◇旅は道連れ世は情け Ⅲ
「あー、びっくりした…。シン、どうしたの?」
森全体を覆っていた息を吸うのも憚られるほどの圧が消え、フィリップはへなへなとその場にへたり込んだ。隣を見ると、シンが未だに狐に摘まれたような表情で狼達の去って行った岩壁の向こう側を見上げているので怪訝に思い、尋ねる。
「女だ」
やはりと言うべきか。シンは何処までもシンだった。
「あの距離からよく分かるね…」
呆れながら言うフィリップに、そうか?と不思議そうに返して、向こうを向いたまま妙に清々しい顔で一つ頷く。
「奴は女だ。俺の目に狂いはねぇ。バスト83、ウエスト58、ヒップ83ってところか」
「何ていうか、もう…」
「救いようがないって顔しやがって。まっ、既に悟りの境地開いちまった朴念仁には、この良さは分かんねーよな」
やれやれと肩を竦め、リリスに「お前はどうよ?」と同意を求める。
「あの狼…」
「ん?」
リリスもまた先程のシンと同じように目を輝かせながら狼達が去って行った岩壁の向こう側を見ていた。
「一体、何十人分あるのでしょうか…。筋肉が程よく引き締まっていて脂身も少なそうです。きっと美味しいですよ」
「花より団子だな、こいつは。少しは反省しろ」
へくしっと、くしゃみをしながらシンは棒立ちになっているゴーレム達を退かし、置かれた荷物を漁る。自分の荷物から今着ているのと同じシャツを取り出すとリリスの方を振り返った。
「…見るなよ?」
「い、言われなくとも見ませんから!シンとは違います!」
「シン、見たの?」
フィリップの問いに、シンは真面目な顔で頷く。
「不覚にも」
「私の体を何だと思ってるんですかー!!」
****
その場で一夜を明かし、翌朝。小鳥の囀りで目が覚め、リリスはのそのそと寝袋から這い出た。
「おはようございます…」
「あ、おはよう。リリス」
「遅いっつーの。荷物まとめてさっさとサバランだかタンバリンだかに行くぞ」
「タバランね。…二人とも、紅茶と珈琲どっちがいい?因みにどちらも顆粒だよ」
苦笑しながらフィリップはポットに川の水を汲んで魔法で沸騰させると、開きっぱなしのトランクケースからマグカップを三つ取り出す。どうやら食器用のトランクケースなのだろう。それぞれの食器の形に窪みや止め具が付いている。
「え?もう行ってしまうのですか?…私は紅茶で」
「お前はたかが森に何泊する気だよ。俺、コーヒー」
言い合う二人を微笑ましく思いがら、フィリップは紅茶と珈琲の顆粒をそれぞれのマグカップに入れ、お湯を注ぐ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。…昨夜の謎の人、シンは気にならないのですか?」
「んなこと言っても、こっちにはそんな時間ねぇんだよ。ん、サンキュ」
「い、いざとなったら、シンをおいて私とフィリップで魔具を使って帝国に行きます」
普段ならリリスの提案など完膚なきまで言い込めるが、女性絡みだとそうもいかないようで、シンは無言でコーヒーを啜るとすまし顔で賛同した。
「…まぁ、確かに後から合流すれば問題ないっちゃないな」
「何だかんだ言って、シンもその男装の麗人をもう一目見たいだけでしょ」
「そう言うお前は見たくないのかよ?」
シンの問いにフィリップはうっと言葉を詰まらせ、二人から目線を逸らす。
「そりゃあ……見たいけど…」
「それなら…!」
「決まり、だな」
来た道を戻り、迂回して狼達が待ち構えていた岩場までたどり着く。昨夜現れた森の主の足跡は発見できなかったが、シンが戦った中型狼の足跡は草が踏み倒された形跡がかろうじて残っていたので追跡を開始する。
三時間ほど足跡を辿って森の中を散策していると、一本の大樹の前に到着した。
ツリーハウスと呼ぶにはあまりにも形が歪で、どちらかと言えば鳥かごに近い。大樹の全ての枝が何かを避ける、あるいは守るようにしてつの字に曲がり、天井の部分は葉が覆い隠しているため雨風も凌げる構造になっているようだ。
「サボテンみたいだな。丸いやつ」
「魔力を感じるけど、魔法で形作ったわけではないみたい。あくまで木の成長のままに自然にそうさせたとしか思えないなぁ。どうやったんだろう?」
フィリップは指で眼鏡を押し上げながら大樹を凝視する。
「ふ〜ん。魔法だと木に何か不都合でもあんのかよ?」
