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「迷惑だから逃げる」と言ったら、彼に”俺にしとけ”と抱きしめられました

作者: 絹ごし春雨

 それは偶然だった。初めての聖女としての任務。私の癒しは暴走した。確かに癒せたと思ったのに。


くらりとした眩暈。


誰かの大丈夫か? と焦った声。

ガクリ、と力が抜け、唇に柔らかい感触。

事故だった。そしてそれが呪いの始まりだったのだ。





 彼は嫌そうに口づける。


唇と唇が触れる。本来神聖な儀式なのに。こんなにも胸が痛い。


「エリス……目は閉じてくれ」


「……ごめんなさい」


また、迷惑をかけてしまった。可哀想なアルヴィン。あの日私の力を抑えられるとわかってしまったがために。こんな女にキスをさせられている。


彼の顔はいつだって冷静で、一切熱を見せない。


 私は、彼に嫌われている。

唇が触れて魔力のざわめきが治っても、胸の中はむしろ波紋が広がる。


アルヴィンはすぐに距離を取った。


「……これでしばらくは大丈夫だ。無理はするな」


優しいが硬い声。

どこか義務を感じさせられて、鉛を飲み込んだみたいだった。

私は無理矢理笑顔を作って別れた。



 アルヴィンの背が見えなくなってから、私はゆっくり息を吐いた。


また、迷惑をかけてしまった。


キスを要求するなんて、あり得ないと思う。


アルヴィンは優しいから、面倒そうにしながら付き合ってくれるが、これも私が聖女だから。聖女を必要とするみんなのために、彼は犠牲になっているのだ。



自分がおぞましい。



 境内を出て石畳を歩くと、

人々の声が風に混じって流れてきた。


「また聖女様が倒れたらしいよ」

「ほら、あの子、アルヴィン様に魔力を抑えてもらわないと駄目なんだろ?」

「アルヴィン様のお相手、断った女性がいるって話、知ってる?」

「キスの儀式なんて、誰だって嫌よ。相手があの落ちこぼれの聖女ならなおさら」


足が止まった。


ほら、また、私は迷惑をかけている。



そして、知らなかった噂のひとつが耳に刺さる。


アルヴィンの婚約が流れた、という話。


「相手のご令嬢、あんな儀式を一生続けるなんて御免だって。

そりゃそうよね。アルヴィン様だって可哀想に」



彼は聖女のための生贄だ。

その瞬間ひらめいてしまった。


私が、消えればいい。



その考えがよぎった瞬間、

胸のなかで何かが――すっと、静かに冷えていくのを感じた。


恐ろしいほどに、落ち着いていた。


きっと私がいなくなれば、

アルヴィンは本来歩くはずだった未来に戻れるのだ。


聖女の儀式に縛られず、

面倒な私に呼び戻されることもなく、

誰かのために嫌そうに口づけを落とす必要もない。


「……そのほうがいい」


呟いた声は、驚くほど乾いていた。


帰り道、夕暮れの色が街を覆う。

人々の笑い声も、教会の鐘の音も、遠く感じた。


 自室に入ると、

机の上の白紙がゆっくり視界ににじんだ。


手が自然に動く。


――『ごめんなさい。

あなたは幸せになるべき人。

優しい貴方の幸福を祈っています。

どうか、お元気で。


さようなら』



ペン先が震えながら紙の上を滑る。そして別れの文章を書き上げた。


これで、彼を自由にできる。


ーーこれで、いい。



小さく畳んだ手紙を机の上に置き、

私は外套を羽織った。


夜明け前の空は薄く白んでいて、

街はまだ眠っている。


いまなら誰にも気づかれずに出られる。


扉に手をかけ、そっと開けた瞬間だった。


冷えた空気と一緒に、

ひとりの影が立っていた。


「……どこへ行くつもりだ、エリス」


低い声がした。


心臓が跳ねた。

声だけで、彼だとわかった。


アルヴィンは灯りも持たず、暗がりに溶け込むように立っていた。

その瞳だけが、夜よりも鋭く光っている。


逃げられない、と本能が悟った。


