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アンティーク姫のいる探偵事務所  作者: 赤柴紫織子
八章 ファム・ファタール
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二十一話『ファムファタール』

 少女は崩れ落ちた。冷たい床が彼女を迎える。

 困惑や笑い声が混じってあたりから聞こえた。

 少女の聴覚はそれらを拾えない。耳鳴りがすべての音を遮断している。

 荒い息を繰り返し、どうにかして痛みを紛らわそうとしてもそれは叶わない。

 あらぬ方向に折れ曲がった手首が現実をただ突きつけていた。


「…がっ、あぁ…っ」


 何かがせり上がってくる感覚、そして強い吐き気に襲われる。

 嗚咽と共に胃酸がぶちまけられた。


「ああ、そんなに痛かったですか。すみませんでした、お嬢」


 少しも申し訳なさそうに神崎は言う。

 その横でナツミがわずかに引いた顔をしていた。


「…大事なだったんじゃないの?」

「大事さ。だけどなんでも許すわけにはいかないだろ?」


 にこにことしながら神崎は言う。


「むしろお嬢以上におれの心が痛いよ。大切な子を傷つけてしまったこともあるし、何よりその子に銃を向けられたってことがショックだなぁ」

「ハジメ、あなたあたしに空砲持たせた言い訳考えているんでしょうね」

「元から君には戦わせたくなかったんだよ。それはお守り。下手に弾を入れて自殺用って思われるのも嫌だし」


 じっとりとした視線を受けても彼はのらりくらりと交わす。

 ナツミは「まあ、いいわ」とだけ言って引き下がる。――彼女は神崎に妄信的なのか、それか裏切られたことが無いのだろう。


 城野は知らず汗をかきながら義妹を見る。

 少女は腕を抱えてうずくまっていた。

 初めて会ったあの晩からずっと傍にいたが、あそこまで弱弱しい存在に見えたのは初めてだった。

 …いや、嘘だ。ともに過ごすうちに少女は少しずつ、何かが崩れているような気がしたのだ。それが良いのか悪いのか分からない。


 城野を庇おうとして結果的に失敗した義妹を、どうにか救わなければと城野は考える。

 殺されることはないだろう。だが、死ぬ以上にひどい目には合わせるはずだ。

 この神崎という男はそういう人間であると――城野は感覚的に知っていた。自分以外の人間に対して痛みを与えることを顔色一つ変えずに躊躇わない人種。似たような人間を知っている。そいつはつい数時間前に記憶を取り戻したばかりだ。


「お姫さまに手を出す従僕なんざ聞いたことねえな」

「語弊を生むからやめてくれる? その言い方。――おまえだって、仲が悪いふりしておいて『振りほどけ』なんて。ネタばらしにしても早すぎるだろ」

「悪いがあんたと違って心優しいタイプなんでね、どんな奴でも心配しちまうサガなんだよな」

「ふうん」

「…どうするんだ、その娘」

「どうもしない。そうだな、強いて言うとお前の手あかがついているのがすっごい不愉快」


 笑みを潜めて冷たいまなざしで神崎は城野を見る。


「あとは、お嬢がお前を選択したのも不愉快。…なんでかなぁ、おれも頑張って育てたつもりなんだけどなぁ」

「…あんたがこの後死ぬからだよ。夜弦に殺されるから。あんたについていても仕方がないもんな」


 もう、これしか手段がない。

 義妹がひどい目に合わないためには『彼女の意思で動いたわけではない』ということを強調する。

 城野を助けたのは、しぶしぶ、致し方無い状況下であったと思わせなければならない。そうすれば神崎を撃とうとしたことを責められることは無くなる、はずだ。恐らくは。


 代わりに、城野の身は保証されない。

 事務所メンバーは助けに来てくれるだろう。だが間に合うとはとても思えない。

 どうせ死んでしまうのなら最後に義妹だけでも救いたかった。


「それに、俺を餌に国府津夜弦を餌に釣り上げたところで何だっていうんだ? あいつは大人しく網にかかるような男ではないぞ」


 城野憲一はにやにやと笑う。

 ここで笑わなくていつ笑う?


