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ある毒使いの死  作者: いちぼなんてもういい。
第9章 <エリシオン>
236/245

178. <寡黙な>

1.


 手がびりびりと震える。


喉の奥が、得体の知れない感覚にかさりと音を立てる。

びくつこうとする足が、彼女の意志と無関係にぽと、と一滴の汗を落とす。


 目の前の敵はなんだ。


 何者なのか。


 恐ろしい敵、おぞましい敵、恐怖をもたらす敵。

いずれの敵に対しても、勇猛に――あるいは凶暴に、己の武をもって対してきたはずだ。


「……悪魔」


 目の前の白い<妖術師(ソーサラー)>の声がかすかに陰りを帯びた。

それはまるで、死者を悼む弔いの嘆きのようであり。


「……死ね」


凶鳥の囀りのようでもあった。



 互いに地面を蹴り飛ばし、一瞬の接敵。

右手を虚空に溶かし、瞬時に生まれた黒い鎌が青い刃と当たって軋む。

まるでざらついた虫殻を擦ったような不快な和音にユウの眉がかすかに歪むが、ローズマリーの表情は変わらない。

交差した互いの腕を掠めるように伸びあがる<妖術師>の左手。

一見して何の破壊力もなさそうな細腕に、<暗殺者>は躊躇いなくもう一本の刃を押し当てた。

直線的な(ローズマリー)の動きに合わせるように、ひび割れた刃を滑らせる。

プツ、という音とともに白い<妖術師>の手首の皮が裂かれた。

刃は、彼女自身の運動によって尺骨を削りながら進み、ローズマリーの腕を、二枚におろした魚のように変えていく。

それでも、ローズマリーの顔は痛みを全く感じていないかのように静謐だ。

その表情のまま、彼女は半ば切り開かれた腕で、防具のないユウの鳩尾に、その拳を突き刺した。



 天地が裏返った。


それほどまでの衝撃と激痛に、ユウは一瞬意識を飛ばした。

動脈を絶ったはずなのにどろりとしか流れない血が、黒いシャツをほの青く染め上げる。

深々と撃ち込まれた拳の衝撃は一瞬でユウの内臓を押さえつけ、意思とは関係なく吐瀉物を前方に吐き散らかせた。

そのまま吹き飛び、ごろごろと転がるユウを、ローズマリーは冷えた目で見下ろしている。


「ゲ、ガ、がはっ……!」


異臭を放つ吐瀉物と、内臓からのどす黒い血に顔を埋めながらも痙攣するユウは、改めて自分がどこかで相手を甘く見ていたことを感じていた。


たかが26レベル。

たかが<妖術師(もやし)>。

<吸血鬼妃(エルージェベト)>なるサブ職業を見た時点で、そんな甘い見通しなど捨てるべきだったのに。


腹がひくつく。 意識とは関係なく、脳が呼吸を、酸素を求めて喘ぐ。

HPがずるずると下降していくのは、<激痛>の状態異常効果のためか。

腹を押さえることもできず、のたうつユウの頭の横で、ローズマリーが変わらぬ声で問いかけた。


「痛い?」

「がは……、ぐ……い、痛いね」

「そうなの」


続いての衝撃。 こめかみにとんと当てられた爪先は、次の瞬間にはユウの肉体を枯れ木のように吹き飛ばし、近くにあった小屋の壁を突き破って奥の暖炉にたたきつけた。


「これも痛い?」


ローズマリーの声に、もはやユウは答えることすらできない。

かろうじて動く手で、呪薬を口に運ぶ。


「化け物め……」


 ユウの声に、ローズマリーは初めて表情を変えた。

能面のような無表情から、口をわずかに歪ませる。

唇を嘲笑のように歪ませて、嘗ての初心者は冷たい声を響かせた。


「あら。私にはあなたの方がよほど化け物に見えるけど」

「……」

「答えられないのね。 私は<冒険者>として立っている。

私の使う全ての特技はエルダー・テイルのものだわ。

あなたは何?

