127. <空色の毒>
これにてこの話は終わります。
いまさら言うのもアレですが、本作の大枠は水煙管氏にお借りいたしました。
詳細と、お礼はあとがきにて。
1.
落ち着け。
落ち着け。
相手はたかが、五年以上も昔のレイドボスだ。
当時はあらゆる<冒険者>を凌駕したそのレベルも、今では多くの<冒険者>の下にある。
決して勝てない相手じゃない。
<エルダー・テイル>とは違うのだ。
怖気づこうとする意識を必死につなぎとめ、エルは森から現れた<蝕地王>を睨み付けた。
ナカスで、ミナミで、アキバで多くの大規模戦闘に参加したエルにとって、
目の前の毒王は恐れるものではないはずだった。
エルは、古参の大規模戦闘経験者である。
2019年から数えて10年以上にわたり、セルデシアの戦場を駆けたエルは、
<アイガー修道院>所属の<施療神官>から始まり、<ハウリング>、<ホネスティ>、<黒剣騎士団>、<D.D.D.>と、名だたるギルドに所属してはレイドの先陣を争ってきた。
いずれのギルドでも長続きしなかったのは、ひとえに彼女――当時は彼――の性格、束縛を嫌うがゆえだ。
いつしか彼女は、特定のギルドに所属せず、その場その場で『野良パーティ』と呼ばれる、
たまたま居合わせたレイダー同士のダンジョンアタック専門のレイダーとなった。
あまりにも名高い<放蕩者達の茶会>のような綺羅星のような集団に所属したことはなかったが、腕のいい大規模戦闘経験者ということで、それなりに名も売れていたのだ。
<蝕地王の侵攻>のような、遠い異国のサーバのレイド経験こそ薄いが、
ヤマトで鍛え上げられた腕は、たとえ半分の地球の裏側でも、
彼女を勝利へと導いてくれる、そのはずだった。
だが、目の前の敵は何だ。
巨大ではない。その体は、朽ち果てた王の衣をまとっただけの不死者に過ぎない。
武器もない。ユウにへし折られた剣が収まっていた鞘は、今は寂しげに王の腰で揺れている。
ぱっと見て異常なこともない。原色の体毛に威圧的な装飾をまとった、現代のハイエンドコンテンツのレイドボスに比べれば、かつての王のその体は、みすぼらしいほどに質素だった。
それでもなお、相対するものを威圧する、その肉体の雰囲気。
『お前はこれからここで死ぬ』と神に告げられたかのような、運命的な眼光。
そこにいたのは物理的な肉体をまとっただけの『死』という概念だった。
歴戦のエルをして、戦おうという気を失わせしめる、動く死神だ。
襲いくる死に対して、生物が抗おうとするだろうか。
老衰で息が絶えかけた老人が、それでも死に挑むだろうか。
答えは否だ。
死は抗うものではなく、従容と、悔いなく向かうものなのだから。
エルは周囲を見回さなくてもわかった。
<蝕地王>と、彼が後ろに整然と並べた不死者の騎士たち。
先ほど<屍竜>に対峙したときのような高揚感は無い。
暗い森で、死を前にして、人ができるのは『せめて苦しまないように』と祈ることだけだった。
<蝕地王>が嗤う。
奇妙な歌のように響くその音には、いつしか死せる騎士たちの、森の生物たちの、木々の合唱が唱和し、三途の川の脱衣婆の笑い声のようにおぞましく響き渡った。
◇
「どうなってるんだ……」
ロバートは動かない仲間たちをちらりちらりと目だけで追った。
誰もが虚脱したように、ある者は立ち尽くし、ある者はへたり込んでいる。
これまでレイドパーティを勇壮に鼓舞してきたエルすら手をだらりと下げているのを見て、
ロバートは小さく呻いた。
