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アンティーク姫のいる探偵事務所  作者: 赤柴紫織子
三章 レーゾンデートル
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五話『彼のいない事務所』

『このたび一身上の都合により、来たる平成二十九年七月六日をもって退職致します』


 綺麗な字で綴られたそれは、所長のデスクに広げられていた。

 先ほどから所長は腕を組んで退職届を前に無言のままだ。考え込んでいるようにも、怒っているようにも見える。それとも両方か。


 そんな彼に掛ける声も見当たらず僕と咲夜さんは様子を伺うしかない。

 姫香さんは握りつぶされた封筒を手にしてシワを伸ばそうとしている。やがてそれも飽きたのか、彼女は義兄のほうを見た。


「心当たり、あるのか」


 いつも通りの抑揚のない喋り方で、ストレートに聞いた。

 歯に衣着せぬというか、変に遠回りをしない彼女の性格は好きなのだがさすがにこれにはヒヤリとする。


「百子、責任強い。いきなり、おかしい。なに、あった」

「何もない」


 苛立ちを隠さずに所長は短く返した。ここで怒鳴り散らさないあたり良く出来た人だと思う。

 依頼人の中には何も言わないが察しろとばかりの態度を取り、いざ聞くと激昂して怒鳴る人はいる。その場合、所長が指を鳴らせて黙らせるけど。

 おろおろする僕らを横目に彼女はさらに言葉を重ねていく。


「なかったんだな? お前と、あいつの間に」

「ねえよ」

「ではなぜ、お前、そんな怒っている」


 所長が顔を上げて姫香さんを鋭い目で睨む。

 一切臆さずに彼女はそれを受け止め、逆に光のない眼差しで見つめ返す。


「あんたには、」

「関係ある。咲夜も、夜弦も」


 有無を言わせぬ言葉に、む、と所長が口を噤んだ。

 さすがだ。僕たちならまず所長へ口を開くことさえ躊躇していた。

 会話の糸口を作ってくれた上に、停滞していた展開を転がしたのだ。

 すかさず咲夜さんが続く。


「姫香さんの言う通りです。これはただの『退職』ではないと、そう気付いているのではありませんか?」


 僕も一つ気付いた。

 あの羽根のエンブレム、もしかして鴨だから鳥の羽なのだろうか。

 そうすると、


「もしかして、この一件に『鴨宮』が絡んでいるとか…」


 呟いた途端に空気が凍り付いた。

 もう慌てる通り越してやっちまったかという感想しかない。どうして僕はこういうことに不慣れなのだろ。

 間違ってはいないと思うのだが、いかんせんタイミングが悪すぎるのだと常々思う。

 所長と咲夜さんが目配せしあいそれから互いに首を振る。秘密の会話はこちらの不安を底上げするからやめてくれ。


「夜弦さん、どこで『鴨宮』を…?」

「え? いや、昨日百子さんと飲み行った時に聞いたんです」

「モモが? 何を話したんだ」


 一気に会話の中心に立たされてしまった。

 たじろぎながらも、口止めもされていないし緊急事態だと判断したので短く昨日の会話を打ち明けた。


「…あいつがそんなところまで話したのか」

「え、でもみんなにも話したって」

「私は初めて聞きました。実家と仲が悪いとは知っていましたが、そんなに深いところまでは」

「ひ、姫香さんは?」


 彼女は首を横に振った。

 本当に、彼の事情を知るのは所長以外は僕だけなのか。


「モモのことだ、あんたに聞いてもらいたかったけど臆するといけないからそんな事言ったんだろ」

「僕に、どうして」

「適任だったからでしょう。私の口から語られても所長としてはむかつくでしょうし、姫香さんは――」

「説明が下手だしな」


 さすが義兄、すっぱり言いやがった。

 姫香さんも自覚はしているのか特に反論はしない。


「つまり、百子さんは自分がいなくなることを見越してそんなことを打ち明けたと? …なんのために」

「俺が聞きたい。あんたに説明係を頼んだのは分かる。しかし、辞めてしまう人間の情報が大事かね?」


 顔をしかめて面白くなさそうにペンを回す。


「ーー突然なのも引っかかる。サクの言っていた通り、ただの『退職』じゃないような気がするんだよ。何か不満があるならそれなりにアクションは起こすはずだ」

「例えば?」

「本気で俺が嫌いになって辞めるならスマフォなりパソコンにウイルス仕込んでからいなくなるだろ、あいつ」

「ずいぶんえげつない去り方ですね…?」

「はぁ。遅効性ウイルスだったらどうするんですか」


 所長はそっとスマートフォンを操作して、ページをいくつか開いた後そっと戻した。

 今のところは大丈夫だったようだ。


「そういうこと言うのやめろよ」

「私ならそうしますけどね。でも所長に愛想を尽かしたのならわざわざ出勤しないと思います。むしろ、最後に・・・顔を・・見ておきたい・・・・・といった風で――」

「待て」


 所長が突然ストップをかけた。

 咲夜さんははっとした顔で黙る。


「ごめんなさい、言いすぎました」

「違う。その可能性があるんだ」


 ペンの動きが止まる。

 彼は椅子の背もたれに寄りかかって天井を仰ぐ。ギイッと椅子が嫌な軋みをあげた。


「ツル。確かに、あの車には鳥の羽が描かれていたんだよな?」

「はい。それでもしかしたら『鴨』の羽かな、と思って『鴨宮』だと思いました」


 実際に鴨の羽なんてちゃんと見たことが無いのだが。

 直感的にそれだと思ったのだ。正確には既視感があった――が、なにか似たものと間違えているだけなのかもしれない。

 あんなふうに自己主張の激しい車は初めて見たけど。


「いい推理だな。合ってるよ。俺も見たことがある」


 ふっと所長は口元を緩めた。

 しかし次の瞬間には硬い表情へと戻ってしまう。


「…『鴨宮』に嫌われているはずの椎名百子が、『鴨宮』の車に乗った、だと?」

「…その、和解して改めて迎え入れてもらったとかは? 黙って辞めた理由は説明がつかないですけど…」

「和解?」


 所長は鼻で笑った。


「あいつら、五年前にモモを毒殺しようとしたんだぞ。今更和解もクソもあるか」


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