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ライラ殿下は、珈琲を一口含んだ。そういえば、エルデ王国では珈琲を見たことがなかった。出回っているのは紅茶ばかりで、他にはハーブティーなどが少しあるくらいだろうか。珈琲はまだ取り扱われていないのかもしれない。
カップを音もなくテーブルに戻すと、礼拝堂がある方向をちらりと見た後に、ライラ殿下が口を開いた。
「私が姫巫女様の意識を共有したのは、私がまだ小さい頃だったの。多分、五歳くらいだったかしら。そのくらいの年頃の子供では恋とか愛とかわからないものよね」
殿下は膝の上で手を組みなおすと、話を続けた。
「ある日、侍女と騎士たちの目を盗んで城を抜け出したことがあったの。まだお城から出たことがなかったから、お城の外がこれほど広いとは思っていなくて、しばらく呆気に取られていた記憶があるわ。目に映った景色の中で、最初に興味を持ったのが大教会だった。比較的お城から近いこともあって、小さな私でも簡単にたどり着くことができたのだけれど、すぐに気が付いた聖職者たちによって大騒ぎになったわ」
確かに、小さな王女殿下が護衛も侍女もつけずに一人で外を歩いていたら驚くだろう。見つけた聖職者の方々は寿命が縮むような思いをしたのではないだろうか。
「それで、聖職者のうちの一人がクリフォード様を連れてきたの。そういえば、クリフォード様だけは、あまり驚いていなかったような気がするわ。いつも通りの微笑みを浮かべて、私を城に戻すために色々と指示を出し始めたの」
「クリフォード様は、その頃から既に大教会にいらっしゃったのですね」
ライラ殿下が五歳くらいの頃となると、今から十年ほどは前のはずだが、その頃からクリフがいたことを意外に思った。現在、少年と青年の間くらいの見た目のクリフが十年前というと、下手をすればライラ殿下よりも年下だったのではないだろうか。しかし、ライラ殿下の話では冷静に対処しているようで、とても幼い子供の行動の様には思えない。
私が考えていることが顔に出ていたのか、ふふっと笑った殿下がいたずらっ子のような顔をした。
「クリフォード様のご年齢について考えているのでしょう? 実は私も彼が何歳なのか知らないの。でも、最初に会ったその時から今まで、見た目は変わっていないわよ」
「え」
「年を取っていないんじゃないかっていう噂があるくらい見た目が変わっていないわ」
つまり、クリフは私が考えているよりも年上ということだ。見た目はよく見積もっても青年くらいにしか見えないのだが、殿下のお話から考えても二十は軽く超えているだろう。
「さて、話を戻しましょう。クリフォード様は、迎えが来るまでの間に、私を礼拝堂に連れて行ってくれたの。そして、礼拝堂に足を踏み入れて、お祈りをしていたら、抗い難い眠気に襲われたわ」
「眠気……ですか?」
「そう、眠気。意識が落ちたと同時に、私は姫巫女様の強い感情を共有したの。初代エルデ王を恋焦がれる強烈な感情。小さな私には、それが何の感情なのか理解できなかったわ。苦しくて胸が痛いのに、どこか嬉しい。好ましい気持ちと焦りと寂しさと……。恋心を言葉で表すのは難しいわね。知らなかった強烈な感情にびっくりした私は目覚めると同時に泣き出してクリフォード様を困惑させてしまったの」
おそらく、クリフは突然眠ってしまったライラ殿下を心配して様子を見ていたのだろう。その殿下が目を覚ますと同時に泣き出したならば、困惑しても仕方がない。
「それでね、クリフォード様にその話をしたら、『もしかしたら姫巫女様の意識や記憶を共有したのかもしれないですね。殿下は、かつての姫巫女様と同じ名前を持っていますから』って教えてくれたの」
ライラ殿下が姫巫女様と同じ名前を持っているという話は知らなかった。後で、クリフに頼んで、姫巫女様の家系図を見せてもらおう。