(何でなのかはわからないが、俺以外は戦意を喪失したみたいだ)
それが<蝕地王>の能力なのか、それとも大規模戦闘経験者ゆえの知識によって勝てないことを悟ったのか、レイドを知らないロバートには判りようがない。
ただひとついえることは、このまま呆けていても何もできないということだけだ。
ロバートは無謀ともいえる賭けに出た。
「<オープニングギャンビット>!!」
神速の動きが新たな矢を弓に番えさせ、射放つ。
一人の騎士の、その空虚な表情の眉間を矢が貫き、カァン、と後頭部の兜にあたって音を立てた。
ぶわりと浮かび上がる、<盗剣士>特有の追加ダメージマーカーを狙って、再度射る。
二本目の矢を受け、一隊の最もはずれにいたその<屍人>はばたりと倒れ伏した。
<蝕地王>の足が止まる。
王に倣って動きを止めた屍人たちの先頭で、<蝕地王>は奇妙な石でもみたような無感動な目でロバートを見た。
『幸いなるかな、勇敢な子』
「うるさい!」
怒鳴り返すロバートは、それでも一体また一体と、騎士の骸を射抜いていく。
88レベルである<蝕地王>に矢を向けたところで無駄だ、と残った理性が彼に告げているからだ。
ならば、可能な限り敵の数を減らすこと。
奇妙なことに、<蝕地王>はいまだに部下たちに攻撃命令を出していない。
ゾンビのように――屍人なのだが――ぼうっと立っている敵兵は、ロバートにとってはいい的だ。
「アブシンベル、エル、肉屋!!
何をぼけっと突っ立っているんだ! 戦えよ!!」
必死になってがなるロバートに、くっくと<蝕地王>は笑い声を上げた。
「なにがお、おかしい!!」
『余に挑むること能うは、死に挑むるを能わざるべからざる者のみ。死なき者に死に挑めはせぬ』
「俺は挑んでいるぞ!」
『だが、余に矢を向けることなし』
カッとなったロバートが、切っ先を<蝕地王>に向けたそのとき、その腕を抑えた者がいる。
『再会すると思っておった』
「いい鍛冶屋は森にいなかったのか? 王様」
「……ユウ」
かすかに震えて、それでもなお瞳に戦意を残して、ユウがロバートの前に立っている。
その目が再び緑を満たして輝くのを見たロバートは、不意に全身に寒気を感じていた。
「あんたが怖いのはこいつらと同じだが、一度経験してるからね」
そういうユウの手がかすかに振られた。
「<ラピッド・ショット>」
ロバートの矢を凌ぐ速度で投げ打たれた五本の短剣が、五体の屍人の鎧の隙間を貫く。
それだけで、5つの泡が虹色に輝くのを、王は首をかしげて見た。
『余はそなたを殺すか、そなたに滅ぼされねばならぬか』
「なら、もう一度一騎打ちをする? 王様。
次に斬り飛ばされるのは剣と首だけじゃないと思うけど」
『おお、その眼』
ユウの挑発に直接答えず、王は濁った眼球でユウを正面から見据えた。
蝋のようなその目を、緑の視線が照り返す。
『余の玉座を得たか、不死の者よ』
「<蠢きもがく死>のことか? 食ってやったよ」
ヒョヒョウ、という奇妙な声が森を走った。
その鳴声を発したと思われる鳥が、飛ぼうとして無残に落ちる。
<蝕地王>の瘴気に当てられたのか、自らも毒々しい羽を持ったその鳥は、しゅうしゅうと骨だけになって消える。
『もはや問答は無用であろう。余が果てるかそなたが果てるか、すべては運命が決めるのみ。
……あの緑の男の弓を持つ弓使いよ』
骨ばった腕を広げ、王であった毒死者は王宮で宣言するように高らかに言った。
『そなたは余の騎士たちに相手をさせよう……余はかの娘と嵐の海を渡るのだ』
2.
