◇魔王降臨 Ⅲ
「む、迎えが来たって、一体誰が……」
魔族であるリリスの方が五感も身体能力もサシャより優れているにも関わらず、いくら神経を研ぎ澄ませてもその気配を感じることが出来ない。後ろを振り向こうとするリリスを止め、サシャは口に人差し指を当てた。
「魔族。リリスちゃん目当てじゃない? 魔王の娘が人間の、それも帝国の王子と勇者と一緒なんて気が気でないでしょ」
「でもそれなら姿を見せてくれると思うのですが。……何故、相手が魔族と?」
サシャに合わせてリリスも出来る限りぼそぼそと小声で言うと、サシャは小さく頷いて、目だけを動かし辺りを見回した。
「今はまだ様子見かな。相手が人間だし、その気にな ればいつでも君を連れ戻せると思っているのかもね。何で分かったかっていうと返答に窮するんだけど、強いていうなら勘、かなぁ?」
「そんな……。もしそれが本当なら、スィロン家の別荘に行っている場合じゃないですか! 万が一のことがあれば、アークティの住民の皆さんまで巻き添えを……」
「ハハハッ、嫌だなぁ、リリスちゃん。仮にも帝王の姓を名乗るオレ等がそんな蛮行を許すとでも?」
サシャの瞳に残忍な光が灯るのを見たリリスが思わず息を呑むと、サシャは驚いたように目を瞬かせ、頭を掻きながら笑った。
「……というのはモチロン冗談だけど」
「サシャさんはともかく、フィリップなら許しちゃうと思います」
リリスがため息を吐きながら言う と、サシャはぷっと吹き出し、腹を抱えて「はははっ、そうかもね。でも、別にオレは王座を継ぐつもりはないし、そんなプライドもないってば」と困ったように笑い、目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら否定する。
「いざとなったらリリスちゃんを人質にすればいいし、最悪、シンがいるから魔族を街の外に追い出してもらうことも出来る。どちらもあまりオオスメはしないけど」
「あまり、ではなく、絶対止めて下さい」
「それは向こうに言ってほしいなぁ。オレだってそんなことしたくないもの。あ、着いたみたいだよ」
フィリップもサシャも人の良さそうな笑みを浮かべているが、腹の中はどす黒く、やはり人は見かけに拠らないのだと改めて実感する。
半ば強引に話しを逸らされ、リリスはもう一度深い溜め息を吐いて目の前に聳え立つ鉄の門を見上げた。門越しに見えるスィロン家の別荘は近くで見ると大きさといい外観といい、本当に城のような外見をしている。別荘の敷地は思いの外広く、庭一面に芝生が生え、歩道は白い石のタイルが敷き詰められていた。庭の中央には噴水が設けてあるようだが、やはり噴水から水は出ていなかった。しかし、門構えといい、別荘の大きさといい、スィロン家は相当なお金持ちで、尚且つこのご時世に街中といえど個人の敷地を持つことが許される絶大な権力があるらしい。よく考えてみれば、帝国の王子の許嫁に選ばれるくらいなのだから、それに見合うだけの家柄と権力を有していて当然だと感嘆のため息を吐いた。
「さて、どうする? 飛び越える?」
「んなことしなくても、今回はフツーに入れてもらえるっつーの。それに、防犯対策に何か魔法が施してあるみたいだぜ?」
フランの問いにシンは足元を見ながら楽しそうに爪先で地面を叩く。それを合図に足元に巨大な魔法陣が展開した。
「……シン」
「俺のせいじゃねぇよ。門の前に立ったら発動する仕組みになってるみたいだぜ。自動魔法ってやつ?展開はしたが完全に発動しちゃいないな。町民C」
「ぼ、僕!? シンが行ってよ」
「うっせぇ、嫌味か?魔力がある奴じゃないと意味ないだろ。つべこべ言わずさっさと行け」
浮び上がった魔法陣をしげしげと眺めながらシンはフィリップに陣の中央に立つよう促した。フィリップはぶんぶんと首を横に振って否定したが、シンが蹴りの体勢に入ったのを見て渋々陣の中央に行く。
