#067「信仰の綻び・天使と転生者編」
あるところに、仕事熱心な上司と、三人の部下がいた。
上司はとても有能で、いつも的確な指示を与えてくれた。
その指示に従っていれば、必ず目標をクリアすることができた。
部下たちは一様に、上司を尊敬していた。
部下たちは仲が良かった。
同じ上司を尊敬する、仕事仲間である。
目標をクリアするたびに、喜びを分かち合った。そして、上司への尊敬の念を新たにし、次の目標に身を投じるのである。
有能な上司の下、三人の部下たちは、一丸となって仕事に取り組んだ。
そんな関係に、亀裂が入る。
上司が、若い男に入れあげて、仕事に私情を持ち込むようになってしまったのだ。
「初めは、小さな疑問でした。
もっと良い方法があるのではないか、という疑問です。
これまで、最善の方法を取っていたドミナ様らしからぬやり方、と思いました」
ドミナの史実に残る降臨は二回。
だが、天使たちの話によれば、実は、これまでドミナは幾度となく人間の前に姿を現してきたという。
ドミナは地上に現れる度に、自らが直接、あるいは天使たちを通して間接的に、人間へ知恵を与えていった。
初めは火の起こし方。
次に、道具の作り方と使い方。
狩りを教え、農耕を教え、文字を教え、鍛冶を教えていった。
四百四十年毎に現れるドミナは、その都度、いつも「新しい何か」を思いつき、人間に与えていったのだ。
そこには、一貫した目的があった。
それは、人間を育むことだ。
人間を育み、数を増やし、社会を繁栄させる。
そのために最善の、着実な方法を、ドミナは取っていた。
そんな、最善の方法を取っていたはずのドミナが、最善とは思えないやり方を選んだ。
女神ドミナが人間の男アガレスを寵愛したこと自体には、天使たちは異議を挟まなかった。
元々備わっていた感情なのか、それとも、人間の肉体を与えられることで影響を受けたのかは定かでないが、天使たちは人を愛するという感情を、なんとなくではあったが、理解することができたのだ。
理解できなかったのは、ドミナがアガレスの後ろ盾となり、戦争を始めたことだった。
ドミナ教会成立の時も、戦争は起きた。
だが、それは、ドミナを頑なに信じなかった、一部の愚かな人間に対する懲罰の意味合いがあった。
そこには、人間に信仰を与えるという巌とした目的があった。必要な犠牲だったのだ。
しかし、今回は違う。
当時、大陸は小国がひしめく群雄割拠の状態にあったが、それはあくまでドミナ教圏内の話だった。
太祖アガレスが相手をしていたのは、同じドミナ教徒であった。
ドミナ教徒同士が争う、秩序の乱れを正す必要はあったかもしれない。
だけど、その旗印に、アガレスを選ぶ必要はまったくない。アガレスの野心を満足させてやる必要は、まったくなかった。
地方領主だったアガレスを覇王の座に押し上げるため、凄惨な戦争が続き、多くの犠牲者を出すことになった。
もし、ドミナがアガレスではなく、もっと有力な国主を選んでいたら。あるいは、当時没落しかけていたが、権威だけは残っていた教会の後ろ盾となっていたら。
犠牲者はもっと少なくて済んだかもしれない。
「ええ、もちろん、それは『もしも』の話です。
ですが、我々天使たちは、その時までドミナ様に対し疑問を抱くことがなかったのです。
それが、小さな疑問でも、抱いてしまった」
ドミナが人間の男を愛したとしても、それはいい。
その、人間の男の野心も理解できなくもない。
しかし、男が望むからといって、今まで苦労して育ててきた人間――自らを信奉する神の子羊たちを、犠牲にしていいのだろうか。
そこに、ドミナの自己統制力が働かなかったのか。アガレス以外の人間を、思いやる気持ちはないのだろうか。
つまり、恋人ができたのは結構だが、そのことを、仕事にまで持ち込んだことが疑問だったのだ。
仕事とプライベートは別だ。
アガレスを愛したのならば、手元に置いて満足すべきだ。
「今なら私も理解することができます。
愛する人のためなら、全力で、全てを捧げたいですから」
ジブリアの視線が祖父へと移る。
だが、祖父はそれを無視した。
いや、意図的に無視したわけではなく、気づいていない様子だった。