先手を取ったのはユウだった。
大地を軽やかに蹴り、一瞬の後には<風切丸>がその肩口を切り下げる。
<幻想級>の一撃を受けてなお、<蝕地王>は残る片手を軽く動かした。
二人が立つ大地が、不意にごぼりと音を立てる。
「毒沼!」
ロバートが叫ぶ暇もあればこそ、ユウは不気味に泡を吹く沼の飛沫を避ける。
対照的に足首まで毒水に浸したまま、王は片手を突き出した。
不気味にぬれたその手から飛ぶのは、沼と同じ毒の水だ。
「邪毒なんて!!」
片手で顔を隠しながら、<蝕地王>の胸を蹴り飛ばして離れるユウに、斬られた腕を王は向ける。
再び放水のように放たれた毒水を、ユウは錐揉みをしながら鮮やかに避けた。
一刹那の攻防。
ユウは至近距離から放たれた毒をすべて避けきったが、一方で一撃を受けた<蝕地王>も、ダメージを受けた様子はない。
HPも、10センチほど赤く染まっただけだ。
88レベルのレイドボスが、94レベルの<幻想級>による一撃を受けてそれだけのダメージで済んでいることに、ユウは以前戦ったときは気づかなかった特徴を発見した。
◇
モンスターには<冒険者>同様のレベル表示のほかに、もうひとつ強さを示す指標がある。
従者を最低ランクとし、ノーマル、パーティと上がっていくそれは、
端的に言えば『同レベルの<冒険者>何人と互角に戦えるか』というものだ。
イベントか、<森呪遣い>や<召喚術師>が操る従者を除けば存在しないミニオンランクは別として、
ノーマルランクであれば、通常の――つまり何の強化もされていない――同レベルの<冒険者>であれば勝てるように設定されており、
パーティランクであれば、×2ならば同レベルの<冒険者>2人、×3ならば3人のパーティと戦える。
その最高峰に位置するのが『レイド』と呼ばれるランクだ。
<蝕地王>のレイドランクは『1』とローマ数字で示されていた。
それは即ち、<蝕地王>自身と同じ88レベルの<冒険者>が一部隊――24人いて初めて互角に戦えるということを意味する。
端的に言えば、<蝕地王>は88レベル<冒険者>24人分の能力を持っているのだ。
今までユウが戦ってきたボスたちと、少なく見て互角。
<サンガニカ・クァラ>で対峙した氷竜王や<古代の狂牙虎>と同じだが、
邪毒の属性を持っている分、厄介な敵であることには間違いがない。
「まあ、そうだろうとは思っていたが」
ユウはぺろりと唇を舐めると、鼻を鳴らして嘲った。
「こっちはもっとろくでもない場所で、もっとろくでもない連中と戦ってきたんだ。
1パーティに倒されたレイドランクの死人が、変な威圧だけで私を倒せると思うなよ」
『狂え、<毒使い>』
<蝕地王>の両手が光った。
不可視の寒波が、ユウが一瞬前までいた空間を薙ぐ。
「二度はやられない!」
叫びざま、ユウの姿が消えた。
巻き上げられた土を足場に、緑の残像を眼差しから置き捨てて<暗殺者>が走る。
やや離れた場所では、いまだ動けない仲間に、わらわらと寄る屍人を射抜くロバートの姿があった。
いや、全員が動かないわけではない。
エルをはじめ、何人かの<冒険者>が武器を構え、呪文を唱えてロバートに加勢している。
過去に<蝕地王>と戦い、それどころか生き延びた経験のあるエルは、
自らに悪罵を流しながらも<ホーリーライト>を撃った。
「アホ、クズ、どてちんが! 小娘の体に擬態して、心まで小娘になりやがった!」
ユウを助けるときは、後ろに<緑衣の男>がいたとはいえ実質単身で<蝕地王>の前に立ったエルだ。
<暗殺者>と王が戦っていることで全身を包む威圧感が薄れたのか、
それとも自らが怯えたことを羞じているのか、
ドワーフの浅黒い顔は憤怒に赤く染まり、たぎるような呪文が口から立て続けに漏れ出す。
そんな彼女の暴風のような勢いに、残る<冒険者>たちも徐々に動き始めていた。
<反応起動回復>がロバートとユウにかかり、あちこちで剣戟の音が響く。
徐々に大きくなる戦場音楽に、ふと毒を撒き散らすことをとめて<蝕地王>が呟いた。
『おお、戦よ戦よ、嵐のような戦よ、荒れ狂う風のごとき戦の日か。
余の封印は解かれ、<冒険者>は死に怯えておったものを』
