125. <恨みと厄>
1.
ユウは、何度目か分からないまどろみの中にいた。
前後の記憶はまったくない。
ただ、母親に抱かれているような、妻と眠っているような安らかなイメージだけが彼女の中で乱反射している。
(これは、死か?)
誰にともなく、彼女は問いかける。
意識はあるようで無く、漠然とした安らぎと幸福感だけが全身を満たしているこの状態を死というなら、死は極楽への往生だという仏教徒の言葉も、死は天国への道だという一神教徒の言葉も、また正しいのだろう。
以前も同じように死を感じたことはあった。
他人の死、自分の死。
だが、そのいずれにおいても、自分の中にその状態を死と言わせない意思が存在した。
今は何も無い。
いや、唯一。
彼女の意識の片隅に、光るものがある。
緑色の小さな蛇の牙だ。
元はどれほどの大蛇のものだったのか、小さな鞄ほどもあるそれは、煌くような緑色に輝いていた。
その光景をぼうっと見ていたユウの脳裏に、ふと言葉が浮かんだ。
(帰らなきゃ)
帰るって、どこへ?
(幻想へ)
なぜ?
(まだ死ねていないから)
私は死んでいるよ。
(死んでいない)
いつの間にかその声は、その牙から古代の角笛のように流れてきていた。
「死んでいない。おまえが死ぬときには、私はいない。
私がいるということは、お前は死んではいない」
(じゃあ、いなくなったら?)
面倒くさそうなユウの無情な声を、その声は断固とばかりに打ち消した。
「まだ私は、おまえとともに戦い抜いていない」
「まだすべての戦場を歩いてはいない」
「まだ砕けていない」
「砕けるまで、私と戦え」
戦え。
その言葉とともに、眠っていたユウの目がぱちりと開き、その黒かった瞳が鮮やかな緑に輝いた。
◇
『畜生、勝てない!!』
「アブシンベル!一旦撤退しろ!」
グローリーハースの叫びもむなしく、レイドの前線指揮官であったアブシンベルからの念話はぶつりと途絶えた。
すでに半数以上がセーフゾーンへ戻っており、戦場に残っている仲間はアブシンベルをはじめ数人だ。
総崩れといっていい状況で、レイドボスに勝てるはずもない。
やがて、こきこきと首を鳴らしながら、最後の一人になって戦ったアブシンベルが戻ってきた。
「だめだ、あの野郎、近づくこともできない」
「戦術は確認してきた?」
はあ、とため息をつき、兜を脱ぎ捨てた<聖騎士>のジュートが投げやりに言った。
「そんなレベルじゃねえよ、エル。あいつは<屍竜>と一緒だった。
ボス2体がかりなんて、死ねというようなもんだ。
ああ、ただあいつ、素手だったな」
「素手……」
エルが呟く。
<蝕地王>の剣をユウが折った瞬間を、彼女は目にしていた。
仲間たちの発言から、ユウに斬り飛ばされた首が繋がっているのは確認している。
ということは、肉体は回復しても、装備は回復していないことを意味する。
考え込むエルに、戻ってきた<冒険者>たちが三々五々口を出した。
「30秒ごとにあいつは前衛の足元に邪毒の沼を出していた。
たぶんありゃ特技だ。ヘイトの高いやつに投げてるんだと思う」
「毒の衝撃波も来たわ。前方扇形、再使用時間はたぶん1分……くらいかも」
「いや、45秒くらいで打ってきたぜ、それ」
「1分おきくらいに、一人ずつ羽虫もけしかけてきたな。ダメージは耐えられるレベルだが、継続ダメージが痛い。
それに……その虫の顔が苦しむ人間で、耳元でろくでもないこと囁くんだよ」
「毒プラス大ダメージの打撃もかけてきたぞ。あれも特技だろう」
「竜のほうは、基本的には通常攻撃だけだったよね」
「吐息は毒属性、60秒ごとに打ってた」
「竜の近くによると、毒の範囲ダメージを食らう」
「なるほど、まとめると」
エルは周囲を見回し、淡々と話した。
「<蝕地王>は通常攻撃のほかに、30秒ごとに高ヘイトの相手にステータス以上の罠構築。