うつむき加減の祖父は、口髭をいじりながら、何やら考えごとをしているように見える。
そんな祖父の様子を気にすることなく、ジブリアは続ける。
「ですが、当時は、理解できませんでした。
これまで苦労して、人間を導き、やっと正しい信仰を理解できるまで育ててきたというのに、その信徒たちをたくさん殺す結果になったのですから」
大きな戦いの連続。その結果としての、新しい国家の建国。
ドミナとアガレスの結婚、ドミナの出産、アガレスの死、そしてドミナの行方不明。
ドミナとアガレスが出会い、地上で暮らした二十年ほどの月日が過ぎる。
過程における犠牲は大きかった。
しかし、結果だけ見れば、残されたのは帝国と神の子という、新しい「秩序」と呼べるものでもあった。
「そこで終われば、私たちの疑問も、考え過ごしだったと納得できたのかもしれません」
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天使たちによれば、魂は、モヤモヤとした煙のように見えるらしい。
人が死ぬと、その身体から煙が立ち上る。皆、天を目指して昇っていくのだ。
ひと一人分で、結構な濃さの煙になるらしい。
これが、複数となると、大火事のような有様だという。
術の直撃を受けた現場では、折り重なった複数の死体から、折り重なった複数の魂が、大きな煙となって空へ昇っていくのだ。
そんな中、術の標的となった、一人分の魂だけ、消える。
普通なら気づかないだろう。
事実、天使たちは気づかなかった。
術の標的となった人間の魂が消え、ひいては人類社会の緩やかな衰退に繋がっている。
その事実を知ったきっかけは、これまた、術だった。
一発の特殊な術。
その術を目の当たりにしたことで、小さな疑問は、疑念、そして不信へと変わっていった。
そして、仲の良い仕事仲間だった天使たちは、互いに、心の距離を作ることになってしまったのだった。
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アンデルシア朝開闢の祖アガレス一世の死から半世紀。
今から、およそ三百八十年ほど前。
今日、「異端同盟戦争」という名前で伝わる大きな戦いが起きた。
異端同盟戦争は、三十年近く続いた大戦争だ。
この戦争の終結によって、帝国はドミナ教圏を事実上統一したのだから、規模だけではなく意義としても大きな戦いである。
そんな、ドミナ教圏を二分した天下分け目の大決戦だというのに、我が国側は碌な戦争準備もせずに突っ込んだという。
原因は、当時の政府の慢心だった。
慢心にも理由があった。
当時、既に覇権を確立していた帝国には、敵らしい敵がいなかったのだ。
帝国と主だったドミナ教圏諸国は互いに同盟を結んでおり、平和が保たれていた。時折起った紛争では、帝国が調停役を買っていたりもした。
極稀に、交渉が決裂したときは武力による懲罰も行ったのだが、それだって、他の国々との共同歩調を乱すことはなかった。
当時の帝国政府は、他の国々と上手くやっているという認識があったし、自らが平和を守っているという自負もあった。
世界の警察を自認し、多国籍軍と一緒になって小国をフルボッコする構図は、前世の世界にあった、どっかの国と被る。
だが、実際、それで平和が保たれていたというのだから、自負心や慢心を持ったとしても、無理からぬことだろう。
そんな平和と慢心のぬるま湯の中、大戦争の発端となった出来事が起きた。
帝国の建国以来、その下部組織と成り下がり、細々と命脈を保ってきた教会の長である教皇が死んだのだ。
これを機に、帝国政府は、教皇位を廃止し、皇帝が教会の長を兼ねる、と宣言した。
権力をなくした教皇も、権威だけは残っており、皇帝にとっては目の上のたんこぶであり続けた。
それに、建国以前からの要人であり、こと教会の運営や教義面においては無視もできなかった。
皇帝と重臣たちは、教皇が他のドミナ教圏諸国の、心の拠り所になっていることを承知していたが、それでも廃止を強行した。
帝国と諸国の関係は良好。国力の差は歴然としている。内心はどうあれ、表立った反発を受けることはないだろう。