「泰山不要欺毫末。顔子無心羨老彭。 松樹千年終是朽。槿花一日自為栄」
『……<毒使い>よ、なんだそれは』
訝しげに尋ねた西方の王に、詩のような<蝕地王>の言葉に詩で答えたユウが、 目だけで笑った。
「古い詩さ。続きを知っているか?」
『……』
「何須戀世常憂死。亦莫嫌身漫厭生。 生去死来都是幻。幻人哀楽繁何情 ……っていうのさ。
元の世界でも、この世界でも、生死も命も幻のようなものだ。
偽りの死の幻影に、いつまでも<冒険者>が屈するものか!」
『……おのれ!』
「古代の王の幻! あんたの毒、私の毒で沈めてやる!!」
叫んだユウの全身を、緑の雷光が包む。
<屍竜>を倒したとき以上に異常で幻想的な光景に、戦う敵味方が一斉に目を向けた。
両手に握られた青と緑の刃の輝きが混ざり合い、狼煙のように暗い空にたなびいた。
「青空……」
ロバートが呆然と弓を止める。
水色というには深いその色は、毒々しい緑でもなく、紺碧に近い青でもなく、
まさしく晴れ渡った青空のようだった。
周囲の敵、<蝕地王>ですらも、一歩下がった。
その中央、ユウが両足をしっかりと大地に踏みしめ、水色の眼光が王を見据える。
その異様な光景に、周囲のざわめきがぴたりと止んだ。
ユウは、厳密には<蝕地王>を見ていなかった。目の前の光景は、奇妙にユウから遠く在った。
ただ、己の、己すら知らなかったものを、ようやく知ったものを、ただ見つめていた。
口伝。
ユウはそれを、自ら毒を調合し、使いこなすことだと思っていた。
そうではない。
それはユウでなくとも、<毒使い>であれば誰しもできることに過ぎない。
もしもそんなものが口伝であるならば、各地の<冒険者>たちが作り出したものは、すべて口伝の産物になってしまうだろう。
口伝とは、まったく違うものなのだ。
エルがそうであったように、この世界のことわりを魂で理解し、応用し、発展させて新たな技を作り出す。
この世界に背を向けていた『鈴木雄一』では、あるいはこの世界のほんの一面しか理解しなかった<暗殺者>のユウでは到達しえないもの。
この世界に正面から向き合って、手の届かないものを知って、なおもその手を届かせるためのもの。
それが、口伝。
それこそが、この世界に漂流された、虚ろな魂が得た、ほんの僅かな恩寵。
ぱきり、とひび割れの音がする。
それが彼女の、ようやくに得た口伝の発動の合図だった。
「『厄よ、私を奪え』」
呪は、口をついて出た。
ふわりと、ひとつのひび割れた<毒薙>の欠片が浮き上がる。
それは光を放つと、不意に拡がった。
「あれは………<妖精の輪>」
脈動するように輝く光の輪を見上げて、ボロボロのエルが呟いた。
「偉大なる氷原の王、天を渡る竜たちの君……私の厄よ」
輪が広がる。
そこから、まるで飛び立つように純白の竜が羽ばたいた。
それは、かつてユウと戦った敵だ。
このセルデシアの天頂まで、その身を削られて飛んだ、偉大なる氷原の竜王だった。
その絶対零度の眼差しが、窮屈な森に集う生者と死者を見下ろした。
閉じられた牙の隙間から、氷の吐息が小さく漏れる。
白い巨竜を見上げるユウの心のどこかで、<毒薙>と同じ音で、ぱきりと何かが欠け落ちる音がする。
それは自分の魂、その一部だと、ユウは確かに理解した。
自らが積み上げた毒と厄、それは『鈴木雄一』だった魂を飲み込み、混ざり合って、
今では不可分のものになってしまったのだろう。
(あの、ウォクシンのように)
懐かしさすら感じさせる、華国の暴王だった<武闘家>の名を、久しぶりにユウは思い出した。
<邪派>を率いていたあの戦士が、自らのアイテムたる篭手によって、無数の魂をその身にまとい、
ついにはその魂たちに押し潰されたように。
(私もいずれ、身につけた毒と厄に、心を削りつくされるのだろう)
それは予感だ。
確信と言い換えることも、ユウは躊躇わないだろう。
同時に、彼女はこうも思う。
(だが今は、私を削ったこの毒で、勝つ)
だからこそ、悠々と翼を羽ばたかせ、自らの命令を待つかつての敵に指し示すように、
彼女は今の敵にその愛刀を向けた。
「荒ぶる嵐の海のごとく、吹き荒ぶ蒼天の吹雪の如く、私の敵を打ち倒せ!
