四話『隣』
百子さんは咲夜さんの代理で来たと言った。「もちろん言われなくても行くつもりだったよ」とは百子さんの弁だ。例え来なくても僕は気にしていなかっただろうし、そんなに気を使わなくてもいいのに。
結果的には、話をしたことで僕は今の気持ちを少しだけ認識することが出来たけれど。
ともあれ咲夜さんからもなんらかの連絡が来るだろうとは予想していた。それは的中し、百子さんが帰って一時間ほどしたころに電話がかかってきた。
うつらうつらしたままスマホを取る。ついでに体温計も脇に差し込んだ。
『こんにちは。様子を見に行きたかったのですが、用事が入ってしまって。具合はどうですか?』
「うん。寝て、食べて、薬飲んで、寝たらだいぶ良くなったかな…あ、熱も下がってる」
37度前半まで下がっていた。身体もさきほどよりは幾分楽になっている。頭痛だけはどうにもならないけれど。
さすがに咲夜さんからの最低限の言いつけ――何か食べろという言葉――を無視したことは正直に言えなかった。百子さんによれば体調が一時的に悪化していたのは「身体のエネルギーが足りなくなっていたんだよ~」とのこと。
病院に行くことも視野に入れていたからほっとしている。
『それは良かったです』
「…咲夜さんこそ大丈夫? なんか覇気がないように思えるけど」
『はぁ。立て込んでいるからですかね。心配には及びません』
「そっか」
こちらのことには首を突っ込むなと言われた気がしたので僕は相槌だけ打つ。
「そうだ、もう少し体調がよくなったら姫香さんの様子を見に行きたいな」
『いいと思いますが、彼女は今だいぶ塞ぎこんでいます。そのことに留意いただければ』
「うん、だろうね…。分かった。ありがとう、咲夜」
『……いいえ。またなにかあったら連絡をください』
なんだか長い間があった。なにか変なことでも言っただろうか。
そう思いながら通話時間の表示されたディスプレイを見てふと気づいた。
僕はいつの間に咲夜さんへ、こんなに砕けた言葉を使っていたんだ?
あれ? でも元はこっちの話し方だった気がする。
探偵事務所に入る前から僕と咲夜さんは一緒に働いていなかったっけ? だって彼女の格闘技はほとんど僕が教えたようなものなんだから。持久力と体力的な部分もあって武器を持つように勧めたのも僕だ。
…咲夜。咲夜さん? あの人は…いったい僕とどんな関係があったんだ。
頭痛を押さえつつ立ち上がる。身体がふらついたので壁に手をついて洗面所まで歩いていく。
鏡を見るとひどい顔だ。やつれ、ひげも生えているし、なによりあんなに寝たのにクマがくっきりと出来ている。このまま街を歩けば警察に呼び止められてしまうかもしれない。
ぼんやりと身体が覚えているままに顔を洗い、髭をそり、顔を上げるといくらかマシな男がこちらを見返していた。どんよりとした瞳だけはどうにもならないようだ。
財布を手に靴をつっかけて玄関から出る。
まだ咲夜さんや百子さんが持ってきてくれた食料はあるがあまり食欲がわかない。なので自分が食べたいものがあれば食べる気も起るだろうと考えてコンビニに向かうことにした。何が食べたいのかは、自分でも分からなかったけれど。
それに外の空気に当たりたくもあった。
もはや見慣れた玄関からの景色を空っぽの頭で眺めていると階段を上る音がして反射的にそちらに身体ごと向ける。
袋が鳴る音。一段一段踏みしめながら登ってくる。かかとの音が甲高いので女性か。
敵かもしれない。このまま部屋に隠れるかそれとも立ち回りを演じるか。いや、この体調では一ひねりされただけで終わってしまう。
一気に登るつもりなのだろう。足音が早くなった。僕の鼓動もいっそう早くなる。
そうしてひょこりと出た頭を見て、
「あっ、夜弦くんなの」
「…岩木さん」
僕は脱力しながら隣人の名を呼ぶ。ヒモの彼氏と同棲している、このアパートでは比較的まともな部類に入る女性だった。
…僕、だいぶ精神的にもキているな。敵かもしれないだなんて。そもそもどうして明るい時間にわざわざ目撃者の多いアパートまで来て殺す必要があるんだ。デメリットが多すぎる。
自然と鋭くなった目つきをごまかすように目をこすっていると岩木さんは首をかしげる。
「…なんかやつれてる?」
「ちょっと具合が悪くて。風邪ですかね」
「風邪のレベルには思えないんだけど…。…嫌なことでも最近あった? 目つきけっこう厳しくなっているよ」
「まあそれは…まあ。でもだいぶ回復したのでこれからご飯を買いに行くところでした」
曖昧に言葉を濁して会話を逸らす。
まさか宗教団体をぶっ壊して所長と喧嘩をしたあげくの熱だとは言えない。誰がそんなことを馬鹿正直に言えるか。ごまかすにしても即興で話を作れるほど僕の頭もそこまで動いていなかった。
僕の様子を見ると岩木さんは触れないほうがいいと察したのかそれ以上は突っ込んでこなかった。
これで話は終わりかと思っていると、ざっと僕の全身を見てから岩木さんは言う。
「これからご飯を調達に行くってことは、まだ食べてないってことでいいんだよね?」
「そうなりますね」
「それじゃあさ」
岩木さんはにこりと笑って僕の腕を取った。
「うちで食べていきなよ。鍋、好き?」
「……彼氏と同棲しているんじゃないですか?」
ベースだかギターを担当しているバンドマンでありヒモの彼氏。
岩木さんが「ともゆき」と呼んでいるので、ともゆきという名の彼氏だと思う。
「してるよ?」
「カップルの愛の巣にお邪魔するのはさすがに…」
「本音は?」
「修羅場になるのは嫌なのでお断りします…」
「あは、大丈夫大丈夫。友幸はヘタレチキンだからそんなことにはならないって」
ともゆき…。
一口だけでも食べて行ってと岩木さんに半ば強引に引き入れられる。
ここで辺に抵抗したらご近所づきあいにヒビが入るだろう。まともな岩木さんと疎遠になるのは嫌なので、少しだけお邪魔したら帰ろうと思った。