後世の人間からすれば、なんて傲慢で無責任な予想だ、と思う。だが、当時の政治家たちにとっては、大真面目に情勢を鑑みての、ごく常識的な予想だったのである。
反発は、予想以上の大きさだった。
諸国による帝国批難の共同声明は、時をおかずに軍事同盟へと発展した。
これに対し、帝国政府は諸国の君主を破門することで応える。
この時点で、帝国側は己の慢心を後悔した。
国力に任せ、無計画に他国を併呑していったため、複雑な国境線は長大となり、その国境を全てカバーするだけの軍事力がなかったのだ。
帝国は確かに強国だったが、諸国の一斉蜂起に耐えられるだけの力はなかったのだった。
だが、後悔するには遅かった。
結果的に、防衛線の展開は、「おそらく、敵はこのラインを通ってくるだろう」というお粗末な予測に立脚したものとなってしまった。
その山掛けすらハズレてしまうと、もはや慢心を後悔するどころではなくなってくる。
気づけば、帝都が敵の大軍に包囲されていたのだ。
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「この戦い、『帝都攻防戦』の結末を、シトレイ様はご存知ですか?」
ジブリアのこの問に、答えるのは容易ではない。
結末は知っている。
我が軍の大勝利で終わったのだ。帝都攻防戦による勝利によって息を吹き返した我が国は、その後も苦しい戦いが続いたものの、最終的な戦勝へ突き進むことになる。
「結末は知っていますが、なぜそうなったかはわかりません。
学者たちが議論していることですからね」
重要この上ない戦いだから、これまで何度も、様々な本で読んだことがある。
その様々な本は、様々な説を唱えていた。
この戦いは、勝利への過程が不明であり、今なお論議を呼んでいる。
ある本は、術の集中運用による敵主力の撃破によって勝利したのだと主張する。
また別の本は、近衛軍が行った決死の奇襲によって、窮状を切り抜けたと主張する。
さらに別の本には、「皇帝陛下の神通力」によって敵を退けた、などと書いてあった。
「正解は、その『皇帝陛下の神通力』です」
そう言うと、ジブリアは懐から一冊の本を取り出した。
金で縁取られた、革のカバーがかかった本。
表紙には、黒地に白百合を配した、我が国の国旗が描かれている。
どうも、どこかで見たことがある本だ。
「『アンデルシア史概略』ですか。
確かに、『皇帝陛下の神通力』説は、その本に書いてあったと思います」
父から貰った思い出の本だから、特に内容を覚えていた。
あの本は、ロノウェに貸してあるから、ジブリアが持っているのは俺のものとは別の本であろう。
祖父の屋敷に住むジブリアが持っていたということは、祖父の持ち物だろうか。
この世界は、本の流通量が少なかったから、貴族の家にある本といえば似通ったものになる。
それに、貴族や金持ちの間では、本を持つこと、コレクションすることが一種のステータスにもなっていた。
だから、ここにある『アンデルシア史概略』は、祖父の愛読書だとは限らない。
それでも、俺と祖父の読書の趣味が似ているのではないか、と少し嬉しい気持ちになった。
そう思い祖父を見る。
だが、祖父を目が合うことはなかった。
先ほどから、祖父は何やら考えごとをしている。
思いつめたような、暗い影が、祖父の顔を覆っていた。
本の趣味について、祖父に質問しようかと思ったが、祖父の顔を見て、思わず躊躇してしまう。
結局、祖父に話しかけるタイミングを失ったまま、ジブリアとの話を再開することになった。
「しかし、『皇帝陛下の神通力』とは、初めて読んだ当時は噴飯ものでしたよ。
その神通力で、敵軍を追い払ったのですか?」
「シトレイ様のご感想は尤もです。
それでも、この、一見すると帝室賛美にしか聞こえないいい加減な内容の文章が、一番事実を正確に表しているのです」
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事実は簡単だ。
一発の、とても威力の大きな術が、敵軍を薙ぎ払ったのである。
そう、事実は簡単なのだが、問題は、その術だ。