「……どなた様ですか?」
「うわぁっ! と、突然押し掛けてすいません。ご無沙汰しております。フィ、フィリップ・ローレッジです」
陣を通して聞こえてきたのは落ち着きのある老人の声で、それが更にフィリップの緊張に拍車をかけたらしい。尻もちをつき、慌てて立ち上がりながらぺこぺこと何度も門に頭を下げ、上擦った声で名乗れば向こうが微かに息を呑む音が聞こえた。やがて、少々お待ち下さいという声を最後に魔法陣は光を失い、門が開く。
「はー、魔法って便利だね。無理に入ったらどうなったんだろ」
「止めておいた方がいいよ。あの魔法陣の式はかなり複雑だったし、追尾性のある攻撃魔法の式も組み込 まれていたから振り切るにしてもかなり厄介だと思う」
「まほーじんが複雑だとダメなの?」
「そもそも、魔法は魔力で魔法文字を用いて式――魔法陣を描くことによって発動するよね。魔法の初歩、所謂基礎魔法の魔法陣は円を描いて発動したい属性の魔法文字を円の内側に書くだけだけど、上級とかの高度な魔法は式がかなり複雑なんだ。複雑になればそれだけ殺傷力とか或いは防御に特化した魔法になる。だから、それを食らう側としては堪ったものじゃないよ。それに比べて基礎魔法は初歩的なものだから殺傷力もないし、簡単なんだ」
ルーナの問いにフィリップは実際に水の基礎魔法の魔法陣を描いてみせる。描かれた魔法陣が淡い蒼色に輝き、陣の中央からいくつもの水の玉が溢れ出した。ルーナが目を輝かせながら空中をふわふわと漂うそれを指で突くと乾いた音と共に辺り一面水浸しになる。
「おぉ……!」
「これは水の基礎魔法水玉。風の基礎魔法だったらさっきみたいに風を起こしたり出来るし、火の基礎魔法だったら発火させたり…。本当に魔法は奥が深いよね」
「ルゥもまほー文字を書けるようになったら、まほー使えるようになる?」
「うーん……。フランやルーナは魔力を特殊能力として作用させてるからちょっと難しいかも。でも、基礎魔法くらいなら出来るんじゃないかな。とにかく、まずは魔法文字を覚えることから始めないとね」
「ん!」
その様子をリリス達は微笑ましく見守っていたが、シンだけは水玉が弾けて濡れた地面を凝視していた。そうしてしばらく地面を観察した後は土を指で摘まんで感触を確かめ、あろうことかその土を少量口に含み始める。
「シン、お腹が空いたのですか?」
「バーカ、お前と一緒にすんな。まぁいい。貧乳、ちょっと何でもいいから水魔法使ってみてくれ」
「私、水の魔法はあまり使ったことがないのですが……」
「基礎くらいなら大丈夫だろ。俺は魔力ねぇし、フランは魔法文字書けねぇし、サシャは魔法文字は書けるが風魔法しか使えねぇんだ。しょうがないだろ」
リリスは頷くと、たどたどしく魔力で空間に円を描き、水の魔法文字を書いて魔法陣を完成させた。陣は淡い蒼の光を発するが、しかし、魔法が発動する寸前、硝子が割れるような高い音をたてて砕け散り、光の 粒子となって風に流される。
「ご、ごめんなさい……」
「いや、ちゃんと陣は描けていた。発動段階までいったんだから式もあってる。やっぱ、発動となると途端に邪魔が入ったって感じだな」
「でも、僕は発動出来たよ?」
不思議そうに首を傾げるフィリップをよそにシンは腕を組んで何やら考え込んでいる。
「まぁまぁ。話し合いは此処じゃなくても出来るでしょ。屋敷の人も待ってることだし、いつまでも此処で立ち往生している場合じゃないよ」
シンの肩を叩き、サシャは別荘の玄関を指差す。別荘の扉の前には執事らしき黒のスーツを着た初老の紳士が既に立っていて、柔和な笑みを浮かべて出迎えていた。
「これはこれは……。フィリップ王子にサシャ王子。私は執事長を任されております、ロヴェンと申します」
