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次の石碑として、私たちが選んだのは南側にある訓練場の近くの石碑だった。お互いに話すこともなく、無言で歩いていると、向かい側から歩いてきた貴族の男性が目に入った。
彼は、私をちらりと見たかと思うと、そのままランドルフ様の方へと目線を移した。すれ違う頃に、彼は歩みを緩めると、微笑みを浮かべてランドルフ様に声をかけた。
「久しいね、ランドルフ君。今、時間はあるかな。少し話したいのだが」
その言葉に、軽く眉をひそめたように見えた。
「申し訳ありませんが、今は仕事をしております」
「まぁまぁ、そう言わず。すぐに終わる話だから」
「では、ここで話していただけますか」
ランドルフ様の言葉を受けて、小太りな彼は、私の方へと目線を一瞬向けた。
「そちらは婚約者殿かな。私は別に構わないけれども、君はそれでいいのかい」
彼の問いかけで、隣に立つランドルフ様に怒りの気配がにじんだように思えた。思わず見上げてみれば、はっとしたようにこちらを見下ろした赤い瞳と目が合った。どこか暗さを含んだ赤い瞳は何度か見たことがある。
彼はふいと目線を逸らすと、目の前の貴族に向かって口を開いた。
「……わかりました。それではあちらで話しましょう」
不服そうな様子を見せながらも、そう答えた彼は、私と目を合わせることもなく、話し出した。
「悪いが、先に訓練場近くに行ってくれないか」
「はい、構いません」
目の前の貴族男性にも軽く会釈をして、その場を去ろうとすると、彼のねっとりとした視線が絡みついてきた。その目線にぞっとして、鳥肌が立ちかけたが、何とか微笑みを浮かべたまま歩き出す。歩き出しても、しばらくその視線を背中に感じていた。
南側の出口へと続く廊下側に曲がってから、ほっと息を吐く。見ず知らずの男に気味の悪い視線を浴びせられるような覚えはない。
自分の見た目は地味で、とても異性に対して魅力のある容姿とは言い難い。そのため、そういった視線ではないだろう。実際、彼の視線はねっとりと絡みつくようではあったが、私を性的な目で見ているという感じはしなかった。
どちらかというと、利用価値があるかどうかを値踏みするような、そういった視線だ。まさか、以前話に出ていた王家の狂信者などということはあり得るだろうか。
やはり、侍女や護衛騎士を連れて歩くべきだっただろうか。ランドルフ様と一緒だからと、研究室の隣の控室で待機してもらってしまったことを少し後悔しながら、訓練場を目指す。
「っ!」
右腕を掴まれたかと思うと、近くの部屋の中へと引き込まれた。様々な最悪の可能性が頭をよぎって、さっと血の気が引く。ばたんと後ろで扉が閉じる音が響いたかと思うと、掴まれていた腕を乱暴に離されて、床へと放り出された。
反射的に手をついたが、それでも体の一部が床にたたきつけられた。倒れこんだ床に埃が溜まっていたのか、ふわりと埃が舞う。舞い上がった埃に軽く咳き込みつつも、顔を上げて部屋に引きずり込んだ相手を探すと、見覚えのある人物が立っていた。
「無様だね」
「……セドリック様」
水色の瞳は私を冷たく見下ろしていた。いつものような軽薄さはまとっていない。笑みは浮かべず、無表情で扉にもたれている。扉の前に彼がいる時点で、出口はふさがれている。
どうして彼がこのようなことを、と思わなくもないが、元々彼が私に対してよい感情を持っていないことは何となく知っていた。普段から笑みを浮かべつつも、私に向けている目は冷たかった。
私がそっと立ち上がると、彼が扉から背を離し、こちらへと歩いてきた。思わず、後ずさるが、すぐに壁にぶつかった。これ以上逃げることはできない。
「……」
無言で目の前に迫った彼を見上げてみると、意外そうに片眉を上げた。
「あまり怖がってなさそうだね」
「私に何か御用ですか」
「どんな用事だと思う?」
質問に対して、質問で返されて面食らう。考えてもわからないから、こちらから問いかけたのだ。答えに詰まっていると、いつもの軽薄そうな笑みを一瞬浮かべた彼は、私から見て左側を指さした。
怪訝に思いながらも、ゆっくりと頭をそちらに向けてみれば、見えたのは古びたベッドだった。
一瞬思考が停止したが、すぐに彼が言わんとしていることに気が付いて、ばっと向き直った。
「まさか」
「そう、そのまさかだよ。ちょっと黙っててね」
私が声を上げるよりも先に、口を片手で塞ぐと、もう片方の腕で乱暴に抱えられた。思い通りにされてたまるかと、腕や足を必死に動かし、彼を叩いたり、蹴ったりしたが、びくともしない。声を上げたくても、もごもごとして音にならない中で、焦りだけが這い上がってくる。
目に入るのは、ベッドに向かって歩く彼の足と、少し埃っぽい床だけで、あと数歩で目的の場所にたどり着いてしまうことが嫌でもわかる。どうにか抵抗しようにも、小柄なこの体では思ったほど彼にダメージを与えることもできていないようで、びくともしない。
抵抗らしき抵抗もできないまま、ベッドへと放り投げられる。すぐに声を上げて助けを求めようとしたが、それよりも早く押さえつけられたかと思うと、口に布を嚙まされ、そのまま結ばれてしまった。それならばと逃げようと起き上がりかけたところを押さえつけられる。
