオチョウをじっと見た。
理知的なはずの彼の目が、不気味に赤く輝くように、フーチュンも、ほかのメンバーも一瞬思う。
「あるいは……もし、逆説的に、俺たちを俺たちたらしめているのがHPとMP、いわば魂と精髄ならば。
その黒衣の女の発言、そしてウォクシンの技は、救いの手がかり……かもしれない」
「……」
誰もが押し黙る中、ムオチョウはどこか微熱を含んだような顔で言葉をつむぎだす。
「俺たちが戻るためには……魂と精髄を捨て去ってはじめて、元の世界に戻れる……のかもしれない」
カシウスも、誰も、返事をしなかった。
その日の夜は、いつにもまして寒く、フーチュンには感じられた。
2.
<邪派>の追撃をかわし、全員が城にたどり着いたのは日もとっくに暮れた深夜だった。
城には赤々と篝火が焚かれており、その火を目印に6人は城門に着いたのだ。
この世界の夜は人間のものではない。
<邪派>も人である以上、夜の支配者にはなりえない。
彼らが、誰一人欠けることなく城に逃げ込めたのは、夜に入って<邪派>の攻撃の手が緩んだことも大きかった。
「よくいらっしゃった」
兵士に連れられ、宿舎の一室で埃にまみれた装備を着替えた6人を出迎えたのは、60歳ほどであろうか、白髪白髯の老将だった。
だが、筋骨たくましい体からは、年齢による衰えは微塵も感じさせていない。
それでいて目元は穏やかで、深い知性を感じさせる。
シュチ、と名乗ったその老将は、丁寧に6人を座に招くと、手ずから酒瓶を取って一人ひとりに注ぐ。
その思いもしない厚遇に驚く6人に、シュチは穏やかに微笑んだ。
「頼みがあります」
そう、シュチが告げたのは、奇妙な宴が始まって2時間ほど経ったときのことだった。
その時には、6人は出された食事が極めて質素、よりあけすけに言えば粗末なものに気づいていた。
豆を煮たスープ。同じく豆を炒ったもの。麦のパン。
それだけだ。
「できることであれば」
警戒しつつそう答えるムオチョウに、軽く手を振ってシュチは笑う。
「そんな無理難題を申しませぬよ。この街にいる兵と民を連れて、<嵩山>に逃がしてほしいのです」
その言葉、そして端々に篭る力強さに、<冒険者>の目が大きく見開かれた。




