三話『僕』
「なんかすいません」
作ってもらったおじやを見つめながら僕は小さくつぶやいた。
換気のために開けられた窓から十一月の空気が流れ込んできて寒い。五分だけだとあらかじめ百子さんに言われていたのでそのぐらいは我慢しよう。
窓の外を見ていた百子さんは振り向いて微笑んだ。
「謝らなくていいよ~。というかあたしこそ謝らないとね。アパートのスペアキー借りて勝手に入っちゃった」
「いえ…玄関まで行くことも億劫なので…」
たしか所長がスペアキーを持っていたので(失くしそうだからと預かってもらっていた)、彼から借りたのだろう。ここで所長の名を出さないのは僕への配慮か。
食欲はなかったが空腹感はあったので無理やり口に運んで咀嚼する。美味しい。
ぐらぐらとめまいがするので座っている姿勢すら安定しない。見かねた百子さんが僕の背中を支えてくれた。
なんだか咲夜さんが居た時よりも悪化している気がする。これはあれか、やっぱり胃に何も入れないで薬を飲んだ影響だからか。貧弱すぎないか僕の身体。
それかかみさまの夢を見てしまったから、というのもあるだろうな。
「…すみません」
「そんな何回も言わなくていいのに。こういうときは甘えたほうがいいんだよ」
「いえ…その、一昨日の夜、一緒に歩いていた時のこと…」
百子さんは眉を下げ、口を閉じた。何を言っていいのか分からないといった風だった。
窓を閉じ、彼は僕のそばに座る。
「百子さんの歌を聞いて、僕の母親を思い出してしまって…死んでしまったことは思い出していたのですが、なんだかすごく寂しくなったんです」
「うん…」
「でも、おかしいですよね。どうして僕は姫香さんを殺したいなんて言ってしまったんだろう。僕は、僕は、本当は殺したくないのに」
「夜弦くん」
「本来の僕は誰彼構わず殺したい人間なのかもしれない。だから姫香さんのことも殺したいと思ってしまうのかもしれない」
好意だと思っていた感情が、ただの殺意であったなら?
それは――僕がかつて殺した長谷とどう違う? いや、長谷よりもなお悪い。あいつは姫香さんが好きで殺そうとしていたみたいだけど、僕は姫香さんへの感情をはき違えている可能性があるのだ。
「僕は、怖いんです。すっぽりと抜けた過去の「僕」を、今の「僕」は許容できないんじゃないかって」
そうだ、かつて百子さんと買い物に行った時。
僕自身が思い出すことを拒否しているような、そんな感覚を覚えていたではないか。
それは何故だ?
思い出したら、何がある?
「夜弦くん」
僕の手から皿とスプーンを取り上げて横に置くと、百子さんは僕を抱きしめた。
こうして密着してみるとやはり男性なのだと思う。
「あたしはあなたを安心させる言葉を言えない。あたしはあなたを必ず守り通すとは言えない。それでも、」
躊躇いがちに、百子さんは言う。
「夜弦くんはあたしの大事な仲間だから、そばにいることは出来るよ」
都合がいいよね、と百子さんはとても小さな声で付け加えた。
その通りだと思う。
百子さんは僕の味方でも所長の味方でもないと言っていたけれど、最後の選択をせざるを得ないとき、迷わずに所長のところへ行くのだと考えなくても分かる。それぐらいふたりの間には信頼と絆ができている。
かといって僕を見捨てることは出来なくて。
優しすぎるからこそ、彼は苦い決断を迫られ続けている。
僕は百子さんの背に腕を回して同じように抱きしめる。こうして生きている人のぬくもりを感じたのはいつ以来だったか。
「正直、しんどいです。所長はいろいろ隠してるし、咲夜さんも時折僕を監視しているみたいだし、姫香さんは――」
「うん?」
「姫香さんは、僕に殺されたがっているって。そうかみさまが言っていました」
「……聞いたよ。人の繋がりが見える女の子だっけ」
「はい。…僕は彼女を殺したくて、彼女は僕に殺されたい。…これじゃあ…」
僕が姫香さんを死なせてしまう筋書きができてしまう。
それは僕の望む結果ではない。彼女には生きていてほしい。
「あと五日だよ、夜弦くん」
視界の端に白い少女が見えた気がして目をつむる。
「城野憲一がすべてを話す。その時に夜弦くんの記憶が戻るかは分からない。でも、そのとき、きみを苦しめるものに答えが出る――かもしれない」
「けっこう曖昧ですね」
「あたしは未来が見えるわけじゃないから…」
それもそうだ。
僕だって分からないんだから。
「正直、あたしは怖いんだ。夜弦くんが元の夜弦くんになったときにあたしを仲間と思ってくれるのか」
「思いますよ。絶対に」
「…約束はしないでいいよ。来るべきそのときに教えて」
百子さんは身を離す。窓はもう閉めてあるはずなのに僕たちの間に冷たい風が吹き込んだ気がした。
彼は困ったように「おじや、ちょっと冷えちゃったね」と笑った。
あと五日。その日に何が変わってしまうのだろう。




