118. <探索の夜>
1.
<深き黒森のシャーウッド>。
このエリアはその名前に反し、それほど広いエリアではない。
いや、広いことは広く、例えばアキバや<妖精王の都>が丸ごと入るほどには広いのだが
動線が少ないのだ。
広大な森は、大きく8つのゾーンに分かれている。
まず、入り口の黒き泉を中心とするエリアだ。
<緑衣の男>やタクフェルが住む<小さな安息地>も、ここに付随するサブエリアになる。
そこがいわば、巨大な六角形を成す森からほんの少し飛び出た部分になる。
残る7つのエリアのうち6つが、六角形――より正確には六芒星を成し、
中央、最深部である<蝕地王の墳墓>を取り囲んでいた。
それは、<蝕地王>の奥津城を守る出丸であると同時に、王の出馬を拒む封印でもあるのだった。
ユウはいくつかの砦を回り、すべてが<灰斑犬鬼>によって陥落しているのを見ると、残る砦の捜索をあっさりと諦めた。
クエストのスケジュールどおりに状況が推移しているとすれば、
なまじ時間を掛けることは<蝕地王>を利するだけだ。
ましてや今のユウに仲間はいない。
砦を防衛するのではなく、砦がすべて落ちる前に<蝕地王>を倒す。
もし、<緑衣の男>がいまだレイドボス二体と追いかけっこをしているのであれば、
現在<蝕地王>を守る中ボスはいない。
助けに来たはずの<緑衣の男>すら囮として半ば見捨て、
ユウはすばやく、だが見つからないように走り出した。
◇
森の奥に入るごとに、敵の密度は深く、密集してきていた。
もはや<灰斑犬鬼>だけではない。
見慣れた<湿地の不死者>やゾンビといったアンデッドモンスターもそこかしこにいる。
そのすべてが、暗がりの中でもそれと分かる、毒々しい紫の顔色をしていた。
毒性を与えられているのだ。
今も、ふらふらと彷徨う騎士鎧姿のゾンビをやり過ごし、ユウは小さく舌打ちした。
「……ああなってまで王のために働くのが忠義なのかねえ」
日本の武士なら怒り狂うようなことを言い捨てた、百姓の子孫の横を、
何も気づかずゾンビが歩き去る。
垂れ下がった眼球が、不気味なメトロノームのように規則正しく揺れながら消えていった。
ちなみに、ユウの認識にはひとつ間違いがある。
ゾンビたちは生前、王の臣下ではなかった。 逆だ。
王を森に追い詰め、止めを刺した反乱軍の騎士なのだ。
そんな彼らが死して、宿敵のはずの王に仕えているのは皮肉というほかないが、
生憎と、ユウはそうした事情を知らず、また知っていても特に気にしなかっただろう。
森の風が変わった。
澱んだような凪が終わり、生臭い風が森の奥へと吹きぬける。
ちらりと見れば、ステータス画面のゾーン表示が変わっていた。
<蝕地王の墳墓>に入ったのだ。
◇
玉座に座ったまま、王は満足していた。
生あるものを、たとえ<灰斑犬鬼>であっても拒む自らの墳墓に入り込んだ生者に気づいたのだ。
墳墓といっても、あるのは森と、その中央の底なし沼のみ。
そこがかつて王が沈められた場所であり、それは長年のうちに彼の玄室となっていた。
足の指先を漬けるだけで、たちまち強毒に侵される死の沼だ。
王は笑う。
それは、目前に迫った戦いゆえか、待ち受ける自由ゆえか。
◇
「……雑魚が消えた」
ユウは周囲を注意深く見渡すと、立ち上がった。
泥で擦り切れたような<上忍の忍び装束>から、音を立てずに泥を払う。
相手はレイドランク2の中ボスを従えるクエストボスだ。
しかも毒をもつとあれば、ユウにこれまで多くの勝利をもたらしてきた彼女必殺の毒も
どこまで効くかはわからない。
そもそも、中ボスの<蠢きもがく死>にしてからが、毒を一切無効化していたのだ。
いまさらながらにユウは自分に小さく苦笑した。
<緑衣の男>が<古来種>と知り、ユウも知らず知らずのうちに依存心が出てきてしまっていたらしい。
これが<サンガニカ・クァラ>に挑んだころの彼女であれば、何のためらいもなく前に進んでいただろう。
あの氷原の地獄で戦った氷竜王も<古代の狂牙虎>も、森の奥で待つ<蝕地王>と
ほぼ同等の敵だったのだから。
(私はずいぶん弱くなったらしい)
その自嘲に、しかし暗さはない。
自分がなぜ弱くなったか、それをしっかりと理解しているからだ。
自分の中の『ユウ』。
無慈悲な殺戮者、狂える復讐者、冷徹と熱情を兼ね備え、どんな戦いにも自然体で挑む対人家。
それは鈴木雄一が望み、そうあれかしと願い、そうあった戦士の姿だ。
だが、彼女はもういない。
鈴木雄一という人格の中の一部分として、今のユウの中に『ユウ』はいる。
今のユウは無敵でも冷静でもない。
驚くし、怯えるし、人に頼ろうとする。
だが、それでいいのだ、と思う。
ユウが見捨てたアキバの多くの<冒険者>は、そうやって強さを手に入れたのだから。
だが。
暗がりの中から自分を爛々と見つめる、胡桃のようなまなざしを見た瞬間、
ユウはぞっとして思わず立ち止まった。
『GAGAGAGAGAGA』
<蝕地王>の鈍い笑みが、夜の森に小さく響いた。
2.
そのときユウを突き動かしたのは、恐怖ではなかった。
戦意でもない。
形容しがたい感覚、それはまるで『死』を擬人化したようだった。
現実への帰還を甘い夢と諦め、ユウが望んだ『死』。
それを擬人化したような存在が、森の木々のあいまに見える玉座から自分を凝視している。
それは、斬られるとか、魔法で焼かれるとか、そうした具体的な想念を持ってユウを射抜いたわけではない。
ただ、『死ぬ』。
<蠢きもがく死>が、捨身の愛を汚された上の『死』の末尾であるとするならば
『死』そのものを象徴化したような存在が、<蝕地王>だった。
仮に、この世界がゲームでなく、実際の歴史の果てにあるのだとすれば。
その中で<蝕地王>――その名で呼ばれることになった人間の王――を苛んだ地獄はいかばかりのものか、
そう、意味のない考えが浮かびそうになるほどだ。
だが、ユウはかつての強さをなくしたとはいえユウだった。
対人家だった。
戦うべき相手を前にして、尻尾を巻いて逃げるのが仕事ではなかった。
だから。
「<蝕地王>……だな」
「……」
「…ユウだ。…仮初のお命、今一度頂戴つかまつる!」
刀が抜き放たれる。
その勢いのまま、疾風さながらの速度で彼女は走った。
相手は玉座にいる。後ろに回っての奇襲はもはや使えない。
ならば、正面を切って戦うのみ。
ダン、と踏み込んだユウの、鹿のような両足が大地を思い切り蹴飛ばす。
短剣を牽制代わりに投げながら、二つの刃がギロチンのように王の首を挟みこむ。
手加減をする気はなかった。
二つの刃には、今のユウが知る限り最も強力な『痙攣』『即死』の毒が塗られている。
それらが毒性を持つモンスターにも効くことは、これまでのユーラシア半島を舞台にした戦いで彼女は学んでいた。
「もらったぁ!」
刃がざくりと首に食い込み、王が凍った眉を僅かに歪めた。