その術は一発で、数千人の人間を一瞬にして消し去ったというのだ。
「実は、その戦いの時、私たち天使はみんな都にいたのです。
私とミヒールは、既に肉体を失っていたのですが、アスタルテはまだ人間のままでしたよね?」
「……ええ。
あの時は、大聖堂の庭で胡桃の世話をしていたわ。
だから、私はその術を直接見ていない」
「直接見ていないから、信じませんか?」
「……そうは言わないわ」
未だ肉体に縛られていたアスタルテは別として、ジブリアとミヒールは自由に都の内外を行きかうことができた。
武芸に関心があったというミヒールは、武装した兵士たちを間近で見たいと言って、兵士たちが詰める城壁の方へ出向いていたらしい。
一方、ジブリアは、皇帝の側で戦いを見守っていたという。
だが、よくよく話を聞くと、見守っていたというよりは、観戦していたというほうが正しいかもしれない。
そこには「神の子が負ける」という危機感はなく、「主が執着していた、アガレスの野望が潰えるかもしれない」という、少し醒めた感じで見ていたという。
結果的に、ジブリアは、皇帝が放った特殊な術の発動方法と、その代償を知ることができた。
「発動方法は、我々天使が使う術と似ていました」
術は、その発動方法(運用効率)において三種に分類される。
一つ目は、ドミナが最初に与えた術。
八百八十年前の、ドミナの(史実に残る)最初の降臨で伝えられた術は、今現在、俺たちが使っている術よりも、遥かに運用効率が悪い代物だった。
今よりも複雑で時間のかかる儀式を必要とし、それに伴い術者の集中力も、より高いものが求められた。その当時は、専ら攻城戦に活躍の場が限られていたという。
それでも、当時として画期的な攻撃方法であったが。
二つ目は、俺たちが使っている術だ。
ドミナの二度目の降臨時、太祖アガレスとその軍勢に授けられたものである。
簡略化された儀式と、才能に左右されるものの、訓練さえ積めば、それなりの威力の術を発動することができる。
そして、三つ目。
世間一般には広まっていない、天使たちが使う術。
儀式の簡略化は行き着くところまで進んだ。
片手に白百合の花、もう片手に誕生石と、供物となる胡桃を持ち、短く祈りの言葉を捧げるだけだ。これで術を放つことができ、失神を回避し、なおかつ連続で放つこともできる。
「もっとも、我々天使たちが使う術は、人間には使えないはずです。
ドミナ様の、特別な祝福が必要ですから」
「ええ、そうみたいですね」
実は、アスタルテが術を放つ様を思い出し、真似てみたことがある。
結果は、ジブリアが言ったとおりだ。
屋敷の裏庭で一人、木に止まるカラスに向かって「我に力を!」と叫ぶ青年。
幸い、目撃者がいなかったから、重症を負わずに済んだ。
話を元に戻すと、その皇帝が放った術は、天使たちの放ったものに随分と似ていたらしい。
「皇帝は右手に百合の花を持ち、左手にはガーネットを持ち、敵軍を見つめ祈りを捧げたのです」
「胡桃は持っていなかったのですか?」
「胡桃は……供物は持っていませんでした。
供物は、皇帝自身の命だったのだと思います」
我が身を捧げる、と短く祈りを捧げた後、皇帝は塩の柱となって死んだという。
公式記録上では、その皇帝、太祖アガレスとドミナの長男レラジェは、帝都攻城戦の最中に「病死」したことになっている。
「儀式の簡略化で言えば、皇帝の放った術は、我々天使たちの使う術と似ていました。
ですが、威力で言えば、天使たちが使うものよりも、強力だったと言えるでしょう。
皇帝は皇宮のバルコニーから術を放ったのですが、普通なら標的にできないような遠い位置から、しかも数千の人間を葬ったのです。
これは推測ですが、視界に入ったものすべてを標的にしたのではないかと思います」
「と言いますと?」
「術の被害にあった数千の人間の魂が、消えたのです」
その術は、数千人の人間を、肉体だけでなく魂ごと消し去ったのだという。
これが魂が消えるという事態に気づくきっかけになった。
特殊な術の存在もさることながら、人間の魂が消えるという事態に、天使たちは衝撃を覚えた。
何千年もの間、生きてきた(あるいは漂ってきた)自分たちは、この世の中で知らぬことなど何もない。