<サモン・ディザスター>!!」
かつて自らを取り込んだ、主の命令を待っていたかの如く、氷竜王が豪哮を上げた。
◇
『おのれ!』
武器なき<蝕地王>がそれでも毒を放つ。
それは氷竜王の体のあちこちに無残な染みを作るが、竜王は止まらない。
ランクで言えば同じ大規模戦闘級。
そして<サンガニカ・クァラ>の第一の関門を守る守護者は、古の毒王よりもさらにレベルが高かった。
自らに着弾する毒を一顧だにせず、氷竜王があぎとを開く。
放たれた氷の吐息は、周囲に近衛よろしく立っていた屍人ごと、<蝕地王>を一息に飲み込んだ。
無言で見つめる<冒険者>たちの目の前で、氷河期のような光景に変異した森から、無数の羽虫が飛び上がる。
「<蝕地王>の特技!!」
怨嗟の声を響かせる虫たちを見て誰かが悲鳴を上げたが、氷竜王はひときわ大きく羽ばたくと、
その風だけでおぞましい虫たちを叩き落した。
長い首が暗い天に向かう。
身も凍る寒気をまとった風を残し、氷竜王が空に向かって飛翔する。
しかし、それは戦いを辞めたわけではなかった。
数瞬の後、再び轟音がとどろく。
白い巨体が天から駆け下りると、それは全身を霜に覆われた<蝕地王>の肉体を、その爪でもって大地に向けて叩き潰したのだ。
「すげえ……」
「<暗殺者>が、召喚だと……!?」
闘うことも忘れた<冒険者>たちが呻くが、そんな彼らに攻撃をかける屍人はいない。
主の危機に、彼らはおのれの無力さも知らぬように守ろうとする。
もちろん、それは鉤爪の下に<蝕地王>を敷いた氷竜王の敵ではない。
腕の一振り、あるいは尾の一撃、それらで死せる騎士たちは次々と泡となっては大気に溶けていく。
『怪物よ、いつまでも好き勝手にできると思うな』
大地に足を踏みしめた氷竜王の下が、不意に巨大な毒沼に覆われた。
奇妙に水色だった、氷竜王のHPバーが紫じみた緑に染まる。
氷竜王のHPは、他のレイドボスと比較しても低い。
みるみる下がっていくHPに、思わずエルは<反応起動解毒>を掛けようとした。
「それは無駄だ」
横合いから声がする。
全身から空色の光をまとわせ、視線をそらすことなく二体のレイドボスの戦いを見つめるユウから、
その声は発せられていた。
「なんだと!?」
「あれは私の厄だ。生きたモンスターじゃない。回復はできない」
「じゃあ!」
なおも何か言おうとしたエルを、再度の咆哮が遮った。
苦しむ声ではなく、猛り狂った叫びだ。
氷竜王に、自らの怒りも戦意もすべて譲ったかのような静謐な声で、<暗殺者>はなおも吼える竜王を見つめている。
「あれで終わりだ」
無感動な声とともに、竜王の再びの吐息は、文字通り一直線に、森をなぎ払った。
捻じくれた木々が一瞬で凍りつき、ぱきん、と音を立てて割れる。
逃げ遅れた動物や生き残りの<灰斑犬鬼>、そして屍人たちもまた、
結晶のような音を立てて砕け散る。
まさに数えれば数秒。
それだけで、<蝕地王の墳墓>と呼ばれたゾーンは、氷に覆われた荒野と化していた。
もはや遮るもののない、かつての<蝕地王>の処刑場たる毒沼が、その醜悪な威容を現す。
『我が褥』
<蝕地王>の声は、死人らしく無感動な中に、わずかな焦りを含んでいる。
「消し飛ばせ」
ユウの声とともに、周囲にぱりん、という音が響き。