「木に限った話しじゃないけど、魔法は要するに魔力の流れを故意に捩曲げてしまう術でもあるわけで、例えるなら手術で血管…静脈を無理矢理に動脈にしているようなものかな。やっぱり、体にはよくないでしょ?」
「よくないどころの話じゃないだろ…。あー、だから身体能力とかの強化魔法は禁術なのか」
例えを想像したのか、青ざめながらシンは納得したように天を仰ぐ。
「しかし、どうやって入るのでしょう?」
「その木は御神木。住家じゃないよ」
空が声が振ってきたと思いきや、一瞬空が翳る。突風が吹いて髪を悪戯に弄び、声の主は音もなく地に降り立った。
顔を覆う赤いフードを取り払い、首をゆるく振って肩に少しかかるくらいの金髪を払いのけると狼から飛び降りた。ローブの裾が風を孕んでふわりと舞う。腕に下げたバスケットにこんもりと山積みにされた木苺がばらばらと足元に散らばった。
「チッ、見えないか…」
「…………。」
シンの呟きを隣で耳聡く聞き付けたフィリップは無言でぶん殴る。
「ボクはフラン。こっちはガルナの森の主であり、ボクの育ての親のモロク」
「…………。」
森の主はフランの後ろで地に寝そべった。フランはモロクに寄り掛かるようにして立つ。
「同じ森育ちのはずなのに、この格差はなんなんだろうな?貧乳」
「い、言わないでください!」
自身もそう思っていたらしく、リリスはポカポカとシンを叩く。そんなリリスを歯牙にもかけず、シンは名乗る。
「俺はシン。隣の貧乳がリリスで、こっちの平凡を絵に描いたようなのが…」
「フィリップ・ローレッジです」
町民Cと言われる前にフィリップは早口で名乗ると、シンは面白くないという表情を隠しもせず舌打ちした。フィリップは素知らぬ顔でフランに尋ねる。
「フランさんは何故こんな所に?」
「ボクは流浪ならぬ流狼の民の末裔。月詠みの一族と言えば分かる人には分かるらしいけど」
シンは視線でフィリップに説明を求めた。
「旧帝国…七つに分かれる前の国の王に仕えたとされる古き一族だよ」
「預言者なのですか?」
「確か、書記官だったかな…。歴史を管理する者と文献には書いてあった気がする。よく分からないけど、だから帝国を追放されてしまったらしいよ」
「そうは言っても、その血を引いてるってだけで何も知らないけどね」
立つのに疲れたのか、モロクに寄り掛かるようにしてフランはその場にあぐらをかきながら木苺を掴み、口に放り込む。
「…シン、見すぎ」
「いーじゃねぇか、減るもんでもねぇんだし。マジ眼福だぜ」
今にも鼻歌を歌い出しそうなほど上機嫌でローブから覗くフランの引き締まった華奢な足を眺めているシンをフィリップが肘で小突いた。
「逮捕されれば良いのに…」
「残念ながら済みだ」
悪びれもなく、むしろ誇らしげに胸を張りながら言うシンに軽く目眩を覚えながらフィリップは深いため息を吐く。
「シン、少しは反省したらどうです?」
「猥せつ罪じゃねぇよ」
猜疑の視線を送りながら咎めるリリスに、シンは勘違いするなとばかりに言い返す。そういう問題じゃないと思う、と誰も聞いてはいなかったがフィリップは一人静かに突っ込んだ。
「なら、何で捕まったりしたのですか」
「あまりにも俺が魅力的過ぎて帝国が放っておいてくれなかったんだよ。なっ、町民C」
フィリップは返答するのに疲れたのか曖昧な笑みを浮かべて言葉を濁す。
「なぁ、シン。昨日の戦いぶりを見させてもらったけど、中々強いね。…良かったら、ボクと手合わせしてみない?」
フランの青玉の瞳に獰猛な光が宿る。対してシンも好戦的な笑みを浮かべた。
「イイね、気の強い女は割と好みだ。…町民C、結界頼む」
「そんなの張らなくても周りに人なんていないよ」
フランの呆れたような口調にまぁ聞けよと笑いながらシンは説得する。
「お前はゴム弾使うし、俺は剣を鞘に収めたまま切り掛かる。こいつの張る結界ってのは中々優れもんでな、ゴム弾だとしても結界内で食らえば実弾としての痛みを感じる訳だ。どうせならそっちの方が面白いだろ?」
「仮想結界ね。ショック死する危険性があるから…というか急所に当たれば確実にショック死するから、あまりオススメしないけど…」
「ふーん。昨日は出来なかったみたいだけど、大丈夫なの?」
「あははは…。が、頑張ります」
フランの挑発的な物言いに結界の構築を渋っているフィリップも頭に来たらしい。こほんと咳ばらいをして、引き攣った笑みを浮かべた。
