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馬に乗れないことをこれほど後悔したことはない。いくら急いでもらっても、馬車では速度に限界がある。轟音がなるたびに障壁が壊れていないか身を乗り出して確認しながら数日、ミカニ神聖王国とエルデ王国の国境が見えてきた。
高い壁は、まるで両国の関係性を表しているようだ。存在感のあるその壁が目前に迫ったところで、馬車が速度を落とした。辺境伯領と正式に同盟を結んだとはいえ、やはり、国境ということもあり、検問自体はしているようだ。
馬車のカーテンからそっと外の様子をうかがっていると、エルデ王国の騎士の制服ではない騎士が見えた。辺境伯領お抱えの騎士団だろう。彼らとミカニ神聖王国の騎士が何やら話しているかと思うと、やがて、こちらへと歩いてきた。さっとカーテンを閉じると同時に、馬車の扉がノックされる。
「どうぞ」
「失礼いたします」
開かれた扉の向こうに、先程の騎士が見える。制服の紋章を確認すると、予想通り辺境伯領の騎士団のものだ。
「ミルドレッド・オールディス様ですね。リリアン・オールディス様がお待ちです」
手を差し出されたため、それに従って馬車から降りる。ミカニ神聖王国にいたときよりも、空気がピリッとしているのを感じた。ここが戦争の最前線だということが嫌でもわかる。私の様子を近くで見ていたミカニ神聖王国の騎士が心配そうな表情を浮かべて口を開いた。
「姫巫女様、ここから先には障壁がありません。そして、いくら同盟を組んでいるとはいえ、我々が御供できるのはここまでです。どうかご無事で」
「ありがとう。出来る限りのことをしてくるわ」
彼らの期待を裏切らないように、できる限りのことをしたい。歩き出して、エルデ王国の領地へと入った瞬間に、ぶわりと鳥肌が立った。障壁の範囲外へと出たことにより、死の空気を感じ取ったのだろう。思わず足を止めると、私を先導していた騎士が立ち止まり、こちらを見る。その目は、私に対して、覚悟はあるかと問いかけているようだった。
ここで怯むわけにはいかない。クリフや聖職者たちにあの場を任せてここまで来たのだ。
震えそうになる足を踏み出して、騎士の後を追う。少し目を見開いたかと思うと、彼はすぐにまた歩き出した。口角が若干上がっているように見えた気がしたが、瞬きをしてもう一度見たときには、元の表情だった。
それにしても、どこへ向かっているのだろうか。
私は、お姉様は辺境伯家の屋敷か、もしくは、領地を囲む壁の近く、特にエルデ王国側にいると推測している。しかし、どちらもここから徒歩では向かうには遠すぎる。私が馬車から降ろされたのは、あれがミカニ神聖王国の馬車であるからだろうが、辺境伯両側で馬車が用意されている様子もない。
「ミルドレッド嬢は馬に乗ることができるか」
突然名前を呼ばれて顔をあげてみれば、そこには馬が一頭用意されていた。
「いえ、申し訳ありません。馬は乗れません」
「そうか」
先ほどまでの敬語がどこかへ飛んで行ってしまった騎士を不思議に思っていると、体格の良い彼は私をさっと馬に乗せた。一瞬何が起きたのかわからなかったが、気が付いたら目線の位置が高くなっていたことで馬に乗っていると理解した。
「いえ、ですから私は馬には乗れないのですが」
「問題ない。飛ばすから馬にしっかりとしがみついておけ」
「え」
疑問を口にするよりも先に、彼が同じ馬に乗った。
「は」
そして私が状況を理解するよりも先に、馬が走り出したため、慌てて馬のたてがみにしがみつく。この男は一体何なのだ。馬車とは比べ物にならない速度と、揺れに目をまわしかけながらも必死に頭を働かせた。そもそも、この男は私に敬語を使っていないという時点で、私とほぼ同等かそれ以上の身分ということだ。
「あなた、辺境伯家の方ですか」
「ほう? やはりあれの妹君というわけか」
私の質問には真面目に答えることもなく、くくっと笑った彼は、きゅっと表情を引き締めると、手綱を握り直した。
