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体感時間と実際の時間でずれがあるのだろうか。あのように短剣を振り上げられていたので、すぐにすっぱりと切られるなり、刺されるなりすると思っていたのだが、一向に痛みが襲ってくる様子はない。もしかして、死ぬときというのは痛みを感じないのだろうか。
確かに、興奮状態だった私は膝を打とうと、指をすっぱりと切りすぎてしまおうとも全く痛みを感じなかった。あの状態が継続しているのであれば、実は私はもう刺されているのかもしれない。思ったよりも思考がしっかりとしているということは意識はあるはずだ。もしくは、死後の世界とやらが本当に存在しているのだろうか。
それらを確かめるためにも、目をそっと開けてみれば、私の意識した通りに瞼が上がる。どうやら私はまだ死んでいなかったらしい。
目の前には相変わらず短剣を振り上げた状態の殿下が見えた。少し驚いた表情をしている。先程はこのような表情ではなかったはずだ。目線を動かそうとすると、殿下の口から言葉が漏れた。
「な、ぜ……?」
表情がすっぽりと抜け落ちて狼狽している様子の殿下が、そのままゆっくりと後ろを向いた。それに合わせて、私も殿下の後ろを見遣る。
「……!」
夢でも見ているのだろうか。
「確かに致命傷だったはずだ……どういうことだ……」
殿下の振り上げた腕を押さえていた人物は、動揺している殿下をいとも簡単にねじ伏せた。普段の殿下であれば、そうはいかなかったのかもしれないが、人間というのは混乱すれば隙ができるものだ。事態に追い付いていけずに、その場にたたずんでいると、そこに新たな足音が近づいてきた。
そちらを見てみれば、焦った様子で走ってくるルセック様と、少し遅れてその後ろを走っているシリル様が見えた。ルセック様は、こちらにたどり着くと、ねじ伏せられている王子殿下を見下ろし、すぐにしゃがみこんで、躊躇なく縛り上げ始めた。
その間も殿下は驚くほどに静かで、まるで魂が抜けてしまったかのように呆然としていた。人形のようになってしまった殿下に対して、ルセック様が舌打ちをする。王家相手に不敬どころでは済まない態度なのだが、そうしたくなる気持ちもわかる。
近くでパキッという音が聞こえて、顔をあげてみれば、落ちていた小枝を踏んだらしい人物と目が合った。こちらへと歩み寄ってくれた彼は、私の前でそっとしゃがみこんだ。目が合う。
「怪我はないか」
「……はい」
私のことを心配そうに眺めていた彼は、ぴたりと動きを止めて眉をしかめた。
「……指が切れている」
「あ」
手を掴まれてじっと観察される。そういえば、短剣でいつもよりも深く傷つけすぎてしまったのだった。まだ傷口はふさがっておらず、ぱっくりと割れており、血はたらたらと流れている。
危機を脱して緊張感がなくなったからなのか、途端に思い出したかのように、じくじくと指が痛み始める。忘れていた膝の打撲もじわじわと痛みを訴える。
しかし、そのような些細なことなどどうでもよくなってしまうほどに、私の指を握るその手のぬくもりにひどく安堵していた。
「止血のために布を巻こう。……しかし、私の服は血だらけだな」
自分の服の布を切って巻いてくれようとしたようだが、彼は服をじっと見ると、そうつぶやいた。服だけ見れば、どこからどう見ても、死人にしか見えない。それほどに血だらけだ。
「布はいりません」
「しかし、止血をしなければ」
「それよりも……」
少し、いや、かなり躊躇ったが、勢いに任せて彼を抱え込むように抱き着いた。彼の体が一瞬強張ったのを感じたが、優しく受け止めてくれる。それに甘えるようにして、頬を摺り寄せ、耳を胸に当てる。トクトクと音が響く。心臓が動いているという事実に安心して目を細めた。
「よかった……ちゃんと生きてて」
「ミルドレッド、私の血が付く。汚れるから」
「もう少しだけ」
「……」
普段の私ならば、絶対にこのように人前で抱き着いたりなどしない。それどころか、二人きりであったとしても臆病な私には絶対無理だ。それでも、つい先ほど、彼を失いかけたことで、どうしても、彼が生きているのだと実感したかった。