ロヴェンは嵌めていた白い手袋を外しフィリップとサシャに手を差し伸べる。フィリップは一瞬戸惑いの色を浮かべたが、サシャが握手を交わしたのを見てすぐに手を差し出した。
「おや、血が出ていますよ。転びでもしましたか?」
「あ、本当だ。さっき尻もちついた時に石か何かで切ったのかな」
ロヴェンはスーツの胸ポケットからハンカチを取り出すと出血しているフィリップの中指をきつく縛る。
「簡単に止血しておきました。医務室に救急箱があるので、後で改めて手当てさせていただきます。お連れの皆様方もどうぞ、お上がり下さい。街があの有様では、さぞ驚いたことでしょう。それに、またお嬢様がご迷惑をかけたようで、深くお詫び申し上げます」
フランからミレアを受け取ると、ロヴェンは難なく片手で扉を開け、フィリップ達を中へ通した。
別荘を入ると正面の壁に張られたスィロン家の翼を羽ばたかせ飛翔する月桂冠を首に下げた梟の紋章が出迎える。天井には太陽を模したシャンデリアが燦々と輝き、金の紋章を照らしていた。
「帝国の紋章は太陽を象っているから、スィロン家はその恩恵を授かっていますっていうのを表現しているんだって」
「……の割には、照明小っちゃくね?」
「ハハハッ、それを言われてしまうとこちらとしてはぐぅの音も出ませんな。言い訳がましいですが、あまり派手に誇張するのは品がないというのが当主のお考えでして」
その声にホールに飾られていた花の手入れをしていた使用人は一旦手を止めてフィリップ達の方を振り向く。目が合うなりビクリと肩を震わせ、あたふたとし始めたが後から入ってきたロヴェンの姿を見て慌てて深々と頭を下げる。
「ちょうど良かった。ヘレン、皆様を応接室へご案内して差し上げなさい。私はお嬢様を部屋へ運びますので。後は任せましたよ」
「は、はい……。かしこまりました……」
メイドの返答にロヴェンは満足そうに頷き、失礼しますと恭しく一礼すると、ミレアを抱え玄関ホール先の階段を上って行く。
その背中を見送ってからメイドのヘレンは再びフィリップ達に一礼し、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の顔の右半分は黒く引き攣った火傷の跡に似た傷跡があった。アンはフィリップ達と目を合わせないよう斜め下を見ながらか細い声で名乗る。
「め、メイドのヘレン、です……。それでは皆様、こちらへどうぞ。ご案内致します……」
黒に近い深緑色の髪に金の瞳という大陸では珍しい容姿に、黒のエプロンドレスはよく映えていた。靴は焦茶色の革素材の編み上げロングブーツを履いている。決して小柄ではないのだが、控えめな性格がヘレンを小さく見せていた。俯きがちなのも顔の傷を見せたくないという理由からなのだろう。そそくさと踵を返して歩き始める。
ヘレンを先頭に、その後ろにシンとフィリップが並び、更にその後ろをフランとルーナが、サシャはさり気なくリリスの隣を離れて最後尾に並ぶ。
「サシャ王子だ」
「フィリップ王子も居るぞ」
玄関ホールに商人などが訪問した際に応接の場と して利用するようで、椅子やソファーなどが設けられていた。避難したアークティの住民の半数はホールに集まっていて、フィリップとサシャの姿を認めるなり、羨望の眼差しを向けながらひそひそと話し始める。
「やっぱり、帝国に近いだけあってアークティの人達には面が割れてるなぁ」
「みんな、すごい見てる」
「こういう反応を見るとさぁ、フィリップも本当に王子なんだって実感するよ」
「僕もそう思う」
「フィリップがそう思ってどうする……」
フランの茶々に素直に頷くフィリップに苦笑しながらリリスは「フィリップがそう思ってどうするのですか」と言いかけた時、不意に住人達の会話が耳に入った。
「ということは、フィリップ王子の隣にいる黒髪が……」