次の瞬間、文字通り一滴残らず、その毒の底なし沼は、周囲の地面ごと、竜王の衝撃波によって消滅していた。
◇
「何かが、割れるような音が」
ロバートの声にこたえるように、いくつかのことが同時に起きた。
半ば叩き潰された<蝕地王>が、呪いの声を上げ。
武勇を誇るように咆哮した氷竜王が、氷像のように一瞬で砕け散り。
ユウの頭上に輝いていた<妖精の輪>に似た虹色の門が閉じる。
だが、変わらないものもある。
<冒険者>の誰もが知らない技を使って見せた<暗殺者>の全身、そして瞳には
なおも水色の輝きが揺らめいていた。
誰もが息を殺す中、ゆっくりとユウが歩く。
その視線は、重圧をようやく失い、大地に打ち倒された<蝕地王>を黙って見下ろした。
<蝕地王>のHPは3割もない。
とはいえ、元のランクが<冒険者>24人分だ。一撃や二撃で沈む量ではなかった。
だが、とエルやロバート、その光景を見た誰もが確信していた。
次の一撃で、このレイドは終わる、と。
『毒を用いるものも、毒を愛しはせぬ』
「……<アサシネイト>」
空色の光が、振り上げられた二振りの刀に集約されていく。
最後に残った、瞳の空色で、半身を起こした<蝕地王>を見つめたまま、
ユウは王の胴体を、二つの切っ先で貫いていた。
泡。
どこか毒々しい虹色の泡が、<蝕地王>の全身からあふれ出す。
それは瞬く間に朽ちた全身を覆い、そして最初からそうなるべく定められたかのように、
ユウが突き下ろしたままの<蛇刀・毒薙>の刀身に吸い込まれていった。
消え果る寸前、王の唇が動く。
何を言ったかは、目の前のユウ以外はわからなかった。
だが、氷竜王そのままに冷たい<暗殺者>の瞳がその瞬間、ふっと和らいだのを、周囲の<冒険者>は見た。
「そうだな。生死清濁すべては是幻。
生を望むも、死を望むも同じ。……あんたの言うとおりだ。安心して眠れ」
そういうと同時に、すべての水色の光が消え去り、ユウはばたりとその場に倒れ伏したのだった。
◇
「なあ、ユウはどうするんだ?」
<深き黒森のシャーウッド>を抜け、<封印の森>に出た<冒険者>たちと<古来種>たちは、
互いに別れの挨拶をしていた。
ロバートの問いに、エルは肩をすくめて答える。
「さあね。とりあえず起きるまで面倒は見るわよ」
後ろに放り投げられていたユウは、<蝕地王>を倒した瞬間以来、再び眠ったままだ。
いつ目覚めるのか、むしろ目覚めるかどうかも判らない宿敵をちらりと見て、
エルは苦笑して手を差し出した。
「ま、悪縁も縁のうち……だし。ほら」
「ん? なんだ?エル」
「握手だよ、それくらい分かれ」
ドワーフの怪力に握り締められ、思わずロバートが悲鳴を上げると、エルは邪気のない笑いで答える。
ロバートも苦笑すると、自らの弓ではなく<緑衣の男>のイチイの大弓を、背に背負いなおした。
「その弓、持って行っていいわけ?」
「ああ。餞別だとさ」
「おい。世話になったな、二人とも」
横から不意に声が掛けられた。
見れば、肉屋がはにかんだ笑顔で立っている。
後ろにいるグローリーハースやアブシンベルたち、レイドメンバーとともに、彼らはドーバー海峡を越え、欧州大陸を目指すのだ。
「思えば一日の大規模戦闘だったが、ずいぶん長居した気がするよ」
「<妖精王の都>の追っ手に見つからないようにね」
エルの餞別の声に「ああ」と頷くと、肉屋は心配そうにエルの後ろを見た。