彼は視線をゆっくり私の手元に落とし、外套の裾と、荷物の包みを確認する。


その表情は読めない。

ただ、ひどく静かだった。


「……俺以外の、どの男のところに行くつもりなんだ?」


私は声を出せなかった。


喉がきゅっと縮み、

息すらまともに吸えない。


アルヴィンは一歩、近づいた。


その足音で、

私の逃げ道をすべて封じるように。



「答えろ、エリス」


その声音は低く、冷えきっているのに――

どこか震えていた。



「……私、これ以上あなたの迷惑になりたくない」


ようやく絞り出した声は、風に消えそうに薄かった。


アルヴィンの眉が、わずかに揺れた。

けれど、彼はすぐに表情を固く戻す。


「迷惑、ね」


その言い方が、ひどく痛かった。


「私のせいで……あなたの婚約も、未来も……全部」


言い切る前に、


アルヴィンは静かに息を吸った。

感情を押し殺すように。


「――エリス。お前は、何もわかっていない」


「俺が嫌がっていると? ならば教えてやる。俺が顔を歪めるのはーー」



彼は怒りと焦燥の滲む声で告げた。


「お前に触れるのが、限界だからだ。誤解するなよ」


「ーーお前に触れると、理性を捨ててしまいたくなる。もっと、欲しくなるからだ」


低い声が、苦しげに続けた。


思わず息を呑む。


「そんな顔をするなよ」


「だって……その……あなた」


アルヴィンは目をそらさなかった。

逃がす気がない、と言わんばかりに。


「悪いか。俺はお前が好きなんだ。」


「だから、どこにも行くな」


強く腕を引かれる。

初めて触れたアルヴィンの胸は、硬くて、驚くほど暖かい。

包み込まれた瞬間、頭の奥がじん、と白く染まった。


「私、迷惑じゃない?」


「迷惑じゃない。だから、俺にしとけ」


短く、迷いのない声だった。

腕の力が強まる。


思わず、涙腺が決壊した。


「……うんっ」


ずっと誰かに必要とされたかった。一番近くで支えてくれたアルヴィンが、私の心をそっと拾い上げてくれた瞬間だった。


アルヴィンの胸に額を押しつけたまま、しばらく動けなかった。

彼の手が、ぎこちなく私の背に触れる。

その触れ方ひとつで、胸の奥がじわりと溶けていく。


「……泣くなよ、エリス。もう、泣くな」


低く落ちる声は、不器用で、優しくて。


「だって……」


「そんなに泣くなら」


顎を掴まれ、後頭部を支えられる。彼の伏せた瞳が近づき、ふっと唇に熱を感じた。


「……あ……う……」


「涙は止まったか?」


こくこくともげるほど首を縦に振る。顔は多分真っ赤だろう。


彼は私の頬を優しげにつんと突ついた。


「顔、赤い」


「……言わないで」


少しだけ笑った彼は、優しい目をしていた。


「嫌じゃなかったか?」


「……嫌じゃないよ」


むしろーー幸せだった。


絶対恥ずかしくて言えないけれど。見抜かれてるかもしれない。アルヴィンの顔が、ありえないほど優しいから。


いつもの聖女の儀式のキスとは違う。

触れた瞬間、胸の奥に静かに火が灯る。

深く求められるほどに、心が満たされていく。


アルヴィンの手がそっと私の腰に回り、

もう片方の手が頬を包んだ。


私もゆっくりと目を閉じる。


魔力のざわめきはすぐに鎮まり、

代わりに違う熱が静かに広がっていった。


やがて唇が離れたとき、

アルヴィンは額を重ねて囁いた。


「……俺の隣にいろ。

 儀式のためじゃなくて、俺のために。……俺を安心させてくれ」


胸が熱くなる。


「……うん。私も、あなたがいい」


小さく返した声は、

泣き笑いみたいに震えていた。


アルヴィンの腕がもう一度、私を抱き寄せる。


ゆっくりと夜の気配が消え、1日が始まる。けれど、昨日とは違う夜明けだ。噂にも負けない、幸せの予感が、胸を照らした。


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