「すげぇな…。この腹黒に喧嘩を売るとは中々肝が据わってやがる」
「そう?ただのヘタレじゃん」
御神木から百メートルばかり離れた森の中。結界が構築されるまでの間、フランとシンは軽い準備体操をしたり談笑をしながら時間を潰す。
「これでも王子様だせ?しかも、超頭いいの。神童ってやつ?」
「単に周りがダメなんじゃない?」
シンは離れたところで詠唱しているフィリップを一瞥すると笑いを噛み殺して「かもな」と同意した。
ちょうどその時、二人の周りの空間を魔力の薄い膜が波紋のように広がりながらドーム状に展開する。
「思ってたより大したことないじゃん。これ、仮に突き破ったとしたらどうなる?」
「結界が消えるだけだ。突き破れたらの話しだが。まぁ、そんなことより始めようぜ?」
剣帯から鞘に収まったままの剣を肩に担ぐと人差し指を曲げ、挑発する。フランはにやりと笑って下肢に力を入れた。
「それじゃ、――遠慮なくッ!!」
言い終わるやいなや、フランは瞬間移動の如くシンの目の前まで迫り、回し蹴りを決めようとしていた。驚嘆の言葉を発する間もなくシンは反射的に重心を後ろに傾け、地面に倒れる。
体が傾いた瞬間、フランの美脚が鼻先を掠め、近くに立っていた木をへし折った。
「お〜、おっかねぇな。男の急所に当たったら余裕で性別変わるだろ。桑原、桑原…」
シンは足先に力を込めると、何とかばく転をするようにしてフランから距離を取ると、折れた木を見て身震いする。フランもまた青ざめた顔で自身がへし折った木を見つめていた。
「うわっ、折っちゃった。モロクに怒られる…」
「あぁ、結界内だから大丈夫だ。俺ら以外の物に害はねぇよ。つぅか何だよ、あの脚力。強化魔法使ってなくてあれなのか?」
」
声を張り上げシンがフィリップに問うと、フィリップはこくりと頷き返す。
「そうみたいだね。彼女からは特に魔法の使用した形跡は見られない」
「マジかよ…。イイね、強い女。ますます好みだ」
「そりゃ光栄だ。次はそっちからどうぞ」
フランは余裕釈々の笑みを浮かべ、ローブの裾を摘んで膝丈までつまみ上げてお辞儀した。
「ねぇ、フィリップ。さっきシンが言っていたことは本当なのですか?」
「どれのこと?」
「シンの魅力罪ですよ」
聞き慣れない単語に脱力しながらフィリップは手を振って否定する。
「み、魅力罪…。いや、あれは勿論シンの冗談だから気にしないで。シンは、何もしてないよ」
「つまり、怠惰すぎたということですか?確かに、七つの大罪の一つですからね」
何故か意気揚々と答えたリリスに、フィリップは爽やかな笑みを浮かべた。
「それだとリリスは二つほど当て嵌まってるよね。怠惰と暴食」
「うぅっ…。フィリップなんて嫌いです…!」
「あはははっ。ごめん、ごめん。反応が新鮮だからついつい…。今のシンは慣れたみたいで歯牙にもかけてくれないから」
膝をかかえてうずくまるリリスを見て、我慢出来ないとばかりにフィリップは吹き出す。
「フィリップには、絶っ対友達いないですよね」
「お生憎様。シンがいるよ。勿論、他にも。リリスは?あっ、ごめん。いないよね、いるわけないよね?可哀相だから僕が友達になってあげようか?」
「むぅぅ〜!べっ、ベルゴがいますから!」
頬を膨らませてむくれるリリスに、フィリップは憐憫の眼差しを向けながら静かに言った。
「おじさんは友達に数えられないよ。…犯罪になるから」
「うっせぇぇぇ!!気が散るんだよ!色々突っ込みたくてムズムズする!」
どうでもいい会話と悪口ほど不思議と耳に届くもので、白熱した友達議論を繰り広げるフィリップとリリスをシンは一喝する。
「よそ見してる場合?余裕だね」
フランは木々を踏み台にして目にも留まらぬ速さで縦横無尽に動き回る。途中、死角から繰り出される弾丸をシンは反射的に剣で弾いて防ぎ、防戦の一方を強いられていた。
「回転式拳銃と多銃身式拳銃の二丁か…。森育ちのくせに中々良いもん持ってるじゃねぇか。つか、何で持ってんだ?」
頭上でカチッという音が響き、弾切れを知らせる。同時にフランの隕石のような強烈な踵落としが降ってきた。あまりの速さに避けることは叶わず、鞘で受け止める。
「くっ…!軽すぎてッ…反応に困るなっ」
「その剣、いや、鞘?中々頑丈だね。大体これを食らった奴は防具や武器ごと薪みたいに真っ二つに割れたけど」
軽やかに地面に着地した瞬間を狙って、叩き切ろうと片手で剣を振り上げる。