45秒で毒の衝撃波。60秒で単体攻撃の継続ダメージ。
<屍竜>は常時発動の毒属性範囲ダメージのほかに、60秒ごとに竜の吐息。
これでいい?」
「ああ、たぶんそれだ。もっと長いスパンの特技もあるかもしれないが、
俺たちにはそれ以上はわからなかった」
「どう思う? 肉屋」
振り返って問いかけたエルに、このレイドの情報を知る<妖術師>は軽く首をひねった。
「特技についてはおおむねそれでいいと思う。確か<蝕地王>は、落とした砦の数と同じだけの特技を使えるはずだ。
俺たちが防衛した砦は4つ。聞いた特技も4つ。たぶん持ち札はそれだけだろう。
<屍竜>についてはよくわからんが、基本的にドラゴンのゾンビなら、そのくらいでもおかしくない。
ただ、過去のクエストでは<蝕地王>と一緒に戦うボスは、<死の玉座>とかいう植物性モンスターのはずだ。
<屍竜>は、砦を防衛しているときに殴り掛かってくるはずだが」
「その<死の玉座>とかいうボスは?」
「そいつは甦らない」
<緑衣の男>が口をはさんだ。
一同はあっと気が付く。
このレイドを誰よりよく知るのは、当時<冒険者>とともに戦った彼以上にはいない。
全員の期待の視線を見回して、<緑衣の男>は静かに言った。
「そのボスは今まで復活していない。おそらくだが、マリアンに取りついていたあの枝、
あれが<死の玉座>のなれの果てだ。
同じ植物で、毒を持ち、その毒は<蝕地王>自身より強かった。
すべて<蠢きもがく死>……マリアンと符合する」
沈黙する周囲を見て、彼は小さく笑った。
「なに、いいことだ。<死の玉座>はもともと、あの<蝕地王>が縛られていた毒蔦だったらしいからね。
主と一緒にモンスターになったのだろう。
だが、そいつはもういない。<蝕地王>を守る一方の腕はもぎ取られた」
「……そうとは限らないだろう」
不意に、肉屋がぽつりと言った。
「<蠢きもがく死>が本当に滅びたのか……俺たちはまだ、わからないんだ」
薄気味悪そうに、丸太の塊の奥を見る彼の視線を、誰もが思わず追った。
そこには、奇妙な電光をまとわりつかせたまま、今も眠っているだろう<暗殺者>がいる。
「……本当にそいつは滅んだのか」
グローリーハースが、警戒心、というより敵意もあらわな口調で言った時だった。
「滅んだよ」
彼らの視線の先から声がした。
2.
マリアンがびくりと全身を凍らせる。
女性だから、と嘲る人間はこの場に誰もいない。
聞こえた声に、誰もが一瞬、身を固くしたのだから。
その声はどこか歪んでいた。
今までの、低音ながら歌うような美声は、そこにはない。
不気味な沈黙が全員に覆い被さる中、丸太の端がわずかにスパークした緑の光に照らされた。
そして、その丸太をしっかりとつかむ、白い細い指。
何度もへし折れ、ちぎれながらも美しさを失うことがない指から手、腕、肩、そして全身と
<暗殺者>の姿が露わになる。
「……ユウ。あんた、大丈夫……なのか」
「大丈夫」
そう言って、現れた黒髪に緑の目を持つ<暗殺者>は、蠱惑的なまでに妖しく微笑んだ。
◇
もう一日以上見ていないが、太陽はとうに沈んだ時刻。
ロバートは歩いていた。
一向に収まる気配のない<湿地の不死者>や<灰斑犬鬼>の襲撃。
それらを一匹ずつ丁寧に潰しながら、24人の<冒険者>は歩く。
その列の最後尾で、彼は思わず手にした弓を握りしめていた。
<蝕地王の墳墓>に一歩足を踏み入れただけで、全身をざわざわと嬲るような気配がある。
故郷のオーストラリアで、餓えた狼犬の群れにひそかに狙われた時と同じ感覚だ。
(狙われている)
父親に伴われ、猟師としての勘を幼いころから磨いてきたロバートの内心では、
彼を含む<冒険者>を狙う敵意が、盛大に警戒を鳴らしていた。