そう自負してきた天使たちにも、知らない事実があったのだ。
天使たちは考え、話し合い、観察を続けた。
やがて、通常の術でも、標的となった一人の人間の魂が行方不明になることに気づいたのだった。
そして、さらに時を経ていくにつれて、魂が消えることが、人類全体の停滞・衰退に繋がっていることに気づき、確信を持ったのである。
この確信に対する、天使たちの行動は、静観で共通していた。
だが、三人の心情は、互いに別方向を向いていた。
ミヒールは、ドミナのやることは絶対であり、疑念を抱くことは許されないと主張する。
ジブリアは、ドミナへの信仰を捨てた。
主への信頼がスーッと消えていき、残ったのは無関心だった、という。
そして、アスタルテは、沈黙した。
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「塩の柱となって死んだ皇帝の魂は、行方不明にならず、そのまま空へと――輪廻転生の輪へと戻っていきました。
ですから、私は、今の肉体に生を受けた後、皇帝が放った術が自分にも使えるか試したのです」
結果は、失敗だった。
その術を発動しても、肉体を失うだけで済むと踏んだジブリアは、皇帝レラジェと同じように、自らを供物に捧げる文言を唱え術を発動させようとした。
しかし、不発に終わったらしい。
俺と同じように、誰にも見られないよう用心し、家畜小屋の豚に向かって「我が命を贄に捧げる!」と叫んだのである。そして立ち尽くしたのだった。
ジブリアの場合は、用心が甘く、その様子を幾人かの人間に目撃されてしまったらしいのだが、彼女はメンタルが強かったから、重症を負わずに済んだという。
「その術も、人間が天使の術を使えないことと同じように、使える者が限られているということでしょうか」
「おそらく、そうでしょう。
皇帝レラジェを除き、後にも先にも、あの術を使った人間はいません。
神の子、ドミナ様の息子に限られた話なのか、あるいは……子孫ならば、使えるのか。
いかがですか、シトレイ様。
詳しいやり方をお教えいたしますので、一発、試してみては」
「冗談を言わないで下さい」
一発で数千人の敵を葬ることができる。文字通り、一騎当千の力だ。
だからといって、死んでしまっては元も子もない。
魔法(術)が実在するこの世界でも、人間を蘇生する術は存在しないのだ。
「しかし、まぁ……また、術、ですね」
術。
決して種類が豊富とは言えないが、それでも、いくつか存在する術は、その全てが、女神ドミナによってもたらされたものだ。
皇帝レラジェが放った術も、皇帝自身が編み出したものとは考えにくい。おそらく、それも、ドミナが与えたものだろう。
ドミナは数千の人間を、魂ごと消し去る術を与えたのだ。
「ええ、術です。
恐ろしい術です」
ジブリアの笑顔に、影が差す。
「ドミナ様は、数千の人間の道連れに自殺する方法を、ご自身の子に教えたのですよ」
「ジブリア」
これまで口数の少なかったアスタルテが、いよいよもって、ジブリアに待ったをかけた。
決定的なドミナ批判を口にしたジブリアに、我慢できなくなったようだ。
「……貴方の、ドミナ様に対しての無関心は、百万歩譲って黙認するわ。
でも、ドミナ様への批判は許されない。
自分の立場を、与えられた役目を、存在意義を、考えなさい」
「私は、事実を述べただけですよ。
それに、昔ほど熱心でなくなったのは認めますが、私はドミナ様に与えられた役割を、放棄せずにこなしてきました。
教会のシスターとなって、市井に飛び交う情報を集めました。それに、転生者の監視も」
やる気はないが、与えられた仕事はこなす。
うん、立派な社会人だ。
「それは、最低限のことをやっているだけじゃない。
私たち天使は、常にドミナ様を信じて、その御心に添うよう、最大限に努力しなくてはならない。
それが、信仰よ」
やる気のない先輩に対し、やる気充分の後輩が、異議を唱える。
そんな、生意気な後輩に対する、先輩の説教は静かでも、辛辣だった。
「おかしなことを言いますね、ラプヘル。
貴方の言う最大限の努力とは、胡桃を使ってまじない師の真似事をすることですか?