「間違いない。アイツがそうだ」
「まだガキじゃねぇか」
「剣に選ばれさえすれば例え子供だろうが罪人だろうが、それこそ魔力無しだろうと関係ないわよ。それで使命も果たさないで王子の機嫌とって贅沢三昧とか、女を連れ回すとか……。全く、いいご身分よねぇ?」
「噂じゃ、盗賊団の情報を敵に売ってその金で帝国に来たらしい」
「あぁ、あの有名な盗賊団『砂漠の蠍』か……。数年前に壊滅したって聞いたが、魔族に勝る人でなしだな」
いつの間にか話題は勇者であるシンに切り替わり、噂好きの年若い住民達の口からは悪意ばかりが冷笑混じりに語られていた。シンは何食わぬ顔をして飄々と彼等の脇を通り過ぎている。
悪意の対象はシンなのに、まるで自分の心臓が鷲摑みさ れているかように生きた心地がしなかった。指先の感覚が無くなり、見れば小刻みに震えている。
「リリス、どうしたの? 顔色悪いよ?」
「いえ、あの……」
いきなり黙り込んでしまったリリスを不審に思ったらしく、フィリップはリリスの隣に並ぶと心配そうに声を掛ける。
「同じ人間なのに、どうして……」
「リリス……」
リリスの手の震えに気付き、フィリップは、やがて意を決したようにそっとリリスの手を握りしめ、口を開く。重ねられた手はリリス以上に震えていた。
「――帝王との誓約により定められたことは二つ。一つは、僕を守ること。二つ目は、僕の護衛を任されている間は勇者ではなく、僕のただの友人として旅をすること。つまり、どんなことがあっても旅が終わるまでは勇者としての役割を果たしてはいけないから、彼らがどんなに困っていても勇者の力を使って助けることは出来ないんだ。初代様は七日で使命を果たしたから、だから、いまだに使命を果たそうとしないシンを非難する人は正直、少なくない」
「でも、だからって、そんなの、シンが非難されていい理由にはなりませんっ……!」
「分かってるよ。だから、本当は僕が言い返さなくちゃいけないんだ。なのに、何も出来なくて、ごめん」
「……それは、私じゃなくてシンに言うべきですよ」
目尻に浮かんだ涙をそっと拭いながら言うと、フィリップはリリスから視線を外して頷いた。
「うん。だから、言ったんだ。そしたら」
「?」
「そんな度胸がお前にあったら、護衛なんか任されねぇっての、バーカって言われた。まぁ、そうなんだけどさ。……あの時ばかりは殺意沸いたな」
ふふふと不適な笑みを漏らし、眼鏡を中指で上げるフィリップにどう返事をするべきか迷って、リリスは困ったように微笑む。
「やっと笑った。少しは元気出た?」
「はい。ありがとうございます」
良かった、と安心したように笑ってからフィリップは握った手をさり気なく離す。それをちょっと残念に思ったりして、そんな自らの思考をリリスは顔を赤らめながら首をぶんぶんと横に振って否定する。
(わ、私ったら、何を考えて……。というか、これくらいのことで赤くなってどうするんですか、もうっ!)
「リリスは僕等のこと、凄く気に掛けてくれてるんだね。本当に優しいなぁ」
「き、気に掛けるだなんて、そんな……。他意はありませんから!」
慌てるリリスをフィリップ不思議そうに見ていたが、ふっと妖艶に微笑んでリリスの耳元で囁きかける。
「でも、少しは疑うことも覚えないと。君は少し自分の立ち位置を理解した方がいい」
「フィリップ……?」
恐る恐るフィリップの方を見ようと首を傾けた時だった。
「静まりなさい」
凛とした声がホールに響き渡る。その場にいる誰もが声のする方を仰ぎ見た。玄関ホール中央にある階段の先。スィロン家の紋章を背に、蒼の瞳が冷ややかに住民達を見下ろしていた。
「どうかした?」
「い、いえ、何でもありません。多分」
再びフィリップの方を見れば、ぱちくりとまばたきを繰り返すフィリップに先程感じた違和感は微塵もなかった。