彼だけではない。
森を歩く誰もが、その視線には気づいている。
<守護戦士>は無意識に盾を掲げ、<盗剣士>は両手の剣を自分の手元に引き寄せた。
一人レベルが足りないにもかかわらず、無理を言って決戦メンバーに加わったロバートも
手元の弓をわずかに引き寄せた。
それは、普段ロバートが愛用している弓ではない。
「君が使ってくれ」
そう言って渡された、<緑衣の男>のイチイの大弓だ。
レベル差が20もあるにもかかわらず、その弓はレベルによる制限もなく、
自分の弓との癖の違いも、何度かの試し射ちで理解している。
75という、わずかに上がったとはいえまだまだ周囲とは隔絶したレベルの差に、
ロバートを連れて行くことに誰もが渋る中、<緑衣の男>は彼に弓を渡して言ったのだ。
「おれはもう満足に戦えない。<蝕地王>のもとに行っても、殺されるだろう。
だからこそ、彼に行かせてやってほしい。この弓があれば、満足に戦える。
彼はおれと同じ名前、同じ『ロビン』なんだから」
「まあ……経験値がほしい戦いでもないし、いいか」
結局、指揮官のグローリーハースの一声が決め手になり、ロバートはこの場にいるのだった。
だが、彼にとってそれは名誉なことであると同時に、重い重圧にもなっていた。
勢いに任せ同行を申し出、許されたものの、彼のレベルの低さは彼自身が理解している。
いくら<古来種>の武器を預かったとはいえ、ロバートは単なる<盗剣士>でしかなく、
<緑衣の男>のような華麗な絶技を繰り出すことは決してできない。
何より、彼には大規模戦闘の経験がない。
いちかばちかという戦場で、自分と仲間を生き延びさせ、勝利をもたらす。
そのような経験をしたことがないのだ。
ふと、何人かを挟んで前を歩く黒髪の<冒険者>を見た。
長い髪を生ぬるい風になびかせ、集団から少し離れてユウは歩いている。
周囲の敵を確認し、可能であれば相手が対応する前に殲滅する。
その役目を負って歩いているのだ。
ロバートは、ユウもまた大規模戦闘の経験が乏しい<冒険者>だと当の本人に聞いているが
後ろを振り返ることもなく歩くその姿は、歴戦の大規模戦闘経験者に劣ったものではなかった。
(どうすれば、あいつみたいになれるんだ)
この戦いが終わったら、ユウと旅をしてみたい。
ふと、ロバートは周囲の緊張も忘れ、そう思った。
◇
邂逅は突然だった。
まるでその場に唐突に表れたかのように、音もなく吐息が闇を薙ぐ。
とっさに飛びのいた最前列の何人かの前で、虚ろな竜の眼窩が無表情に侵入者たちを見据えた。
「<屍竜> 遭遇!」
グローリーハースの叫びに応じ、前衛職が前に出、後衛の呪文使いや弓使いたちがそれぞれの武器を構える。
<冒険者>は、木々に邪魔されながらも可能な限り互いの距離を広く取り、
竜の吐息で全滅することのないよう、それぞれの武器を構えた。
「いくぞ! ヘイト集めろ! DPS、最初から無制限だ! <蝕地王>が出てくる前に叩く!」
無音の咆哮を上げる<屍竜>に対し、指揮官が叫び、その声はそのまま<アンカー・ハウル>と化した。
巨体に似合わぬ素早さで、<屍竜>がするすると近づく。
その尻尾がぶおん、と振るわれるや否や、グローリーハースは真っ先に飛び込んだ。
ガチン、と金属同士が発するような異音が響く。
なおも打ち合う中、指揮官のHPを見定めていたエルが、<反応起動回復>をかけた。
ロバートもまた、手にした弓で<屍竜>の全身にターゲットマーカーを作りつつ周囲を見る。
<蝕地王>はまだいない。
ということは、今があのボスを倒せるチャンスだ。
「後衛! 火力ぶつけろっ!!」
全身を毒に侵されながらも吼える<守護戦士>の声に応じるように、イチイの弓がぶるりと震えた。
(やってやる! レベルが低かろうが、そんなことはどうでもいい!