「ユウは大丈夫なのか?」
「さてね。HPもMPも減っていないし、邪毒や状態異常効果もうけていない。
ほうっておけば目覚めるでしょう」
「だといいな。……エルはこれからどうする?」
「さてね。起きたらユウにでも聞いてみる」
チチチ、と声がする。
何の変哲もない小鳥のさえずりに、目を細めて3人は樹上を見た。
そこにいるリスの親子に、眩しそうな目で肉屋は言った。
「<封印の森>にも動物が戻ったか」
それまでは生きるものといえば彫像めいた木々しかなかった<封印の森>は、エルたちが黒い沼を経て帰還した時には大きく変わっていた。
静謐は破られ、今では動物や鳥の声が響き渡っている。
ゴルフ場のようにそろえられた下草の合間からは、萌える時を待っていたかのように無数の花々が咲き誇っていた。
そこはすでに<封印の森>ではなかった。
封印は、真の意味で解かれたのだ。
じゃあな、と口々にいい、<冒険者>たちは去って行く。
残されたのは、眠るユウと、エルとロバート、そして。
「じゃあ、おれたちも行くとするよ」
<緑衣の男>――いまやロビンという名を取り戻した<古来種>と、寄り添うマリアン、
そして娘とその恋人を後ろで見守るタクフェル。
この世界の3人だった。
「弓、ありがとうな」
万感の思いをこめ、そうロバートが言うと、ロビンはいたずらっぽく片目を閉じた。
「もう俺には扱えないし、いいさ。それにお前も『ロビン』なんだからな」
「そうね」
マリアンも微笑む。
後ろのタクフェルは、憑き物が落ちたようなやさしい目で、若い<冒険者>たちに口を開いた。
「娘を救ってくれて、礼を言う。……心からの」
「気にするなよ」
エルが無邪気に笑い、ロバートも照れたようにそっぽを向いた。
そんな彼らに、タクフェルはごそごそと懐をあさると、小さな瓶を取り出した。
渡されたエルが「何これ」と問いかけると、タクフェルは小さく微笑む。
「<万能の霊薬>じゃ」
「幻想級の呪薬じゃないか!」
思わず叫んだ彼女に、タクフェルははにかむように笑って言った。
「おぬしらがしてくれたことを思えば小さすぎる礼じゃ。持っていけ。
いつか役に立つじゃろう」
小さすぎる礼どころではない。
死んだ<冒険者>に使えば即座に蘇らせるのみならず、経験値の喪失を防ぎ、HPとMPを全回復させ、
さらには特技の再使用規制時間をすべてキャンセルするという、世界中の<冒険者>が垂涎するような代物なのだ。
だが、タクフェルの心遣いを無駄にするほどに、エルもロバートも無神経ではなかった。
「大事にするよ」
そういって鞄に<万能の霊薬>を詰め、エルが深々と頭を下げる。
ややあって顔を上げたエルは、旅支度の3人に問いかけた。
「これからどうする? <古来種>の城へ戻るのか?」
「旅をしてみようと思う」
「旅?」
「ああ」
ロビンは、ロバートが使っていた弓を背に負ったまま、その弦をぴん、と鳴らした。
「旅さ。俺もマリアンもタクフェルも、この島と隣の島以外あまり知らないからな。
行き先は……そうだな、お前とユウの生まれ故郷に行ってみるか」
「ヤマトへ?」
地球を半周する遠い旅だ。
心配そうなロバートを安心させるように、ロビンは微笑んだ。
「俺たちのことを歌にしてくれたあの<吟遊詩人>、ナーサリーって奴に伝えたいんだ。
