十四話『燃える』
爪先、すねとももの外側、背中、そして肩――いわゆる五点着地を百子さんを庇いながら行う。ごろりと地面を一回転して起き上がった。
さすがに誰かを抱えながらしたことはなかったので心配だったけれど、どうにか成功したようだ。擦り傷程度は出来てしまったかもしれないが、十分許容できる範囲である。
事務所を見上げるとナイフを掲げた咲夜が男三人と向かい合っていた。彼女は先頭の男をナイフの柄の部分で殴っている。痛そうだな、あの攻撃。
ふと、最後尾の男が何か持っていることに気づいた。…瓶? 布が詰められているみたいだけど…。
そちらに気を取られているうちに、真ん中にいた男が咲夜に何かをぶっかけた。ここから見ても彼女の表情が焦りに変わる。
男は持っている瓶の口からはみ出た布に、おもむろにライターで火をつける。勢い良く燃え上がった。まずい!
「逃げろ!」
僕が叫ぶと、咲夜は僕たちと同じように飛び降りた。そして五点着地を行う。
そばに来た彼女からは強い刺激臭がする。ガソリンだ。
咲夜を狙って投げられた火炎瓶は事務所のドアに当たり、割れる。そして燃えはじめた。
「事務所が…!」
このままでは火事になってしまう。この辺りに消火器があるところはどこだ!?
動揺のあまり、地の利は完全に頭から消えていた。
男たちは二階から、下にいる僕たちへ向けて火炎瓶を投げつけて来る。瓶に当たっただけでも怪我をするというのに、さらにそこに触れたり割れたりしたら即引火という不利な状況。でも弾丸よりはまだ避けられなくもない。
百子さんの手を引いて逃げながら、どうにかあの火を消せないか考える。
火を消すにはあの襲撃者三人を倒さなくてはならない。階段下から戦いを挑むのは無謀だ。いっそ、銃で撃つか? しかし閑散としている地区とはいえ、民家が連なる場所で銃は…。
くそ、もういっそ突っ込むか?
「消防車呼んで! あたしたちの手には負えない!」
百子さんが叫ぶ。
「逃げよう! 前原さんの車は!?」
「いいんですか!? 事務所が燃えてる!」
所長が、先代所長から継いだところなのに。
彼がここを大事にしているのは百子さんが一番知っているはずだ。
「馬鹿言わないで! あたしたちがこんなところで死んだら、誰があの二人を探しに行くの!」
僕たちの周りは小さいとはいえ燃えていた。葉っぱやごみに引火したのだろう。
さすがに火の動きは読めない。分かることと言えば常に今が一番マシな状況であるということぐらいだ。
決断しなくては。今すぐに。――事務所を守るか、捨てるかを。
つんざく悲鳴とともに襲撃者のひとりが苦しみだした。何かの拍子に火に巻かれたのだ。フリースでも着ていたのかあっという間に全身が炎で包まれる。
百子さんが横で息を飲んだ。咲夜は急かすように僕を見る。
「行こう」
悲鳴を背中で聞きながら、僕たちはその場を走り去った。
少し行くと、四車線の大きな道路に出る。百子さん119番通報をしており、咲夜は「もう来ます」と短く伝えてくる。
僕は僕で来た道を警戒するが、追手の姿はなかった。あんなに用意周到だったのに、追いかける準備はしていないのか。妙だな。
百子さんが通話を切る。住所は正確だが、名前は偽名を使っていた。…今燃えているところの従業員が通報してきたのに、いざ消防車が到着したら誘導はおろが通報者も従業員もみんないないって不審に思われるだろうからな。第三者で電話したほうが後々なにかと楽なのだろう。
彼は深く深くため息をついた。
「…大丈夫ですか?」
「ん? うん…。ちょっとショックなだけ。大丈夫だよ、動けないってわけではないから」
長年の職場は燃え、火だるまとなった人間を見た百子さんの精神状況は「大丈夫」からは程遠いだろう。
だけど、傷を癒すほどの時間は僕らにはなかった。ただ必死に前へと進んでいくしか、生き残る術はないのだ。
「来ました」
いかにも中古といった感じのタウンエースが僕らの前で止まった。
咲夜は助手席に、僕と百子さんは後ろに乗り込む。
運転席にいる前原さんは、車を発進させる前に振り向いて僕を見た。
「やあ、夜弦さん。…『次期当主』としては、はじめましてだな」
「はは…今まで通り接してくれると助かります」
咲夜の身内だもんな、そのぐらいは伝えられているか。
それをここまで隠し通せるあたり、さすが咲夜の同居人だなと思う。肝が据わっているというか。普通の神経をしていたらいつ死ぬかもしれない暗部の女と一緒に住んだりしない。
「このタウンエースはどこから調達してきたのですか? おじさんが持っていること、知りませんでした」
「あわてて近くの中古屋から買ってきた。だってうちマーチしかねえんだもん」
あわてて買えるものなのかな、車。たぶんもろもろの書類契約をすっ飛ばしていると思う。
まあいいや。現にここにあるんだから。
「マーチでも別に良かったと思いますが…。あ、武器を積むことを考えてくださったんですか?」
僕が聞くと前原さんは苦笑いした。
「帰りはふたり、増えるだろ」
……。僕もこんな気配りができる男になりてえな。