人の身で怪物のような技を使うあなたは何?」


ローズマリーはしゃがみ込み、いきなりユウの髪を掴むと首を持ち上げた。

引き摺られたユウと目の高さを合わせ、2人の女の凍るような視線が絡み合う。


「あなたは怪物。悪魔。私を助けなかった。

あなたは幸運な悪魔ね」


顎が万力のような力で締め付けられる。

肉を垂れ下がらせたままの腕でローズマリーがユウの顎を掴んだのだ。

顎関節が軋み、剥き出しのローズマリーの骨が筋肉に押されてびくびくと動く。

いくら痛みに強い<冒険者>といえど、ローズマリーの反応は異常だ。

いや、実際の痛みがさほどのものでなくとも、自らの腕が縦に断ち割られるという状況に普通の人間は耐えきれない。

だが、そんな異様な敵を前にして。


「お前さんは何だろうな。哀れな亡者かな?」


顎を締め付けられているためか、奇妙にくぐもった声で、それでもなお、ユウは嗤う。

ローズマリーの顔から笑みが消えた。


「……死ね」


微かな余裕が失せたように呟いたローズマリーの前で、顔の下半分を砕かれる寸前のユウが舌を打ったのは、その時だった。


「……殺す時に言葉は要らん」


突如、ローズマリーがうめき声を上げて飛び退いた。


「あ、ああああああああ!!」


その眼と、顎を掴んでいたはずの手首に光るものがある。

針だ。

口に含んでいたものと手に隠していたもの、計2本の鋭い針、ではなく砕けた刃の欠片が、生気のないローズマリーに突き刺さる。


「ああああ!」


いかなる毒が塗られていたのか、ローズマリーの呻きはただ事ではない。

先ほどユウがそうだったように全身を投げ出しのたうち回って苦しむ姿は、断末魔の魚を連想させた。

そこに周囲への警戒はなく、今ならば容易にこのローズマリーを討ち取れると思えた。


だが。


「起きてこい。どうせ半分は擬態だろう」


立ち上がり、吐瀉物の残滓を唾とともに吐き捨てたユウが腕を組むと、ローズマリーの動きが不意に緩慢になった。

そして次の瞬間、再び2人は瞬時に刃を打ち合わせる。

ユウは風切丸、ローズマリーは、あの腕を溶かすようにして顕現させた鎌だ。


ぎしりと再び鋭刃が鳴った。

互いを喰らい合う刃の呻きに、先ほどと同じ未来を予測して白い怪人がほくそ笑んだ時。


「……ふっ!」



ユウは意図的に力を傾けた。

鎌の刃がするすると滑り、捻ったユウの鍔に弾かれてバランスを崩す。

ローズマリーが鎌を黒い霧に戻そうとするがもう、遅い。

力を抜いた、その勢いのまま、土下座するかのように倒れた上半身に勢いをつけられ、ユウの脚が跳ね上がる。

その脚が、互いに拮抗していた力の全てを込めてローズマリーの鳩尾に突き刺さったのは、その1秒後だった。



「……はっ」


先ほどとは仕手を変えて、今度はローズマリーが斜め45度の角度で飛んだ。

その顔はわずかに苦痛に歪み、この怪女にもまだ痛覚があることをユウへと教える。

だが、木切れのように吹き飛んだローズマリーを、ユウも黙って見ているだけではない。

相手を吹き飛ばした脚を勢い良く振り下ろす、その片足の力だけで、ユウは敵を追って地を蹴った。

<ガストステップ>ではない。

純粋に身ごなしのみで、ユウは己に課せられた慣性と重力の法則を破り、

吹き飛ぶ敵に追いついたのだ。


「遅い」


言葉を惜しむ暇すら惜しい。

虚ろな目のローズマリー、その無傷の片目にユウの右親指が重なる。


ぶちゅ。


ぬらりとした音と団子を潰したような感触が、ローズマリーの目が赤黒い空洞に成り果てたことをユウに教えていた。


抜いた指で今度はこめかみのやや下を殴る。

三半規管と内耳に最も近いその場所は、人体の隠れた急所だ。

さらにユウの左手は、いつの間にやら持っていたナイフを逆手に構え、むしろ優しいほどの丁寧さで、ローズマリーの胸の中心、胃のすぐ上を抉って、捻った。


ぐちゅ、と嫌な音を立ててローズマリーが墜ちた。

直後、敵を踏み台代わりに衝撃を殺したユウが着地する。


言うまでもなく、ユウのしたことは絶技だ。

吹き飛ぶ相手に追い付き、目を潰し耳を破壊し心臓を抉るなど、並の<冒険者>に出来得る技ではない。

それも、特技を使わずに。


だがそれを成し得たユウに歓喜はない。

動物が同族ーーそれが如何に変わり果てていてもーーを殺す時の、嫌な感触がリフレインするだけだ。


彼女は素早く走って落ちていた刀達を拾い上げると、周囲を慎重に見回した。


派手な音を立てていたのにもかかわらず、周囲に人の気配はない。

遠くからかすかな足音が聞こえているが、こちらへ一目散に駆けてくる訳でもないようだ。

不死者(アンデッド)なるがゆえに殺気の無い<敬虔な死者>も近くに息を潜めてはいないようだった。


ふっ、と息を吐いて彼女の脚が一つの方角を向く。

このまま跳び去ろうとした時、視界の端に泡のようなものが見えた。


それは、最初はモンスターや<冒険者>が死ぬ時に放つ泡に見えた。

ユウは知らないが、海を隔てた大地では『落魄』と呼ばれている現象だ。

だが、よく見るまでもなく、それは見間違いでしかないと彼女の勘が警報をがなり立てた。


落魄の泡は美しい虹色だ。

シャボン玉の如く、失われる命を表す光は儚くも美しい。

だが違う。

真っ直ぐ向けた視線の先、ローズマリーを包む泡の色は、光沢の無い黒。

つるりとなだらかな普通の泡と違い、それは無数の羽虫が群れているかのようにざらざらと蠢いている。


「……あれは」


呻いたユウの目線の先。

黒い泡はローズマリーを覆い尽くし、尚も、不定形のスライムのように広がっていく。

その姿は山羊スライムのような愛らしさなどない。

虫の卵が広がるように、黒く鈍色をしたその泡ーー粘液のごときものはすぐに人型を崩し、不定形の何かに変わった。


「あれは……」


なんだ、と言うより先にその粘液は爆発したかのように飛び散った。

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