お前の歌には続きがあるぞ、ってね」
「そりゃあ、いいな!」
ロバートが応じると、ロビンとマリアンは顔を見合わせて笑いあった。
「歌は悲劇では終わらなかった。悲劇をひっくり返してくれた連中がいた。
森の奥で朽ちるはずだった俺たちを、引っ張り上げた仲間がいたんだ。
あいつと、あの時の仲間たちにそれを伝えたい」
「そうね。いつか会えると思うわ、あなたたちにも、また」
「そうか」
エルとロバートも頷くと、小さく東を見た。
いつの間にか夜が明けている。
上りつつある太陽の向こうまで、生き残った<古来種>たちは向かうのだ。
「じゃあ、俺たちも」
そういって去って行く3人を、エルとロバートは手を振っていつまでも見送っていた。
「さて、あんたはどうする? ロバート」
「あんたたちに着いていってもいいか?」
それは帰還の途中、ロバートがずっと胸に暖めていた希望だった。
口伝という、見知らぬ技を使う二人のヤマトの<冒険者>。
彼はユウも心配だったが、何より彼女たちの旅路を見ていたくなったのだ。
だが、一抹の不安が残る。
彼らの旅路は、おそらくより激しい戦いに巻き込まれる旅だ。
ヤマトへ帰る気がないのは、二人の態度を見ていれば判る。
ならば、ユーラシアを越えた二人の旅は、大西洋の向こう側でしかない。
「……ウェンの大地に行くんだよな」
だから、それは質問ではなく念押しだった。
どこか諦めたように、エルも苦笑する。
「多分ね」
「足手まといかもしれないが、連れて行ってくれ」
断られる可能性も考えながら、そう言ったロバートにかけられたのは、
至極あっさりとした承諾の返事だった。
「いいよ。よろしく」
「いいのか!?」
「旅は道連れ世は情け、なんて言葉が故郷にもあってね。
じゃあ改めてよろしく、ロバート」
そういって再び差し出された手を、ロバートは握り返した。
握手をしながら、ひとつだけ彼は口に出す。
「いや、ロバートじゃない」
「え?」
「この弓をもらった。俺のことはロビンと呼んでくれ」
その名前には、去って行った<古来種>が託してくれたものが宿っている。
そう、ロバート――ロビンの視線がエルに告げていた。
だからこそ、エルも笑って答える。
「……じゃあ、もう一度。よろしく、ロビン」
その瞬間、ふわりと陽光が降り注いだ。
活力を漲らせるような、春の光だ。
エルもロビンも、暗い森を覆っていた悪夢が晴れたような、そんな気がしていた。
ただ一人。
いまだに眠る、黒髪の<暗殺者>以外は。
ようやく終わりました。
この話、ギミック、レイドの内容、レイドボス、キャラクター。
それらは同じくログ・ホライズンの二次創作を書いておられる水煙管氏よりお借りいたしました。
うまく料理できたとは思いませんが、まことにありがとうございました。
最後にちらりと名前のみお借りした水煙管氏の主人公、ナーサリー氏と、
<蝕地王>と戦ったパーティである<怪物たち>が活躍する物語は、下記のアドレスです。
『愛しの世界へと贈るバラッド』
http://book1.adouzi.eu.org/n9910cb/
長閑でありながら、真剣にセルデシアを冒険する仲間たちと<吟遊詩人>の物語。
<暗殺者>ではなく<吟遊詩人>の目から見たログ・ホライズンの物語、
どうかごひいきのほどを。




