十九話『少女と神崎』
どうやらお店のようだ、と少女はそこだけ認識する。
だが今は閉店しているのか従業員も客も居らず、いるのは物々しい男たちだけだ。
「冷えますね、お嬢。寒くはないですか?」
少女の横で、にこやかに神崎は言った。
二年ぶりに見るその顔は、記憶にあるものそのままだった。
だけれどなぜこんなに恐ろしいと感じるのだろう。何一つ変わっていないはずだ。笑顔も、態度も、言葉遣いも、ぜんぶ。
自分の在り様が変わったのか――と、少女は考える。
『鬼姫』だったとき、世界はただ過ぎ去るものでしかなかった。横目で流れていく景色を見ながら、ただ神崎の手に引かれて歩いていた。何も感じなかったし、何も思わず進んでいた。
だけどもあの晩、『姫香』になってからずいぶんと世界とのかかわりは変わったのだ。触れ、傷つき、傷つけて、それまでの無機質な生活とは全く違う、めまぐるしい日々を送った。
人が死ぬという、少女にとってのただの日常は、実はその裏で泣く人が居るのだということを知った。深く悲しむ人も、怒り狂う人もいた。
スナッフムービーを見た時、笑ってはいけなかったんだなと少女は今になってぼんやりと思う。長谷がずいぶん楽しそうに解体していたから、可笑しくて笑ってしまったけれど。
ただ連れられて歩いただけのこの足は、いつしか目的をもって動かすようになった。
にぎやかで意味のない会話に耳を貸すようになった。
欲しいものが出来てしまった。
このまま何も変わらなければいいと――願ってしまった。
いつの間にか少女は、人形から人間になっていた。
そしてその変化を神崎は容認しないことも、分かっている。
ここから逃げ出したいのかどうか、少女は混乱していた。
神崎のそばでずいぶん長い時を生きてきた。
城野の場所はたかが二年。
天秤にかけるには、時の重さの差は歴然だ。
だけども、
『ヒメちゃん』と笑ってくれる百子に
『姫香さん』とお菓子をくれる咲夜に
『ヒメ』と名前を呼んでくれる兄に
『姫香さん』と、振り向いてくれる夜弦に
会いたくて仕方がなかった。ここがいることが怖いのだと、縋り付きたいぐらいに。
…もう帰ることは出来ないだろうけど。
「神崎」
「どうしました、お嬢」
「私たち、ここ、何する?」
「サプライズですよ。たぶんお嬢はびっくりすると思いますよ」
唇に、緩く描かれた弧は美しい。
少女はその笑みが偽りだと知っている。相手を丸め込むための手段の一つ。
「サプライズ…」
小さく呟きながら視線を動かす。
神崎を挟んで少女とは反対側にいる女が面白くなさそうに腕を組んでいる。長いピアスがため息とともに揺れた。
確か添田青年に付き添ったパーティー会場で会ったことがある。神崎との関係を匂わせていた女。
実際その通りで、まるで影のように先ほどからぴったりと神崎にくっついて回っている。そうして、少女に親しげに接する神崎を見て悔しそうな表情を作っていた。
神崎と女が少女に向ける感情は、同一どころか正反対だろう。
加えて、少女が女を注視する理由はもう一つ――腰に拳銃を吊っている。ファッションというにはまがまがしすぎる。
戦闘を想定しているということは、少女にもすぐに分かった。なんせ、武力行使が主な探偵事務所だったので。
連絡が入り、神崎はスマホの画面をちらりと見た後に少女へ言う。
「お嬢、準備が出来たようです。行きますか」
神崎は手を差し出してくる。一瞬ためらった後に、少女は自分の手を重ねる。
冷えた少女の手とは対照に、神崎の手は暖かい。気分が高揚しているのかもしれない。
館内は明かりがなく、懐中電灯片手だ。
だがたどり着いた先はバーンドアのついたライトがいくつか置いてありとても明るい。
そしてここにも、大勢の男たちがいる。誰も彼もごろつきといった言葉が似合いそうな連中だ。手には金属バッドだとかパイプを持っており、およそ平和的な雰囲気ではない。
男たちは円を作っており、その中央にぽつりと人が転がっているのが見えた。
「こちらへ。顔が良く見える方がいいでしょう」
どくどくと耳の奥に心臓があるかのように鼓動が騒がしい。
こんなところにいてはいけない人物が、いる。
「…ッ!」
飛び出そうになった言葉を噛み殺す。
周りの空気が動いたことに気づいたのか、転がっている男は緩慢な動作で頭を動かした。
そして、少女を見て男は瞠目する。
「ヒメ…」
組織『鬼』のボスを殺した、男。
城野憲一がそこにいた。『鬼神』と『鬼』の残党に囲まれて。
あまりにも絶望的な状況だと知るのに時間はいらなかった。
――神崎は、少女の目の前で城野を殺すつもりだ。




