一年と九か月前 終われなかった話5
大病院。
忙しく歩き回る看護師や点滴を引きながらあるく患者の間をすり抜けながら国府津咲夜は歩いていく。
その背中を城野と椎名百子は追いかける。
次第に人が減っていき、最終的には長い廊下に三人だけになった。
「見た感じ普通の病院だが…」
「普通の病院ですよ。ここまでは」
ひとつの扉の前で止まる。生体認証とパスコード入力の二重ロックを解除すると、中へ入っていく。
小さなナースステーションにいる看護師に頭を下げると、少し先に進んでスライド式ドアを開ける。
生唾を飲み込みながら城野と百子は中を覗く。
ベッドには一人の青年が横たわっていた。眠っているようだ。
点滴の雫が静かに落ちている。
そっと病室に入ると、城野は百子をドアのそばで待機させて、自分だけベッドを覗きこむ。
そしてぎょっとした顔をした。
手にミトンを嵌めた上でベッドの柵に縛りつけられていたのだ。
「拘束されてんじゃねえか。どうなってんだ」
「暴れるんです」
「暴れる?」
「発作――らしいです。うなされて、点滴を引きちぎり、止めに来た看護師をあわやケガさせる寸前だったようで。それが三回」
「それは…夢遊病みたいな感じかな?」
「おそらくは」
ドアがノックされる。咲夜が応答すると静かに開いた。
「失礼します」
白衣を着た医師だった。
咲夜は頭を下げ、二人を知り合いだと紹介する。実際には知り合いどころか縁もゆかりもそこまでないのだが、城野たちは無駄に話を混線させる必要もないと黙っていた。
「面会にいらっしゃったと聞いたので、ご報告を」
「なにかあったのですか」
「はい。非常に申し上げにくいのですが…」
困った顔で医師は言う。
「意識が混濁しているときと、鮮明なときを繰り返していまして。そして混濁から回復するとその前の鮮明だったときに交わした会話や人も忘れてしまっています」
「……。治りますか?」
「一時的なものでしょう。しかし、今はあなたの顔を忘れているという可能性もあります。現に会話を交わした私どものことも忘れていました」
「なるほど。リセットされてしまったと…」
わずかに咲夜は肩を落とす。
「脳に障害があるわけではないんだろう?」
「外傷が原因ではないです。ーー心療内科によると防御反応だろうとのことです。自分の心を守るために記憶に鍵をかけているのだと」
「自分を守るって…なにから?」
「何が起きたかは分かりませんが…意識を失う直前に、よほど大きなショックでもあったのではないでしょうか」
「……」
「……」
「面会は結構ですが、長時間は負担をかけてしまいますので適度なところで切り上げてください」
「ええ。ありがとうございます」
医師が退出すると三人は揃ってため息をついた。
「これ、もしかして俺のせい?」
「もしかしなくてもあなたのせいですね」
「そんなつもりなかったんだけどな。いやまてよ、俺だけ恨まれる流れなのかこれ」
「結果論です」
「ほ、ほら、ふたりともそこまで仲を悪くしないで。それにそんなうるさくしちゃうと迷惑だよ」
百子が慌てて城野と咲夜に入った時、ベッドからうめき声が上がる。
一同ははっとそちらを向いた。
柵がガシャガシャと揺れる。手を動かそうとしているのだ。
「夜弦兄さん!」
ベッドサイドに駆け寄り咲夜が呼びかける。
青年は苦しげに首を振った後に瞼を開いた。
咲夜を見、それから城野と視線が交差する。青年は何か考えるように目を細めたが、わずかに首をかしげただけだ。
もしもこのまま思い出さなければ、城野も百子もそれまで通りの生活を送れるだろう。
だが城野は見捨てきることができなかった。記憶が蘇り、以前咲夜が言っていた通りに殺しにかかってくる可能性があったとしてもだ。
いわゆる、馬鹿なお人よしだ。
息を吸い込みそっと話しかける。
「…覚えているか。俺のこと」
「…誰?」
「『鬼』退治にきた、もう一人の人間だ。あんたの後からやってきたんだ」
「おに…」
乾燥した唇で青年は繰り返す。
固唾を飲んで見守る一同の前で、彼はかすれ声で呟いた。
「まだ、殺しきってない…『鬼』は、まだ…いる…」
「なに?」
「まだ…捕まえて、今度こそちゃんと…」
それだけ言うと、青年は再び瞼を閉じた。
「……まだ…? 終わって、ないのか…?」
城野の声が虚しく病室に響き、消えた。