それとも、ミヒールのように、太祖の転生者を減らそうとする努力ですか?」
「……」
「ドミナ様が向けていた人間への愛は、ただ一人の男への愛に取って代わられたのです。
もはや、神への祈りは、何の意味もありません。
貴方が祈っても、ドミナ様の耳には届かないのです。
ドミナ様が耳を傾けて下さるのは、たった一人の男に対してのみです。
それでもドミナ様にすがる貴方のそれは、信仰ではありません。盲従です」
「……んっ……」
あ、まずい。
あのアスタルテが泣きそうだ。
しかし、ジブリアの言いたいことは理解できるのだが、少し言いすぎじゃないだろうか。
アスタルテがドミナへの不信と信仰心の板ばさみにあっているであろうことは、俺ですら理解できる。それはジブリアにだって、理解できることだろう。
なら、そこまで厳しい言葉を並べなくてもいいではないか。
……そろそろ止めに入ろう。
クラスメートは俺がフォローするから、愛人の方は頼みましたよ、お爺様。
と、アイコンタクトを取ろうとしたのだが、祖父と目が合うことはなかった。
祖父はずっとうつむき加減で、何やら悩んでいる様子だ。
「……お爺様?」
俺が声を掛けると、やっと祖父が気づいてくれた。
「うん、ああ……すまぬ。
ヴァレヒルのことを考えておった」
術の標的となった人間の魂が消える。それは、伯父の魂が消えたということだ。
「お爺様……」
「いや、大丈夫だ」
祖父はうつむき加減のままだ。
その「大丈夫だ」が空元気だと、誰が見てもわかる。
「今のところ、本当に魂が消え去ったという証拠はない。
天使たちが視認できなくなっただけだ。
……まだ、決まったわけではない。
それに、ドミナが太祖アガレスにのみ関心を向けるというのならば、望みはある。
我々は、その太祖の、生まれ変わりなのだからな。
魂を司るドミナに願えば、あるいは……。
そう、大丈夫。
大丈夫だ」
自らへ言い聞かせるように、祖父は「大丈夫だ」を繰り返す。
「大丈夫だ。
儂も、大丈夫。
意気消沈していても始まらぬからな。
だけど、今日は、下がらせてもらうぞ」
祖父は席を立つと、重そうな足取りで扉へと向かっていった。
「そうだ、シトレイ。
もう夕食時だが、今日は泊まっていくか?」
「あ、いいえ。
明日は学校がありますし、宿題が残っていますので」
「そうか。
では、この話は、また今度にしよう。
それと、ジブリア、今夜は、儂の部屋へ来なくていい。
儂は、少し疲れた」
俺たちが見送る中、祖父は部屋から出ていった。
「……」
普段の祖父らしからぬ様子に、得も言えぬ雰囲気が部屋を包む。
気づくと、先ほどまで口喧嘩とも言える激論を交わしていた天使二人も、熱が冷めたようだった。
「……帰るわ。
シトレイ君、馬車で家まで送って」
「うん」
ついさっき、泣きそうな顔をしていたのが嘘のように、アスタルテはいつもの無表情のまま、スタスタと部屋を出ていく。
祖父の様子が気になったが、今日のところは俺も帰ろう。
「ああ、ジブリアさん。
一つだけ聞きたいことがあります」
「何でしょうか」
「貴方は、ドミナに対し無関心だと仰っていました。
だけど、貴方の話しぶりは、ドミナへの不信で溢れていた。
本当のところ、貴方はドミナをどう思っているのですか?」
「……」
ジブリアは微笑のような、苦笑のような、小さな暗い笑顔を浮かべた。
「……無関心、ですよ。
私は、ドミナ様に対し、何とも思っていません。
私が関心を持っているのは、アーモン様に対してのみですから」
おそらく、ジブリアは本当のことを言っている。
彼女はドミナへの不信を抱いている。
一方で、祖父を愛したことから、ドミナの心情を理解することもできる。
相反する感情の折り合いが、無関心、なのだろう。
……と、これは俺の推測だ。
まともに女性と付き合った経験のない俺には、女心はわからない。
先ほどの天使たちの口論において、俺は心情的にアスタルテへ肩入れしていた。
だけど、ジブリアの気持ちを察すれば、ジブリアを責める気も起きなかった。
「そうですか。
……今日は、色々と話して下さって、ありがとうございました」
「どういたしまして」
その後、俺はアスタルテと共に、祖父の屋敷を後にした。