「俺がいなくてもあいつは来たさ。夜弦があんたに寄せる憎悪たるや恐ろしいもんだ。随分熱烈に思われているそうじゃないか、羨ましいぜ」

「お前だって同じはずだ、国府津にどうして殺されなかった。お前がボスを殺したんだろう?」

「へえ、どっからその情報を?」

「こちらにも優秀なハッカーがいるものでね。『国府津』の所有する銃火器と弾痕は一致しなかった。では誰が、ってなるとお嬢を連れて居るお前しかいないだろう」

「たいした推理力だ。探偵に向いているぞ」

「御免だね、そんな胡散臭い仕事」


 腕を組み、首を傾けながら神崎は続ける。


「藤岡の電話は二通り意味があった。ひとつは、生存確認。ふたつめは、生存していた場合にお前をおびき寄せること。正直死亡を前提に計画を組んでいたのに、生きているなんて驚いたよ」


 城野は横目で辺りをざっと見回す。

 藤岡の影はなかった。そもそも意識を取り戻した時にはすでにいなかった。どこにいってしまったのだろう。


「はん、仮に俺が死んでいたとして渡会はどうなっていたんだ」

「別に、あのままだよ。年寄りらしいねちっこさで『鬼』を探っていたのがウザかったから、消えてもらった」

「いやいや、俺たちを始末するためにずいぶん手間がかかっているもんだ。――今からその計画も泡になるんだけどな」

「…減らず口にもほどがあるだろう。よっぽど育ちが悪かったと思える」

「親の顔が見てみたいってか? その耳を千切って、目を抉って、歯を抜いて、舌を切ったのはあんたたちだろ」


 傷を自ら掘り起こしていく。

 相手に言われるよりはこのほうがダメージが少ないと踏んだ上で。


「あ、やっぱあいつの息子だったんだ。なるほどねぇ。親子二代で愚かしいね」


 視線を上に向け、神崎は少し考える素振りをした。


「最初はすごい強気だったんだけど、パーツを切り取るごとに弱っていってさ。最後は殺してくれって泣いて懇願していたよ」

「俺の親父が命乞いなんてするわけないだろ」


 自分でも驚くぐらいに至極冷静な言葉が城野から滑り出た。


「ケンイチはそんなやつじゃない」

「必死だね、そんなに理想像を壊されたくない? 人間って死ぬ直前が一番エゴが出るもんだよ」

「理想ではなくて事実だ。むしろ泣いて懇願するのはあんたのほうだろ」


 うーん、と神崎は困ったようにほほ笑む。聞き分けのない子供を前にした母親のように。

 スマホをちらりと見た後に彼は手を上げた。周りの雰囲気が引き締まる。


「国府津もどうやらここに近いみたいだし、始めるか」

「あ?」

「すっぱり首切ってあげようと思ったけどやめた。お前はどのあたりで命乞いするかな」


 傍にいた男から裁ちばさみを受け取る。


「まずはそのよく回る舌からね。次は爪、その後はノリでいく」


 四人がかりで城野の身体を抑え込んだ。拘束されていることもあり、暴れようにも力が上手く入らない。

 舌、と聞いて歯を食いしばる。

 その様をおかしそうに神崎は見た。


「だいたいみんな同じことをするよ」


 刃を動かしながら、神崎はゆっくりと城野に近寄る。

 その後ろで少女が顔をあげて絶望的な表情を作った。


「やめろ! 神崎、やめろ! そいつ、手を出すな! 神崎っ!」


 そんなに甲高い声が出るのかと、他人事のように城野は聞いていた。

 止めようとする少女の首根っこをナツミが掴み、追いすがることを許さない。


「やめろ、やめろぉっ! 神崎、お願い、やめてっ!」


 馬乗りになり、抵抗する城野の口をこじ開けながら「心配してもらえてよかったじゃないか」と神崎は羨ましそうに囁く。

 舌を縦方向に挟み、渾身の力を込めて――切った。


「がぁ、あ、あああああああああああッ!!」


 獣のような声が響き渡った。

 口からだらだらと唾液と血が混じる城野を無感動に見下ろす。

 血の付いたはさみを手にしたまま神崎は少女のそばへと戻り、屈んでその耳元に唇を寄せた。


「あなたが殺してあげなかったから、彼はこれから苦しむのですよ。まったく、罪な方です」

「私が…」

「そう、あなたのせいです。そこにいるだけで周りの人間を不幸にする破滅の女ファムファタール


 ゆっくりと少女の髪を撫でてやりながら、神崎は呪いを吐く。


「でも大丈夫ですよ。あなた一人が罪を被る必要はありません」

「……」

「あなたはこれから、おれと一緒にたくさんの人間を殺す。手始めに、お嬢を惑わせた連中から殺しましょう」

「私が、不幸にした?」

「ええ」


 ゆっくりと、言い聞かせる。


「お嬢の母親、父親、それから長谷も死んだみたいですよね。おれも死にかけましたし、これからあの男も国府津も死ぬ」


 彼女は左手で自分の胸あたりを掴んだ。

 一週間ほど前に死んだ、とある少女がいたことを示す傷。

 自分の代わりに死んでしまった、少女。


 それを認識した瞬間――彼女の心は、崩壊した。


 眼から完全に感情が消え、ハイライトも潜んだ。残ったのは暗闇のような瞳。

 人形のように、自我を持たない娘。神崎が望んだ姿。城野が変えようとした存在。


 『鬼姫』が、無感情に神崎を見返した。

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