埃っぽい匂いの中で、両手を押さえつけられた状態で彼を睨みつける。
「おぉ、怖い」
全く思っていないであろう言葉を口にした彼を見ながら、必死に考える。なぜ、彼はこのようなことをしている。
その考えが顔に出ていたのか、あざ笑うような表情を見せた彼が、口を開いた。
「なんでこんなことを、とか考えているのかな。理由は簡単だよ。ランドルフと君が婚約を結んでいるのは、あまりにも都合が悪いんだ。これじゃあ、今までの私の努力がすべて水の泡」
思わず、眉を顰める。
「あぁ、それなら婚約解消をすればいいって思っているの? でも、それってブライトウェル侯爵家から申し出た場合、婚約破棄ほどではないにしても、ランドルフが有責だと見られるだろう。私は、弟には幸せになってほしいんだ」
つまり、私との婚約はなかったことにしたいが、その場合は、私が有責だということにしたいということか。それで、今まで浮気の誘いとも思えるような発言を私に対して投げかけていたのか。無意識に冷めた目で彼を見遣ると、彼が不愉快だというように眉をひそめた。
「私だって、君のことは好みじゃないよ。ただ、恋人関係に一時的にでもなれば、オールディス家側が有責になるからね。それなのに、今までの子たちと違って、全く私になびかないし、興味を持たなかった。だから、もう既成事実を作ってしまおうかと思ってね。君がいくら嫌がろうと、そういう場面に人が入ってくれば、まぁ、どうなるかはわかるよね」
想像以上の状況の悪さだ。どうせ事に及んでいる途中に人が入ってくる手はずになっているのだろう。その直前に、私の口を塞いでいるこの布を取ってしまえば、第三者から見たときにどのように見えるかなど、想像に難くない。
「さ、おしゃべりはここまでだ」
最後の抵抗とばかりに足をばたつかせてみるが、簡単に封じられてしまう。迫ってくる彼の手から逃れようと、体を捻るが大した抵抗にはならない。顔をそむけたが、首筋に触れられて、ぞわりと鳥肌が立つ。
――嫌だ。
反射的にぎゅっと閉じた目の奥で、ランドルフ様の姿が映る。彼を裏切らないと、私はそう約束したというのに、これでは、彼を傷つけてしまう。それに何より――。
「何をしている」
地を這うような低い声が、静かに空気を震わせた。その声が響くのと同時に、押さえつけられていた手が解放された。
目を開けると、まばゆい光の中にランドルフ様が見えた。逆光なのだろう。彼に話しかけようとして、くぐもった声が出て、布が巻かれていたことを思い出す。
「あーあ、見つかっちゃった」
いつも通りの軽薄さを取り戻したセドリック様は、あっさりと私の上から退くと、ベッドから下りた。
私もすぐに彼から距離を取って、部屋の端へと移動を試みる。思ったように足が動かないのは、無意識に恐怖を感じていたのだろう。震える足で何とか移動して、壁に背をつけると、力が抜けてへたり込んだ。
「ふざけるな」
怒りの滲んだ声でそう言ったかと思うと、ランドルフ様は部屋から出ていこうとしていたセドリック様の胸倉をつかんで睨みつけていた。セドリック様は、そんな状況でも顔色を変えない。
「何? ランドルフがいつまでもそんなだから、私の方で行動を起こしたんだけれど」
「そうだとしてもやっていいことと悪いことがあるはずだ」
「それなら聞くけれど、彼女との婚約を本気で継続するつもりなの?」
「当たり前だ」
「……意味わかってて言ってる?」
セドリック様も怒りを滲ませながら、ランドルフ様に問いかけた。ランドルフ様は睨み返すだけで、何も口にしない。しかし、その態度からおそらく肯定だと捉えていいのだろう。
「言ったよね、適切な距離を保たなければ、苦しむのはお前自身だと」
「……それでも」
「彼女はどこまで知っている?」
「……」
ランドルフ様が黙り込んだ。それと同時に、セドリック様の目線がこちらを向く。先ほどのこともあって、思わず肩に力が入るが、こちらを見るだけで害意はなさそうだ。
「ミルドレッド嬢はどこまで知っているの? ランドルフの何を知っている? 君との婚約や婚姻が何をもたらすか把握しているの?」
立て続けに問いかけられたが、私は答えを持ち合わせていない。ランドルフ様に答えを求めるかのように視線を投げかけるが、私から顔を背け、答えてくれる様子はない。
その様子を確認したセドリック様は鼻で笑うと、胸倉をつかんでいたランドルフ様の手を払いのけた。
「そんなことも話していないのに、婚約を続けると? 笑わせるな」
くるりと背を向けた彼は、開いていた扉から廊下へと消えた。埃っぽい部屋の中に残されたのは、ランドルフ様と私だけだ。そっと彼に近づくと、気配に気が付いたのか、彼が私の方を見た。その瞳はゆらゆらと揺れていた。
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内容が分かりにくかったように思えたので、あらすじを編集してみました。
ただ、あまり上手くあらすじを書けていないので、そのうち修正するかもしれないです。
次回の投稿は明日を予定しています。




