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アンティーク姫のいる探偵事務所  作者: 赤柴紫織子
四章 バーニングヘル
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十二話『げきおこプンプン丸前原さん』

『夜弦、あんまり遠くに行っちゃだめよ』


 つばの広い帽子を被ったその人が、僕に優しく言う。


 夏休みの最後の日。

 窓から行儀悪く逃げ出して、警備を撒いて、二人で海に遊びに行ったんだったか。

 後で怒られてしまうねなんて笑いながら。

 さながら友人か恋人のようないたずらだったけど、僕たちはそのどちらでもなかったし僕の世界は当時もっと狭かった。


 砂は焼けるほどに熱かったけど、靴を投げ捨てて僕は波と遊んでいた。

 寄せる波から逃げて、返す波を追いかけた。

 石を投げてみたり、ペットボトルを浮かせてみたり、ずっと友達から聞いてやりたかったことを片っ端から試していった。

 そうだ。あれは小学校最後の年だ。


 彼女は、はしゃいでどんどん歩いていく僕の後ろをゆっくりと追っていた。

 肌が焼けてしまうわなんて言いながら、やはり素足を波に戯れさせて。


『夜弦』


 風で飛ばされない様に帽子を押さえながらその人は笑う。

 父より少し年上だそうだが、それを感じさせないほど彼女は若々しく美しかった。


 綺麗な貝殻を――今思えば、あれは桜貝だった――拾って、僕は彼女を呼んだ。


『お母さん』



 酷い頭痛の中で思い当たる。


 そうだ、あの生首は。

 光のない眼で僕を見ていたあの人は。


 母親だった。



 呼吸ができる。

 認知した瞬間に咳き込んだ。

 肺に流れ込んだ水をどうにかして外に押し出そうとしているのだ。


「掴まれ!」


 所長が流木を引っ張ってきて僕の腕を乗せた。すこしばかり身体が安定する。

 しょっぱい味が口の中に蔓延していて何が起きたか咄嗟に判断ができない。


 あ、そうだ。落とされたんだ。


「くっそ、高いな! ここから上がれるところないか!?」

「あっちの船があるところなら恐らく」


 鼻血を未だに流しながら咲夜さんは向こう側を指さす。

 ちょっと遠い。泳げるのだろうか、僕。

 立ち泳ぎならなんとかできているが、いつまでも続けられるわけがない。

 着衣水泳だからかなり身体も重いはずで、さらにプールみたいに安全は保障されていないし。

 これかなり運が関わってくるな…!


「…お二人に言わなくてはならないことが」


 諦観を宿した笑みを唇に咲夜さんが言う。

 なんだ。この状況でさらに何かあるのか。


「――私、泳げなくて」


 どぼん。


 そのまま海中にフェードアウトした。

 簡潔に言うと沈んだ。

 もう抵抗も何もなく、気を付けなければ気付かないほど自然に沈んだ。


「う、うわあああ!! サクぅぅぅぅ!!」

「ちょ、ちょ、所長! 潜れますか!?」

「無理! 目を開けられない!」

「僕もどう泳げばいいのか皆目見当もつかないんですけど!」


 さっきまで敵対していたことも忘れて僕は必死に救出方法を考える。

 よほど水中で暴れなければ自然に浮かぶって言うけど、彼女の義手はそれを許すだろうか。いやめちゃくちゃ重いってことはないだろうけど。


 僕が行くか? でもどうするんだ。潜り方が記憶にない。

 身体が覚えているかもしれないが予想が外れて一緒に溺れたら間抜けすぎる。

 考えても仕方がない。どうにかなるだろ!


 結論が出かけた時だった。


「何してんだお前ら!」


 茫然とこちらを見下ろしているのは、咲夜さんの同居人――前原さんだった。

 今さっきまで拷問にかける云々をのたまっていたという気まずさがあるが、それで躊躇っている場合ではない。


「溺れています!!」

「もしかして今沈んでるっぽい影は咲夜か!?」

「咲夜さんです!」


 前原さんは舌打ちをすると靴を脱いで綺麗なフォームで飛び込んだ。



 陸に打ち上げられた魚…もとい、僕たち三人は日陰で正座をさせられていた。

 目の前には仁王立ちの前原さんである。

 所長に負けず劣らず怖い顔しているというか、人を二、三人東京湾に沈めてそうな顔をさらに歪めているので恐ろしい。

 夜中にエンカウントしたら絶対悲鳴上げる。


「お前ら何歳だ」


 全員の息が落ち着いてきたころを見計らって彼は口を開く。

 お説教だ…これから始まるのはまごうことなきお説教だ…。


「俺は二十九です…」

「多分二十代です…」

「二十三です…」

「いい年してなんで遊泳可でもないとこで遊んでいるんだ。死にたいのか」


 ぐうの音も出ない。


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