しばらくそうしていると、ためらいがちに背中に手をまわされ、驚いて顔をあげてみれば、柔らかな表情で微笑んでいるランドルフ様が見えた。今までで一番穏やかな表情に見惚れていると、ゆっくりと、まるであやすかのように頭を撫でられる。段々と冷静になってきて恥ずかしくなってきた私は、赤くなった顔を隠すために彼の胸に顔をうずめた。
「ミルドレッド」
「……何でしょうか」
「顔が見たい」
「い、今はだめです」
髪を掬ってさらさらと指を通しているランドルフ様に対して、下を向いたままフルフルと首を横に振った。
「私が生きているのはミルドレッドのおかげなのだろう?」
疑問形でありながら、ほぼ確信しているような声色で問いかけられる。どう説明しようか考えていると、捕らえられて地面に転がっていた王子殿下が憎々し気に口を開いた。
「……どういうことだ」
「連れていけ」
私が何か口にするよりも先に、ルセック様が、いつの間にか駆けつけていた騎士に指示をする。騎士に引きずられるようにして連行される王子殿下は、こちらを見ながら、どういうことだ、何をした、と問いかけてくるが、その声も徐々に遠ざかっていく。やがて、その声が聞こえなくなると、ルセック様とシリル様が息を吐いた。
「無事でよかったよ」
「こんなに焦ったのは何年ぶりかな。ランドルフ君がいなかったら、今頃、君死んでいたよ?」
シリル様にそう言われて、つい先ほどまでの出来事が現実味を帯びる。自分が死ぬ直前だったという事実にふるりと背中を震わせた。
「さて、婚約者同士の触れ合いは後にしてもらって、今は後処理をしようか。ね、ランドルフ君」
シリル様の言葉に、不満そうに眉をしかめたランドルフ様は、そっと私から離れると、軽く周りを見渡した。すぐにシリル様に向き直ると、いつも通りの冷静な声で話し出した。
「後処理というと、王家の狂信者たちの片付けということだろうか。しかし、あぶり出すのは容易ではない」
「それは、長年属していたからこそ知っているってわけ。既に手をまわしている部分もあるけれど、まだ残っているんだよね」
「そうか」
「じゃあ、俺もそれに付き合おうかな。暇だし」
ルセック様はそう言うと、近くに控えていた騎士たちを集めて、何やら指示を出している。私だけが何もすることがない。彼らについていったところで足手まといになるだけだ。何の役にも立てないことに気が付いて、何とも言えない気持ちになっていると、シリル様がくるりとこちらを振り向いた。
「あ、王子殿下は多分何かしらの処罰が下されるから!」
当たり前にも思えることをわざわざ口にした彼に対して首を傾げると、ニコニコと微笑みを返される。一体何が言いたいのだろうか。
「あとはよろしく!」
「え、あの」
困惑している私を置いて、シリル様とランドルフ様は歩き出した。ランドルフ様が一瞬振り返って気遣わし気な目線を向けてきたものの、すぐに前を向いてどこかへと向かっていく。ルセック様も一通り指示を出し終えたのか、さらにどこかへ向けて走り出した。
完全に庭に置いて行かれ、ぽつりと一人たたずむ。
いや、正確には、ルセック様が護衛に騎士を一人残してくれたので、人はいる。
静かになった庭の端で、壊れてしまった石碑を見ながら考える。わざわざ言わなくてもわかることを、あのように伝えてくるということは何かしらの意図があったはずだ。
王子殿下は何かしらの処罰を受ける。それはそうだろう。何も悪いことはしていないミカニ神聖王国に戦争を仕掛けている。二国間の関係性は最悪の状態に陥っており、戦争が終わったとしても、溝は大きい。また、古代遺物を使用するために、アデラ様か古代遺物研究室の研究員を脅しているはずだし、ミカニ神聖王国から帰ってきた罪のない騎士や侍女を不当に捕えようともしていた。
これだけの罪を犯しておいて、軽い処罰で済むはずがない。良くて一生幽閉、悪ければ死。
つまり、殿下は王族ではいられない。また、直接関わっていなかったとしても、王家の信用は地に落ちる。そこに、狂信的な忠誠を誓う王家の狂信者たちの処分が加われば、残るのは、王家に批判的な貴族だけだろう。
「あぁ、なるほど」
私がやるべき後処理が見えてきて、思わずため息をついた。そのような都合の良い人物はいただろうか。なかなかに無理難題ではないか。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は明日投稿予定です。
あと数話で完結します。