フランは動じた様子なく剣の柄を狙い、真上に蹴り飛ばした。してやったりと笑みを浮かべ、即座に銃口を向けるが、対してシンの表情は驚愕ではなく、愉悦の笑みを浮かべる。
怪訝に思った瞬間、シンは剣を持っていない方の手に握っていた砂をフランに投げつけた。
「うわっ!?」
フランが反射的に顔を背けた瞬間、シンは素早く手首を捻り上げ、拳銃を強奪する。
「俺の勝ちだ」
そのままフランのこめかみに銃口を宛がう。親指が撃鉄を下ろし、カシャンと弾が装填される音が鳴った。
「…あーあ、油断した」
「どうする?記念に一発ぶち込むか?」
「遠慮しておく。…悔しいな、かなり手加減されてやんの」
シンから返された拳銃を一回転させホルダーに収め、頭の後ろで手を組みながら口惜しそうにフランは呟く。
「お疲れ様」
「人間なのに凄い脚力をお持ちですね」
「生れつきああなんだ。皆こんなものかと思ってたけど、此処に来る人間共は皆奇異の目で見るから不思議で仕方なかったけど。…なぁ、シン。此処にはいつまでいるつもり?」
「悪いが、もう行く。急いで向かわなくちゃならない所があるんだ。楽しかったぜ、また立ち寄るな」
「そっか…。また立ち寄ってくれるのは嬉しいけど、人間の奴ら、この森を開拓するつもりでいるから」
「お前とて、人間だ。仕方ない、此処は彼等の土地になったのだから」
地に寝そべっていたモロクが起き上がり、フランを諭す。
(狼が喋りやがった…)
(流石、森の主だけのことはあるね)
シンとフィリップが内心度肝を抜かれていると、モロクは三人に黙って頭を下げた。
「…分かってるッ。でも、じゃあボク達は何処へ行けばいいのさ!?」
モロクの言葉に頬杖をつきながら忌ま忌ましげにフランは吐き捨てる。
「主の右目はよ、人間に潰されたのか?」
「あぁ、白い女のと黒い男の二人組に。まぁ、ボクが早とちりしたのが悪いんだけど。だって女の方は斧担いでるからさ」
「何つっーか、人間でも割と怪力多いよな」
ぶつぶつと独り言を呟くシンのシャツの裾をリリスはくいくいと引っ張る。
「あ?何だよ」
「ねぇ、シン。今、思い出したのですが、シンは砦でガーナ王国の国王の玉座に座っていましたよね?」
リリスの問いにシンはしばらく考え込んでいたが、やがて思い当たったようでニヤリと意地悪く笑った。
「…あぁ、アレな。気に入ったから譲り受けた」
「つまりは、国王様と仲良しってことですか?」
「さぁな。まぁ、それなりの仲だろ」
得意げに言うシンにフィリップは小さく首を横に振る。
「では、ガーナ王国の国王様にお願いしてこの森を開拓しないようにお願いしに行きましょうよ」
「はぁ?んな面倒なこと誰がするか。時間ねーっつってんだろ」
「だって、皆さん困ってるんですよ?今はガーナ王国の土地ですけど、元から住んでいた皆さんが可哀相じゃないですか」
苛立ったように乱暴に頭を掻きながらシンはため息を吐いた。
「あのな、この世にはままならないことなんてザラにある。仕方ねぇんだよ」
「そうやってすぐ諦めるから何一つ変わらないんです!」
その言葉にシンの態度が一変した。言い寄るリリスを睨みつけ、短く舌打ちして凄みながら語気を荒げて言い放つ。
「何一つやってねぇお前が言うな!だったらお前、諦めなかったら巨乳になれるって言うのか!?いいか、んなの天地がひっくり返っても不可能だ!」
「ち、乳を持ち出すなんて卑怯です!」
威圧的なシンの態度に涙ぐみながらリリスは抗議の声を上げるが、及び腰のため反論としては効果がなかった。
「ハッ。つまりそういうことなんだよ。分かったか、ボケ」
「シンの…、ばか…」
リリスは頬から涙をぽろぽろと零しながら小さな声で呟く。見兼ねたフィリップが本の背表紙で軽くシンの頭を叩いた。
「シン。あんまり虐めないの」
「お前にだけは言われたくねー」
背を向ける。フィリップはただ困ったように笑って静かに頭を下げた。
「僕からも頼むよ。シンだってフランのおみ足たくさん拝んだでしょ?」
(どういう納得の仕方されようとしてんだ、俺…)
しばらく呆然としていたが、やがて深いため息を吐いて剣を肩に担ぐ。
「ったく、世間知らずはこれだから困る…」
「ありがとう、シン」
シンは何も言わず、来た道を早足で戻って行く。その背を見つめながらフィリップは小さく呟いた。
「ごめんね」