「よそ見ができるのはここまでだ。振り落とされないようにしっかり馬にしがみついておけ」
なぜと考えるよりも先に、答えが目に映る。あの光は方向的に王城から飛んできたものだろう。つまり、当たれば死を意味する光だ。
彼は宣言通りに馬を左右へと操りながら、その光をよけていく。光自体はいくつかに枝分かれしているようで、一つ一つの範囲は広くない。しかし、威力はすさまじいようで、轟音と共に、当たった箇所の地面は酷くえぐれている。
「……」
思わず無言になってしまう。
周りを確認してみれば、先程の光が当たった箇所だけでなく、地面がえぐれている部分がある。これまでミカニ神聖王国で聞いていた轟音の正体はこれだったのだ。礼拝堂内で障壁を張って、それだけで戦争に参加した気になっていたが、あれは安全地帯だ。ここはそうはいかない。本当に争いの場に足を踏み入れてしまったのだと理解して唇をきゅっと結ぶ。
幸いなことに、馬を操っている彼の技術は確かなもののようで、危なげなく進むことができている。
「領民は……?」
「君の姉君のおかげで今のところ無事だ」
「と言いますと?」
「彼女が変わったものを持ち込んでな。簡易古代遺物とか言っていたような」
少し首を傾げている気配を感じ取る。やはり、オールディス家の地下に置いてあったものを見つけて持ってきたのだろう。しかし、私の記憶では、お姉様は古代語を苦手としていたはずだ。古代遺物を用いるには、その意味を理解したうえで読み上げる必要がある。
馬を操る必要もない私は、特にやることもないため、とりあえず振り落とされないようにたてがみを再びつかみなおして、前を向いた。
数回の短い休憩を挟みつつ、途中で異なる馬に乗り継ぎながら夜も進み続けた結果、寝不足と引き換えに、エルデ王城方向にある壁の前へとたどり着いた。必死に馬にしがみつく以外に何もする必要がなかった私でもこれほど疲れているというのに、長時間馬を操っていた彼は特に疲れた様子もない。その体力に半分尊敬、半分呆れの目線を向けていると、鈴のような声が聞こえた。
「……ミルドレッド?」
「お姉様」
馬の上で振り返ってみれば、信じられないものでも見たかのような表情で立っているお姉様が見えた。動きやすそうな質素な服装をして、きれいな髪は一つにくくられている。
「無事でよかったわ」
にこりと笑った彼女の表情に少し違和感を覚えるが、何故なのかはわからない。馬から降りたいのだが、悲しいことに自分で降りるとこけそうだ。先ほどの男性は、一人で降りるとさっさと壁の方向へと歩いてしまったし、かといってお姉様では私を降ろすほどの力はないだろう。仕方ないから転ぶことを覚悟で降りようと構えたところで、ふわりと宙に浮く感覚に襲われた。
知っている香りが鼻をくすぐる。
「……無事でよかった」
その声に、いろいろな感情が湧いて混ざっていくが、その中でも特に強い感情を優先して、心のままに頭突きをかました。
「っ……」
相手は私のその行動を予想していなかったようで、小さく呻いたような気がしたが、私としてはそんなことは知ったことではない。私よりもはるかに高い身長の彼をジトリと睨む。
「ランドルフ様、私に何か言うことありますよね」
「……」
後ろでお姉様が小さく笑っているのか、時折声が漏れている。
「……置いていって悪かったと思っている」
少し視線を逸らして、彼がそうつぶやいた。どうやら本心のようだ。私もにらむのをやめて、先ほど頭突きをしてしまった部分をそっと撫でた。
「そうですよ。私の意見も聞かずに置いていくなんて酷いです。とても傷つきました」
「……すまなかった」
「でも、それがランドルフ様の優しさだったことも理解はしています。それと、これ、忘れものですよ」
彼が私に掛けていった上着を押し付けた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は明日投稿予定です。




