六話『さあ、さいかいしましょう』
…あまりいい夢ではなかった。
そう考えつつ、姫香は額の汗をぬぐいながら起き上がる。
胸の傷が痛み、顔をしかめて動きを一回止めた。
『かみさま』が大部分を受け止めてくれたとはいえ、切っ先は姫香の肉に潜り込んだ。その傷が彼女の体調を不安定にさせている。
いや――それだけが理由でないことを、事務所の人間は皆分かっているだろう。
目覚めた時にはすでに死んでいた少女。
それも、姫香を庇って殺されたのだ。胸を突かれて。
死体はどうなってしまっただろう。百子すら追えないところに回収されてしまったらしい。
「…ッ」
吐き気に襲われて口を覆った。吐いたところで胃液しか出ないような気がした。それぐらい、この数日間食欲がない。
白い髪、白い肌、それらが赤い液体に染まっていく光景が瞼裏によみがえる。
『あなたを庇ってかみさまは死んだんだ』。無常に叫ばれた言葉が鼓膜に鳴り響いた。
どうしてここまで彼女が死んだことに囚われ続けているのか、姫香本人にも理解が出来なかった。今までのように、「変な死に方だな」と他人事のように流すことは出来ない。
せめて悲しみで泣くことができたら、気分も少しは良くなるだろうか。
だが乾ききった涙腺ではそれすらも難しい事のようだ。
しかもショックのせいか、「かみさま」につけた名前を忘れてしまった。何かに関連していた気はするのだが、記憶を掘り起こすことはそれ以上できない。
姫香と少女を繋ぎ合わせるものが喪失してしまったことに焦りを覚える。だがどうすることもできない。手繰り寄せる手段も分からないのだから。
だから今、『かみさま』に関わるものは一本の髪の毛しかない。
いつだったか遺骨ペンダントの騒ぎに事務所が巻き込まれたときに作った、カプセルのついたネックレスに髪を入れている。これだけが、『かみさま』がいたことを示す唯一の証拠であった。
それは今姫香の枕元に置いてある。
ぼんやりとそれを手に取ると、首から下げた。
イヤーカフとチョーカーをつけ、ふらつく身体を無理やり立たせてクローゼットを開ける。一番シンプルなゴシック服を取り出して身支度を整える。
時計を見れば朝の八時半過ぎ。
昨日の夜から今朝にかけてなにやらあわただしい様子の兄が気になっていた。姫香に強く留守番を言い聞かせるといつもより早く出かけてしまった。
夜弦と話をしに行くのだと、考えなくとも分かった。話し合いの日程を組んでいたようだがそれよりも早い。あの夜弦のことだから人の話を聞かずにさっさと行動に移したのだろう。
――このまま黙っていれば、城野も、百子も、咲夜も、夜弦に殺されてしまう。
それは嫌だった。
みんなには生きてほしかった。
なにより、『鬼姫』たる姫香がいなくて過去の話もへったくれもない。
今からでも遅くないはずだ。探偵事務所に向かうことを姫香は決めた。
…たとえ自分が死んでしまうとしても。
夜弦に殺されるのなら本望だから。
この二年間生き続けてきた理由は、きっと彼に引導を渡されたいから――。
靴を履き、一度振り返る。
慣れ親しんだ部屋。ここに戻ることは二度とないはずだ。
じくりと欠けた耳たぶが幻の痛みをはらむ。
嫌な予感を覚えつつも玄関を開けた。
「おっと…」
今まさにチャイムを押そうとしていたらしい男がドアを避けた。
男の顔を見て、姫香の動きは止まる。
「え…?」
黒のパーカーを着、フードを被った男。
その下から覗く、一見すれば誠実そうに見える目つき。その実、獲物を判別せんとする鋭い瞳。柔らかな弧を描く唇。
すべてを、姫香は覚えている。忘れられるわけがない。母親よりも長い時を共に過ごしてきたのだから。
「ああ、よかった。居ることは知っていたのですが、出てきてくれるか不安でしたから」
「なんで…」
血の気が引いていくことを自覚する。
まさか、このタイミングで、ここに現れるとは予想もしていなかった。
「なんで、ここにいる、神崎…!」
神崎はにっこりと笑う。
かつて無知だった時には感じなかった恐怖を、姫香は今確かに感じた。
「お迎えにあがりました、お嬢」