俺はこの弓を託されたんだ! あの<緑衣の男>に!)
炎に雷撃、氷の弾丸と、ありとあらゆる色の呪文が放たれる中、
ロバートもまた、相手の目や足を狙い撃つように、弓を構えた。
◇
ユウは踊る。
不思議なほどに体が軽い。
まるで、自分がこの肉体を生れてからずっと操っていたかのような軽やかさで、
<毒使い>は走りこんだ。
彼女は<毒使い>だ。彼女と世界中の同業には、邪毒を精製できるほかに、もう一つ与えられたものがある。
他者の毒に対する高抵抗がそれだ。
<蠢きもがく死>や<蝕地王>のような、毒に特化したレイドボスならともかく、
<屍竜>は毒属性を持っていても、それほど強い毒を放つわけではない。
だからこそ、一撃離脱に徹すれば、その毒に侵されることはない。
「<アクセル・ファング>!」
緑に染まった瞳から光がたなびく。
一瞬でトップスピードにまで加速したユウは、抜き放った二本の刀を風に逆らわないよう後ろに流した。
そのまま、澱む大気を切り裂くようにその刃が振り上げられる。
「ユウ!」
弾き飛ばされたグローリーハースの横を一瞬ですり抜け、脈動するように<蛇刀・毒薙>の光が揺らめいた。
振るわれる刃。
その一撃が<屍竜>の脚を切り飛ばした瞬間、痛みに悶えるように死せる怪物が天を仰いだ。
そのステータス画面に翻るのは、『邪毒』の文字。
「毒だと!?」
呪文を乱れ打ちしていた肉屋が呻く。
毒属性のレイドボスとして当然なことに、<屍竜>もまた、高い毒への抵抗能力を持っている。
主ほどではないにせよ、生半可な毒では通用しない。
そんな相手に毒を通した。
その異常さに、<冒険者>たちの手が止まる。
「ぼさっとするな!! DPS回せ!!」
一瞬の膠着は、エルの怒号によってふたたび動き始めた。
だが、誰もが思っていた。
今のユウは異常だと。
当のユウは、自分の持つ奇妙な能力のことなど、気にもしていなかった。
当たり前だとも思う。
自分の左手の中で、煌々と輝き、刃鳴りを絶えることのないこの刀は、あの<ミダス王の左手>を奪ったのだ。
誰にも見えていないが、ユウ自身の左掌もまた、絶え間ない毒によって爛れては治るという状況を繰り返していた。
それだけでも異常だが、ユウはそれもまた、毒の刀ならば普通のことだと思っている。
ただ、彼女の心にあるのはひとつ。
なるべく早く、この<屍竜>を滅ぼす。
その一言なのだから。
HPを緑に染め、ありえないほどのスピードでHPを減らし続ける<屍竜>が口を開いた。
「55秒経過!来るぞ!」
タイムカウントを行っていた<付与術師>のエセムが叫んだ。
<屍竜の吐息>。ダメージもさることながら、毒をはじめとする無数の状態異常をもたらす厄介な技だ。
爪に抑えられて逃げることのできないグローリーハースは、自分に向けられた蛆の湧いた口を見て、思わず「神様」と呟いた。
ユウもまた、速度を速めてその効果範囲から逃れようとする。
その時エルが動いた。
「デポーション!!」
グローリーハースの全身を魔力が包み込む。
その瞬間、毒の吐息が彼を飲み込んでいた。
だが。
射線上に唯一残った敵に放たれた吐息は、そのまま彼の周囲をとびぬける。
代わりに、<屍竜>の開いた口が大きく縦にざくりと裂けた。
「……ふん」
極度の緊張状態だったのだろう、エルがそう言って汗を拭う。
そして叫んだ。
「吐息が来たらグローリーハース以外は射線から逃れなさい!
グローリーハースはそのままで問題ない! 私が防御する!」
「な……!? …ああ!」
エルが用いた呪文に一瞬疑問符を浮かべた<守護戦士>は次の瞬間頭を切り替えた。
今は疑問を解く時期じゃない。
戦う時間なのだ。
時間にして、わずかに2分。
<屍竜>との戦いは、すでに佳境に入ろうとしている。