殿下は、しばらく黙り込んだかと思うと、パッと明るい表情に戻った。
「はい、この話はこれでおしまい。本当にこれだけの話なの。感情を共有するなんてふわふわした話、あまりみんな信じてくれないけれど、私はやっぱりあれは姫巫女様の感情だったと思うの。ミルドレッド様も、気になるならば、礼拝堂に行くと何かあるかもしれないわ」
そう言って立ち上がると、私に軽く手を振った。
「そろそろお城に戻らないと。また来るわ。お大事にね。あぁ、立ち上がらなくて大丈夫よ。安静にしていて」
挨拶をしようとしたところ、止められてしまったため、大人しくベッドに留まる。殿下は、満足そうにその様子を確認すると、足早に部屋から退出なさった。一人になった部屋はとても静かだった。
ぱちりと目を覚ますと、まだ部屋の中は暗かった。薄暗いというよりも、確かな闇を感じることから真夜中だろうか。
昼間のうちに感じていた倦怠感や頭痛はもう感じない。軽くなった感覚に、熱が下がったのだと理解した。向きを変えてもう一度眠りにつこうと目を閉じてみるが、ずっと寝ていたこともあり、眠気が一向にやってこない。
仕方なくそっと起き上がる。冷たい空気が体を包み込み、思わず体を震わせた。侍女がサイドテーブルに置いてくれていた上着を急いで羽織り、そっとベッドから抜け出してみれば、窓から星明かりが差し込んでいることに気が付いた。どうやら、真っ暗なわけではないらしい。
わずかな光を頼りに、ランプに光を灯す。その小さな明かりを手に、部屋の扉を開けて廊下を見回してみれば、すぐ近くに騎士がいることに気が付いた。相手も気が付いたようで、こちらに歩いてくる。
「どうかしたの? 病人があまり歩き回ってはいけないだろう」
「ルセック様。いえ、目が覚めてしまって。熱ももう下がっているの。少しだけ外の空気を吸いたいわ」
私の言葉に分かりやすくため息をついた彼は、びしりと指をさしてきた。びくりと肩を震わせたのと同時に、小さな声ではあるものの、明らかに呆れを含んだ声音で話される。
「あのねぇ、ミルドレッド様、なんで風邪ひいたか覚えている?」
「……長時間夜風に吹かれていたからですね」
「それを知っていて俺が許可すると思う?」
「思いません」
「よし。それなら、建物の中だけ、少しの時間ならいいよ」
「本当ですか」
「少しだからね。どこに行く? 水もらいに行く?」
「それならば、礼拝堂に行きたいです」
私の言葉に、パチパチと瞬きをした彼だったが、不思議そうな顔をしつつも、頷いてくれた。私の手から明かりを受け取ると、代わりに持ってくれる。
「ミルドレッド様は意外と信心深いんだね」
「いえ、そういうわけでもないと思います」
ただ単純に昼間のライラ殿下の話が気になったのだ。
夜中の廊下をひたすらに二人で歩いていく。大教会は比較的静かな場所ではあるが、夜は多くの人々が眠っていることもあり、しん、としていた。
冷たく暗い空気の中で、ルセック様が持つランプの灯がチラチラと揺れる。その暖かな光だけを頼りに歩みを進めていけば、正面に扉が見えた。彼がそっと開けば、昼間とまた違う表情の礼拝堂が私たちを迎えてくれた。
ステンドグラスは、僅かな星明りによって控えめに光を落としている。その下をゆっくりと進んだ私たちは、神像の前で跪いた。そっと手を組んで、目を閉じる。
ぴん、と張りつめた冬の空気の中で、はっきりとしていたはずの意識がぐらりと歪んだ。先ほどまで、眠気なんてどこかに行ってしまっていたのに、それが嘘かのように、抗い難い強烈な眠気が襲ってくる。このままでは体勢を崩してしまう、と朧げに考えたのを最後に、私は意識を手放した。
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